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武田信玄 上洛を開始(今日は何の日)
武田信玄は、常々「早く西上して天下を取り、まつりごとを正しく行いたい」と強く望んでいました。ですから、足利義昭の要請は、きっかけに過ぎないと思いますが・・・
元亀2年(1571年)2月、武田は織田家との同盟関係を維持したまま、足利義昭の信長包囲網要請を受ける形で、2万5000の大軍を率いて徳川領へ侵攻し、4月15日には、三河国足助城(真弓山城)を攻略します。
しかし当時武田は、上杉・北条・徳川に3方を囲まれている状況で、長期間の遠征を維持することができず、甲斐へと撤退します。
ところが、思わぬ形で東方の憂いがなくなります。
元亀2年の12月、北条氏康の遺言により、跡を継いだ北条氏政は武田と甲相同盟を復活します。これで3方のうちのひとつの憂いがなくなりました。
この年、織田信長は比叡山を焼き討ちにし、浅井・朝倉連合軍との戦いも優位に進めています。
危機迫った足利義昭は翌年・元亀3年(1572)の1月、本願寺顕如を通じ、武田信玄へ織田信長の背後を脅かすよう依頼します。
信玄は、まだ北の上杉謙信からの脅威があったため、本願寺顕如に要請し、越中で一向一揆を起こさせます。こうして戦力を一点に集中できるようになった信玄は、9月29に西上作戦を開始。
そしてついに10月3日、武田信玄は、2万2000の兵力を率いて甲府から出陣しました。
その後、武田信玄は三方ヶ原の戦いで徳川家康を破り、三河に侵攻するも、持病が悪化し、信州駒場で没します。
天下取りを目指して甲府を出陣してから6ヵ月後のことでした。
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武将の書状を手にとって見ることが出来る!? 古書オークション!
会場には、全国の古書業者や収集家、名家から集められた写本や古文書、古地図、錦絵、絵巻物、かるたなどオークションの出展品2185点が展示されます。
博物館ではガラスケースの中に入っている戦国武将の書状も、言葉は悪いのですが、無造作とも思われる風に机の上に置かれていたり、壁に掛けられていて、手にとって見ることが出来るのです!
顔を近づけて見れば、数百年前の武将たちの息遣いや思いが伝わってくることでしょう。
オークションですが、「もちろん見るだけの方も大歓迎」とのこと。
またその場で誰でも入札も出来ます。
最低落札価格は1点10万円で、額などは30万円、屏風は100万円。
出品される品々の一部を挙げると、
伊達政宗書状(安養院宛)
明智光秀・羽柴秀吉・細川幽斉連署状(柴田勝家宛)
上杉景勝書状(武田信廉宛)
直江兼続書状(こより文 奥州田村内紛之件)
徳川家康黒印状(宗対馬守義智宛)
豊臣秀吉朱印状(関白秀次宛)
最上義光書状(羽前国東田川郡下山添村八幡宮宛)
毛利輝元書状(玄修宛)
島津義久書状(伊勢因幡入道宛)
福島正則書状(片桐出雲守旦元宛)
伝春日局書状
山内一豊書状(柏新五宛)
今川氏真書状
蒲生氏郷宛行状
羽柴秀長書状(勝琳坊宛)
豊臣四奉行連署状
前田玄以書状(西洞院侍従宛)などなど。
歴史ファン垂涎の品々ですね~
いったいどのくらいの価格で落札されるのでしょうか?
このなかで私が注目するのは、上杉景勝書状(武田信廉宛)。
この書状の日付は、天正10年頃の3月6日。
天正10年のものとすれば、勝頼が甲斐の天目山で自刃する5日前、武田信廉が殺害される1日前(3月24日説もあり)。
織田・徳川連合軍の甲斐侵攻に遭い、非常に緊迫していたときの書状です。
勝頼と景勝は甲越同盟を結んでいたものの、新発田重家の乱などで余裕がなかった上杉は出兵できず、武田氏は滅亡しました。
何が書いてあるのでしょう?字は読めなくても、その時の緊迫感が伝わってくるのではないのでしょうか。
開場は午前10時~午後6時(14日は午後4時半)。
場所 東京古書会館(東京都千代田区神田小川町3-22)
昨年の様子はこちら
詳細はこちら 東京古典会HP
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「氏郷まつり」で、いにしえの伊勢を満喫!
その氏郷が築いた松坂城の城下町で毎年11月3日(文化の日)に
「氏郷まつり」が行われています。
蒲生氏郷が、伊勢国12万3千石を与えられ松ヶ島城に入城したのが天正12年(1584)。その後、新たに築城したのが松坂城です。 「松坂」の由来は、縁起の良い「松」と、羽柴秀吉の居城・大坂城の「坂」の字を賜って付けたのだそうです。
その後、天正18年(1590)氏郷は、小田原の役の軍功により陸奥国会津60万石の大封を得て会津若松城に移ったので、松坂に住んでいたのは、6年余りということになります。
しかし松阪市民たちは、蒲生氏郷を
「松阪開府の祖」と親しみ称えています。
さて、お祭りのほうは、鯉尾兜(なまずおのかぶと)をかぶった氏郷を中心とする壮大な武者行列をはじめ、碑前祭、楽市楽座、氏郷生涯展、
サンバパレードなど見所も満載!
氏郷の古里である滋賀県日野町の鉄砲隊による古式砲術の実演も行われるようです。
碑前祭 松坂城跡天守閣跡横 松坂開府の碑前 9:00~
武者行列 市役所前出発 正午~
松坂しょんがい音頭と踊り 和田金駐車場出発 12:30~
古式砲術披露
14:00~ 西村商店前(黒田町)
14:35~ 樹敬寺前(新町)
15:20~ ベルタウン前(駅前通り)
※すべて予定とのこと。
■主 催 氏郷まつり実行委員会
■主 管 松阪市観光協会
■お問合わせ TEL:0598-23-7771
ちなみに、11月28日(土)29日(日)の両日には、松阪牛まつりが行われます。
松阪牛のせり市、焼き肉コーナーなど、松阪牛の魅力が満喫できる催しが盛りだくさん、だそうです。
食いしん坊の私はこちらも行きたいですね~
ゆかりの地・史跡
松坂城 三重県松阪市殿町
石垣、天守台、井戸、郭跡が残ります。
特に高い石垣と複雑な縄張りは見事です。
これからの時期、紅葉も楽しめます。
来迎寺 三重県松阪市白粉町512 0598-21-2131
裏門は、松坂城の中門が移築された貴重な遺構。
三井家(財閥)の菩提寺。
拝観は前もって連絡を。
その他、松阪市は第二次世界大戦の戦禍をまぬがれたため、御城番屋敷や石畳など城下町の姿を色濃く残し、寺社仏閣など数多くの文化遺産を見ることが出来ます。
【おすすめの宿】
JR松阪駅から徒歩1分で、「氏郷まつり」をはじめ松阪の観光にとっても便利!
しかも1泊朝食付で3,546円~と超お得!

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上杉景勝が五十公野城を攻略(今日は何の日)
上杉景勝軍の寄せ手は直江兼続、藤田信吉。
上杉景勝31歳、直江兼続27歳の時のことです。
天正15年(1587)年10月13日、景勝は新発田重家領内の五十公野(いじみの)城の東の峰続きに本陣を構え、火矢・大砲で攻めます。
そのときすでに城内には内応者が出ていました。
それは城主・五十公野信宗の側近、河瀬次太夫、羽黒権太夫などでした。
信宗自身も本丸を出て討って出たのですが、藤田信吉隊が木戸に迫ったところで、内通者が城門を開け放ち、藤田軍を引き入れます。
寄せ手は木戸を押し破って乱入、二ノ丸に火を放ったため、やむをえず信宗は本丸に入ろうとしますが、「ニの見橋」の上で内通者の羽黒権太夫が馬上よりこれを引きずりおろし、そこを河瀬らに頸を切られてしまいました。
そして10月24日、城兵一千余も討ち死にし、新発田氏の重要拠点だった五十公野城は落城してしまいました。(10月13日説あり)
そのまま上杉景勝、直江兼続は1万の兵で新発田城を包囲。
新発田勢は家臣共々最後まで戦いますが、ついに新発田重家は城を打って出て、敵陣に突入すると甲冑を脱ぎ捨て、真一文字に腹を掻き切って自刃したといいます。
ここに、7年もの間、直江兼続を悩ませ続けた新発田重家の乱が集結します。
ゆかりの地・史跡
五十公野城址
新潟県新発田市五十公野 新発田市立東中学校裏手
城跡説明板、曲輪跡、堀切、土塁など。
五十公野御茶屋
新潟県新発田市五十公野4926
入場料:無料
休館日/月曜日(月曜日が祝日・振替休日の場合は翌日が休み)、12月1日~3月31日
新発田市役所(生涯学習課):TEL.0254(22)3715(代)
五十公野御茶屋は、新発田藩藩主溝口家の別邸、茶寮として使われた庭園。
現在の建物は1814年(文化11年)建築。1999年(平成11年)に復元修理。新潟県指定有形文化財および国指定名勝です。
奉先堂公園の名称で日本の歴史公園100選にの指定されている、回遊式日本庭園は見事で、日本の美の奥行きを十分に感じさせてくれます。現在の御茶屋は、数寄屋造りの簡素なたたずまい。ゆったりとした気分になれる場所です。
紅葉も素晴らしいところですよ。
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真田六文銭のなめこ
今日、豚汁を作ろうと思ってスーパーに行ったら、
こんなものが・・・
「真田の六文銭」がプリントされた袋に入った「なめこ」です。
真田幸村のふるさと、長野県上田市のなめこでした。
上田市では、なめこが特産品のひとつになっているようですね。
(ちなみに、私が住んでいるのは東京の下町情緒が色濃く残る町)
1袋だと98円なのですが、なぜか2袋買うと100円だったので
もちろん2袋購入。
豚汁になめこを入れるのは初めてでしたが、
汁にとろみが出て、とっても美味しくなりましたよ。
昌幸や幸村も豚汁や猪汁になめこを入れて食べたのか?
気になって調べて見ましたが、
なめこ栽培の歴史は、とても浅いようで
幸村の時代にはなかったようです・・・
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斎藤道三の子・義龍が2人の弟を謀殺(今日は何の日)
斎藤義龍が、なぜ弟2人を殺すに至ったのでしょうか?
斎藤義龍は、「美濃のマムシ」と恐れられた斎藤道三の長男です。
すぐ下の弟が龍重(孫四郎)、その下の弟が龍定(喜平次)で、8つ離れた妹は、信長に嫁いだ濃姫(帰蝶)です。
信長は義理の弟になりますね。
さて義龍の弟殺しは、その出生に端を発したといわれています。
斎藤道三は、大永8年・享禄元年(1528)35歳の時に
土岐頼芸(よりのり)の愛妾(側室)、深芳野(みよしの)を拝領して側室とします。
深芳野は土岐頼芸の側室だったので、正室とはしなかったそうです。
その翌年の享禄2年(1529)、斎藤義龍が生まれています。
実際は、拝領してから7ヵ月後のため、土岐頼芸の子を宿したまま、
斎藤道三の元にやってきたと噂が立ちます。
(斎藤義龍が生まれたのは大永7年(1527)ともいわれています)
道三は、深芳野を拝領してから5年後の天文2年(1533)、小見の方を正室に迎え、
後に小見の方は孫四郎、喜平次を出産しています。
その後、道三は頼芸を美濃から追い出し、国主となりますが、美濃の国人たちは道三に憎悪の念を抱き、美濃は不安定な状態となります。
そこで道三は隠居し、土岐頼芸の子であると噂のある義龍を国主として祭り上げ、家督を譲り、国内の安定を図ったのです。
しかし本当のところは、一番かわいがっていた三男の喜平次を跡継ぎに据え直したいと考えていたようです。
機敏で才能豊な道三にとって、身の丈6尺5寸(約2m)で、
馬上でも地に足が着くほどの巨漢、さらに間抜けな顔をした義龍を、かねてより疎ましく思っていて、弟2人を溺愛していたといいます。
弟2人も次第に兄・義龍を蔑視するようになっていきます。
一方の義龍は、自分は土岐頼芸の子であると信じ始め、父を追放して、自分を疎んじる道三に憎しみを覚えます。
そしてついに道三に対して挑戦状を叩き付けたのです。
それが、天文24年10月22日の、2人の弟の殺害となったのです。
斎藤義龍は仮病を装い、弟孫四郎と喜平次を稲葉山城に呼び寄せ謀殺したといいます。
その後、義龍は道三と戦うことになります(長良川の戦い)。
そして道三は、義龍によって首を斬られ、鼻をそぎ落とされるという無残な最期を遂げる事となります。
これによって義龍は信長を敵に回すことになり、義龍の子・龍興は信長によって滅ぼされます。
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上杉景勝、武田信玄の娘で勝頼の妹・菊姫と結婚(今日は何の日)
10月20日 天正7年(1579)
先日(10月18日)のNHK大河ドラマ「天地人」で上杉景勝の正室・菊姫(比嘉愛末)が41年の生涯を閉じましたが、天正7年の10月20日は、菊姫の輿入れの日です。
天正6年(1578年)3月13日、上杉謙信が死去すると、御館の乱が勃発します。
景虎は中越地方の有力領主の支持を多く得ただけでなく、会津の蘆名氏や関東の北条氏をも味方に付けます。
戦況不利と見た景勝は、武田勝頼に東上総の割譲と一万両を献上し、武田家を味方に付け、跡目争いを優位にしました。
関連記事http://sengoku777.blog23.fc2.com/blog-entry-121.html
この時、景勝側は武田家に対し、信玄の六女で勝頼の妹にあたる菊姫を景勝の正室にする申し入れをしたのです。勝頼はこの申し入れを飲み、景勝と菊姫の婚約が成立します。
そして翌年、天正7年(1579)10月20日、菊姫の越後輿入れが行われました。
上杉家中あげての盛大な婚儀だったといわれます。
菊姫は諸費倹約を奨励し、賢夫人とうたわれ皆に親しまれたといいます。
また、菊姫は上杉家では甲州夫人・甲斐御前と呼ばれました。
菊姫ゆかりの地・史跡
菊姫の墓所
妙心寺 塔頭 隣華院(りんかいん)
京都府京都市右京区花園妙心寺町47
TEL075-462-9042
菊姫の墓碑
春日山林泉寺 山形県米沢市林泉寺1-2-3
TEL0238-23-0601
直江兼続の菩提寺。兼続・お船の墓所。
後年建立された菊姫の墓碑の他、仙桃院や上杉家奥方や家臣の墓所でもあります。
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長宗我部元親が黒瀬城を落とし南伊予を平定(今日は何の日)
10月19日 天正12年(1584)
長宗我部が土佐を統一したのは天正3年(1575)。
天正3年といえば、織田信長がその2年前に浅井・朝倉を滅亡に追い込み、翌年には長島一向一揆を鎮圧、中央で勢力拡大・統一事業を進めながらも信長包囲網に対していた頃です。
そしてこの当時は、長宗我部元親と織田信長は友好関係にありました。
元親は土佐統一後も信長と誼を通じ、領土拡大を目指します。
「一領具足」と呼ばれた半兵半農の強兵を率いて、阿波・讃岐へ進出し、天正8年(1581)までには四国の大部分を平定します。
しかし、その台頭を快く思わない信長と対立するようになり、四国征伐の準備までされていましたが、天正10年(1582)6月、本能寺の変で信長が急死。
窮地を凌いだ元親は、再び四国の平定を進め、天正10年(1582)阿波を掌握。
そして天正12(1584)年10月19日、西園寺公広の黒瀬城を落とし、南伊予を平定します。
そして翌年、河野通直らを降して伊予を制圧し、ようやく四国全土を統一するも、そのわずか数週間後、秀吉による四国征伐がはじまり、10万の兵が押し寄せ、秀吉に降伏、伊予一国の領有となってしまうのです。
信長は生前、元親をこう評していたといいます。
「鳥なき島のコウモリ」
田舎大名だが、油断のならない奴。
ゆかりの地・史跡
黒瀬城 曲輪、石垣、井戸跡などが残ります。
愛媛県西予市宇和町卯之町
JR予讃本線卯之町駅~徒歩10分で登城口
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