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「氏郷まつり」で、いにしえの伊勢を満喫!

文武両道に秀で、羽柴秀吉が恐れたといわれる蒲生氏郷
その氏郷が築いた松坂城の城下町で毎年11月3日(文化の日)に
「氏郷まつり」が行われています。

蒲生氏郷が、伊勢国12万3千石を与えられ松ヶ島城に入城したのが天正12年(1584)。その後、新たに築城したのが松坂城です。 「松坂」の由来は、縁起の良い「松」と、羽柴秀吉の居城・大坂城の「坂」の字を賜って付けたのだそうです。

その後、天正18年(1590)氏郷は、小田原の役の軍功により陸奥国会津60万石の大封を得て会津若松城に移ったので、松坂に住んでいたのは、6年余りということになります。

しかし松阪市民たちは、蒲生氏郷を
「松阪開府の祖」と親しみ称えています。

さて、お祭りのほうは、鯉尾兜(なまずおのかぶと)をかぶった氏郷を中心とする壮大な武者行列をはじめ、碑前祭、楽市楽座、氏郷生涯展、
サンバパレード
など見所も満載!
氏郷の古里である滋賀県日野町の鉄砲隊による古式砲術の実演も行われるようです。


碑前祭 松坂城跡天守閣跡横 松坂開府の碑前 9:00~
武者行列 市役所前出発 正午~
松坂しょんがい音頭と踊り 和田金駐車場出発 12:30~
古式砲術披露 
14:00~ 西村商店前(黒田町)
14:35~ 樹敬寺前(新町)
15:20~ ベルタウン前(駅前通り)
※すべて予定とのこと。

■主 催 氏郷まつり実行委員会
■主 管 松阪市観光協会
■お問合わせ TEL:0598-23-7771

ちなみに、11月28日(土)29日(日)の両日には、松阪牛まつりが行われます。
松阪牛のせり市、焼き肉コーナーなど、松阪牛の魅力が満喫できる催しが盛りだくさん、だそうです。

食いしん坊の私はこちらも行きたいですね~

ゆかりの地・史跡
松坂城 三重県松阪市殿町
石垣、天守台、井戸、郭跡が残ります。
特に高い石垣と複雑な縄張りは見事です。
これからの時期、紅葉も楽しめます。

来迎寺 三重県松阪市白粉町512 0598-21-2131
裏門は、松坂城の中門が移築された貴重な遺構。
三井家(財閥)の菩提寺。
拝観は前もって連絡を。

その他、松阪市は第二次世界大戦の戦禍をまぬがれたため、御城番屋敷石畳など城下町の姿を色濃く残し、寺社仏閣など数多くの文化遺産を見ることが出来ます。


【おすすめの宿】
くれたけホテルシステムズ エースイン松阪
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Tag : 羽柴秀吉 蒲生氏郷 祭り 三重県

戦国最強の水軍を創設した九鬼嘉隆 自刃(今日は何の日)

10月12日 慶長5年(1600)

九鬼嘉隆
戦国最強ともいわれる九鬼水軍の将として
「海賊大名」の異名を取った志摩の大名。

慶長5年(1600)、九鬼嘉隆の子・守隆は、東軍の徳川家康に従って
上杉討伐へ従軍していました。父・嘉隆は家康とは不仲だったため、
石田三成率いる西軍に身を投じます。

関ヶ原の戦いは、9月15日の1日で大勢は決し、東軍の勝利が
確定します。

そして関ヶ原の戦いの後、息子・守隆は家康に、西軍に味方した
父・嘉隆の助命嘆願を必死で行い、ついに家康から父の赦免状を
賜ります。

守隆は、早く父・嘉隆に喜んでもらおうと大坂より急使を走らせます。

一方、父・嘉隆は西軍の敗北を知ると、
答志島に逃れ潮音寺で出家します。

そしてそこへ一人の使者が到着します
それは、守隆からの使者ではなく、守隆の家臣・豊田五郎右衛門が独断で発したものでした。
豊田の使者は、嘉隆が生きていては九鬼家に災い・被害が及ぶと、暗に自決を勧める言上を行います。

嘉隆も「西軍に与した自分のせいで災いが息子に及ぶことは本意ではない」と決意。
慶長5年(1600)10月12日、ついに自刃します。

その直後、四男・主殿助も五男・五郎八も相次いで自刃し、
父の後を追っています。

豊田五郎右衛門は守隆が上杉討伐に行っている間、守隆から鳥羽城の留守居役を命じられていましたが、嘉隆の攻めに遭って鳥羽城を奪われており、嘉隆を怨んでいたといわれます。

これを知った守隆は怒り狂い、豊田五郎右衛門を「のこぎり引き」の極刑に処します。

「のこぎり引き」の刑とは・・・
地中に体を埋めて地上に首から上だけを出し、
竹製の切れ味の悪いのこぎりで、首を少しずつ引いて殺すという
残酷極まりないもの。
織田信長が考案したといわれる、戦国時代の刑罰の中でも
最も酷い処刑方法。


ゆかりの地・史跡
鳥羽城 三重県鳥羽市鳥羽町 石垣、本丸、説明板のみ

答志島(とうしじま)
九鬼嘉隆首塚、九鬼嘉隆胴塚、潮音寺(ちょうおんじ)
和具港もしくは答志港が近いです。
交通:JR東海・近鉄鳥羽駅~徒歩5分~佐田浜港~定期船(リンク)~答志島

おすすめの宿
答志島温泉 寿々波
鳥羽湾を見下ろす絶好のロケーション。
夕日が綺麗な最上階の展望風呂で、答志島温泉湯が楽しめます。
夕食は、伊勢海老アワビなど獲れたて新鮮海の幸を海を見下ろすお部屋で堪能できます。
好評の若女将エステは1日3組予約限定です!

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Tag : 逸話 織田信長 羽柴秀吉 九鬼嘉隆 九鬼守隆 豊田五郎右衛門 徳川家康 三重県 温泉

織田信長、弟・信興の弔い合戦で2万人を殺戮(今日は何の日)

9月29日 天正2年(1574)

  
フィギュア 織田信長

織田信長が石山本願寺を囲んで攻撃した「石山の戦い」は元亀元年(1570)から天正8年(1580)まで11年間も続きました。
そのきっかけは、信長が中国四国征伐をすすめるのに、瀬戸内海航路に便利な本願寺の地に城を築きたいから本願寺を明け渡せと、本願寺顕如に迫ったことに始まります。もちろん本願寺顕如はこれを断り、三好衆や一向衆、浅井朝倉勢を巻き込んでの戦いとなりました。

元亀元年(1570)11月、本願寺顕如の命令で伊勢長島の一向一揆が、尾張小木江城に迫り陥落させ、城主であり信長の弟である織田信興を自刃させてしまいます。

翌年の元亀2年(1571)、信長は信興の弔い合戦のため伊勢長島の一揆を攻めますが大敗。信長は、門徒衆に対して憎悪の炎を燃やし、比叡山を焼き討ちにします。

天正元年(1573)9月、信長は6万の軍勢で、二度目の伊勢長島攻めを開始します。しかし、北伊勢方面を手中に収めるも長島城を攻めることが出来ずに大垣に帰ります。

弟・信興が一揆勢のために割腹して果ててからというもの、信長の憎悪の念はつのる一方でした。

翌天正2年(1574)7月13日、信長は嫡男信忠を従えて、7万の軍勢で3度目の長島征伐を開始。
九鬼嘉隆に命じて、軍船や小船を集め、水軍で長島城を取り囲み、兵糧攻めにします。
海上を大船団で取り囲み、大鳥居城・篠橋城へ寄せた織田の軍勢は大鉄砲で塀・櫓を打ち崩し、間隙を与えず猛攻を加えたといいます。

観念した長島一向勢は、降伏赦免を求めますが、信長は断固として許しません。
8月2日には、大鳥居城に籠城していた一揆勢が夜間風雨に紛れて脱出を図りますが、織田勢はそれを見逃さず、追撃して男女1,000ほどを撫で斬りにします。

長島城を取り囲んでから2ヶ月が過ぎ、長島城内の過半数はその間に餓死していました。もはや抵抗する力も尽き果てた一揆勢は、9月29日ついに降伏開城します。

降伏を許された一揆勢は、それぞれ船に乗って城砦を出ようとします。しかし織田勢は彼らに鉄砲を撃ち、逃げた者は白刃をもって追い、川へ斬り落としていきます。

一揆勢は怒り狂い、7、800ばかりが裸体に抜身一本のみをたずさえて織田勢の中へ突入。織田の陣所を切り崩し、そこから大坂へ逃れたといいます。
この失態をみた信長は、残る砦に対して周囲に柵を幾重にも廻らし、砦の男女2万人を取り囲み、火をかけて焼殺させました。


本願寺顕如が降伏するのは、これから5年後の天正7年(1579)、石山本願寺を明け渡したのは翌天正8年(1580)のこと。
そして本能寺の変が天正10年(1582)。
避けて通れない道とはいえ、11年は長かった・・・

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Tag : 織田信長 本願寺顕如 織田信興 三重県

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