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真田家ゆかりの地で紅葉巡り 温泉三昧

真田幸村の兄である真田信之が初代藩主となり
信州真田家10万石の城下町となった松代。
先週「松代藩真田十万石まつり」で盛り上がった
ばかりの松代ですが、
この街には真田宝物館や、真田邸(新御殿跡)、
菩提寺など、真田氏関連の遺跡が多くあり、
また、武田信玄と上杉謙信の川中島古戦場善光寺も近く、
歴史ファンならずとも訪れたい所です。

そしてこれからの季節、紅葉が素晴らしいスポットでもあります。

松代城(海津城)は、永禄3年(1560)頃、
甲斐の武田信玄が上杉謙信の侵攻に備えて、
家臣の山本勘助に築城させたともいわれています。
永禄4年9月の第4次川中島の戦いでは、
武田信玄の本陣となりました。

武田氏滅亡後、織田氏家臣の森長可の居城となり、
江戸時代に入り、真田信之が入城し、以後、真田家の居城と
なります。

修理復元を行い、現在は江戸時代の姿に
限りなく近い状態で再現され、一般公開しています。

特に真田邸の紅葉は見事です。

真田宝物館・真田邸・松代城
住所 長野市松代町松代4-1
休館 毎週火曜日(祝日を除く)、年末年始
開館時間 9:00~16:30
入館料 大人500円 小中学生200円

長国寺 真田家の菩提寺
真田信之の霊廟(重要文化財)をはじめ、
歴代藩主の墓所、真田幸村・大助親子の供養塔があります。
本堂の屋根の鯱と、その下にある真田家の家紋六文銭が印象的。
長野県長野市松代町松代1015-1
境内無料(真田家墓所・霊廟見学300円、内部特別拝観500円別途)
霊廟の見学は1週間前までに申し込みが必要。

長野善光寺
広い境内の様々な場所で美しい紅葉を見ることが出来ます。
長野県長野市元善町491
026-234-3591
夏期4:30~16:30、冬期6:00~16:00

▽おすすめの宿
国民宿舎 松代荘
歴史の町松代にふさわしく、施設内の日本庭園など
景観にも配慮した公共の温泉宿。


▽おすすめの宿
信州松代ロイヤルホテル
【朝食付】歴史の街!城下町松代へ行こう!プラン






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Tag : 真田幸村 真田昌幸 真田信之 温泉 武田信玄 上杉謙信 長野県

足利義昭から上杉謙信へ上洛を促す書状が届く(今日は何の日)

10月4日 永禄8年(1565)
フィギュア 上杉謙信 Aタイプ
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永禄8年(1565)の永禄の変で、第13代将軍・足利義輝が、松永久秀や三好三人衆らによって惨殺され、将軍の権威は著しく失墜します。

京を支配する松永久秀と三好三人衆を排して幕府権力を回復するため、上洛の機会を窺う足利義昭(義秋)は、諸国の大名としきりに連絡をとります。

上杉輝虎(後の上杉謙信)に対しては、何度となく手紙を送っています。

永禄8年(1565)の8月5日には、謙信に対して、室町幕府再興を表明した書状を送っています。

そして10月4日には、北条氏康と和睦し上洛することを促す書状を、謙信に届けています。

謙信は上洛しませんでしたが、上洛の意思は示したようで、翌年の永禄9年(1565)年3月の、義昭からの書状には、「援軍派遣の意思表示を賞す」といった内容があります。

しかし、謙信には先にやらなければならないことがあったようです。

同年の5月、謙信は、「“武田信玄を討伐して”北条氏政と和睦した後に上洛し三好氏・松永氏を滅ぼし、京都の公方と鎌倉の公方を復興することを祈願」しています。謙信にとっては、「上洛は信玄を破ってから」という気持ちがあったのでしょうか。

足利義昭は諸国の大名に、援軍要請の書状を出していましたが、いずれも上洛に関しては消極的でした。

その中で唯一、積極的に上洛の意思を表明したのが、織田信長でした。
足利義昭は、明智光秀の仲介により、織田信長を頼って尾張へ移ります。

そして、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たしたのは、永禄11年9月のことでした。

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Tag : 織田信長 上杉謙信 松永久秀 三好三人衆 逸話 北条氏康 北条氏政 武田信玄 足利義昭 明智光秀

武田信玄が上野の箕輪城を総攻撃(今日は何の日)

9月27日 永禄9年(1566)

天文21年(1552)、北条氏康に追われた関東管領上杉憲政は、越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、上杉姓と関東管領職を譲ります。
このままだと関東の上野が長尾景虎の支配下となって、越後と上野の両面から領地を脅かされることになる甲斐の武田信玄は、そうなる前に上野侵攻を決意します。

しかし上野の西部を支配する箕輪城は、政略にも優れていた智勇兼備の名将・長野業政(ながの なりまさ)が守っていました。

武田信玄は、弘治3年(1557)上野侵攻を開始しますが、長野業政の巧みな守りに箕輪城を落とすことは出来ず退却。
武田信玄は以後計6度に渡る上野侵攻を繰り返しますが、長野業政は見事にこれを退けたといいます。

信玄は「業正ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と嘆いたといいます。

しかしその長野業政が永禄4年(1561)に病死。業政の死を知ると信玄は大いに喜び、「これで上野を手に入れたも同然」と述べて、すぐに軍を上野に向けます。

まず箕輪城を中心とした一揆の一角、小幡氏が武田に降り、永禄7年(1564)には安中・松井田城、さらに翌年には箕輪城の支城・倉賀野城が落城します。

そして永禄9年(1566)、里見城・雉郷城・鷹留城を落とし、箕輪城を孤立させると9月27日、武田信玄は箕輪城に総攻撃を仕掛けます。
まず若田ヶ原で野戦となりますが、数に勝る武田軍に押されて箕輪城に引き籠りました。

そして9月29日暁より武田軍は箕輪城を攻めます。
箕輪城の城兵は城門を開き打って出ます。しかしその度に討ち死にし、城兵の数も少なくなると、ついに城主・長野業盛は、持仏堂に入り、念仏を三遍唱えて自害。家臣たちもその後を追って自害したといいます。

箕輪城は武田氏の上野経営の拠点と位置づけられ、有力家臣である甘利昌忠、真田幸隆(幸綱)、浅利信種が城代に任じられました。


武田信玄ゆかりの地
箕輪城址 群馬県群馬郡箕郷町西明屋字城山



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Tag : 武田信玄 上杉謙信 群馬県 長野業政 甘利昌忠 真田幸隆 浅利信種 逸話

織田信長、上杉謙信献上の若鷹に感激(今日は何の日)

9月25日 元亀2年(1571)

元亀2年というと、織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちにし、家臣の明智光秀が坂本城を築城しています。その前年の元亀元年には、織田信長は姉川の合戦で、浅井・朝倉を破っています。

元亀2年(1571)1月、織田信長は、陸奥国へ鷹師2名を派遣するため、過書(関所通行の許可証)及び道中の警固を上杉謙信に依頼しています。

そして9月25日、上杉謙信に求めていた若鷹が織田信長の元に到着し、その非情に珍しい様に感激、“秘蔵し自愛する”ことで謝意を表明しました。

この頃の織田信長と上杉謙信は、仲が良かったのでしょうか。
その翌年の元亀3年(1572)、武田信玄に抵抗するため上杉謙信は、申し出のあった織田信長と同盟を結びます。

しかし、天正4年(1576)には、織田信長との同盟を破棄して、反信長包囲網を築き上げ、信長との対立を明らかにしました。


織田信長に仕えていた鷹匠は、現在にも伝承されている諏訪流鷹匠といい、(吉田流という鷹匠も仕えていたようです)明治時代には、宮内省鷹師として鷹匠の中核となり、放鷹術を現代に伝えているといいます。

元亀2年は、織田信長にとっては、とても忙しい年だったでしょう。
頭領として、ストレスも多かったのでしょうか?
鷹狩は、そのストレス解消法のひとつだったのかもしれませんね。



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Tag : 織田信長 上杉謙信 逸話

軍神・上杉謙信を想う越後秘湯の旅

謙信の傷を癒やした温泉
【燕温泉】~新潟県妙高市~

謙信の居城「春日城」に近い、妙高山登山口にある温泉で、
無料の露天風呂に謙信の逸話が残されています。
「黄金の湯」では、謙信が戦で負った傷を癒やし、
「河原の湯」では、多くの将兵が傷を癒やしたそうです。
2つの湯の違いは、「河原の湯」が白濁しているのに対して、
「黄金の湯」は、湯の花が漂う感じ…。
謙信らしく、繊細な趣きの露天風呂が好みだったようですね。


▼おすすめの宿 「燕ハイランドホテル」
謙信ゆかりの露天風呂に徒歩圏内の宿
ブナの森にひっそりたたずむ一軒宿で、
夜には時々、タヌキが顔を出すそうです…。
食の宝庫・越後の山海の幸はもちろん、名水が育む
お米も満喫できる新プランが登場しています!
 (じゃらんnet提供)

テレビ東京「いい旅夢気分」でも紹介された人気の温泉宿です。

▼周辺探訪:城下町で戦国御膳を堪能!
上越市内の日本料理店「松風園」では、戦国時代の
饗宴料理を再現した「謙信公のかちどき飯」に舌鼓!
普段は一汁一菜と質素な食事だったが、ひとたび
出陣となれば、山海の幸を大盤振る舞いしたという。
当時の文献から忠実に再現したサザエ、アワビ、鮎、
黒米などを使った贅沢な膳を味わうことができる!



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Tag : 上杉謙信 温泉 新潟県

第4次川中島の合戦 武田信繁・山本勘助ら討ち死に(今日は何の日)

9月10日 永禄4年(1561)
 
時に武田信玄41歳、上杉謙信32歳。

8月14日、上杉謙信は1万8千の大部隊を引率して春日山城を発ちます。

8月16日、上杉謙信は、5千の兵を善光寺に残し、妻女山に布陣。
武田信玄はこの日、2万の兵を従えて躑躅ヶ崎の館を発ち、
棒道を進軍します。


8月29日、武田信玄は、武田側の最前線、海津城に入城。
その後、10日間ほど、両者動かず、不気味なにらみ合いが続きます。

9月9日、武田信玄は軍儀を開き、軍師・山本勘助が提案した「啄木鳥戦法」を採用し、翌日の対決を決意します。
9月9日は、無病息災を祈る重陽の節句。陣中では菊酒の杯で、必勝を、そして生きて故郷へ帰ることを祈願したでしょうか?
 
そして9月10日、ついに武田軍と上杉軍が激突します。
 
形勢は、武田軍の作戦を見破った上杉軍の優勢で始まります。

奇襲隊が失敗し、逆に不意打ちをくらう格好となった武田信玄は、上杉謙信が「車懸かりの陣」を敷いたため、「鶴翼の陣」で対抗するも、信玄の弟・武田信繁(曲厩信繁)が討たれ、諸角昌清が倒れ、さらに山本勘助までもが壮絶な戦死を遂げてしまいます。
 
この時、上杉謙信は手薄となった武田信玄の本陣に、長刀を振るい斬り込みますが、信玄は軍配でこれを防いだといわれています。
 
前半戦は、上杉軍優位でしたが、武田の奇襲隊が引き返してくると、上杉勢は押され始め、形勢が逆転。押されに押された上杉軍は、犀川を渡り善光寺方面へ敗走します。
武田信玄は、これを追撃せず、第4次川中島の戦いは終わります。
 
 
12年もの長きに渡って続けられた川中島の戦いは、結局「勝負なし」に終わっています。
その間、織田信長は着実に天下統一への基礎を固めていたのです。
 
武田信玄・上杉謙信ゆかりの地・史跡
川中島古戦場 (八幡原史跡公園) 長野市小島田町
信玄・謙信一騎討ちの像はここにあります。


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Tag : 武田信玄 上杉謙信 長野県 川中島の合戦

武田勝頼の痛恨の判断ミス? 徳川家康と北条氏政が同盟を結ぶ 武田家滅亡への序章(今日は何の日)

9月5日 天正7年(1579) 

徳川家康と北条氏政の同盟には、武田勝頼はもちろん、上杉景勝(直江兼続)が大きく関わっています。

天正6年(1578年)、越後国で上杉謙信が死去すると後継者を巡る御館の乱が発生します。
武田勝頼は当初、夫人の実の兄である北条氏政の要請もあり、また夫人の実の兄にあたる上杉景虎を支持していました。

しかし、もう一方の後継者候補である上杉景勝から武田勝頼に対して願ってもない和議の申し入れがあったのです。
それは、和議が成立した際には、上杉景勝から武田勝頼に一万両を献上するというものでした。

いわゆる金での買収という「卑怯」な手段は、上杉景勝を説き伏せた直江兼続の策略であったろうといわれています。

金一両が今のお金にして4万円ほどといいますから、一万両は4億円ということになりますでしょうか。

当時武田家は、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗を喫したうえ、出兵に次ぐ出兵で軍資金が底をついていました。
さらに、武田の財政を支えてきた甲斐・信濃の金山が枯渇し始めたと言われています。武田軍の軍用金の多くが産出されたと伝わる黒川金山(山梨県甲州市塩山)は天正4年(1576)に廃坑となっています。
つまり当時の武田家は、武田信玄が生きていた頃と違い、財政難状態だったのです。

武田勝頼にとっては、まさに魅力的な和睦条件でした。

さらに甲陽軍鑑によると、武田勝頼側近の跡部勝資と長坂光堅(釣閑斎)にも、それぞれ二千両の賄賂が渡されていたとされています。

そして武田勝頼は上杉景勝と甲越同盟を結んでしまいます。

この報を聞いた北条氏政は、武田家との甲相同盟を破棄します。
そして天正7年の9月5日、北条氏政は織田信長・徳川家康と同盟を結びます。この徳川・北条同盟により武田家と北条家は完全に断交に至ります。(北条・徳川の完全な同盟成立は9月13日とも)

結果的に武田勝頼のこの判断は、武田家自体の運命を決めてしまう格好になってしまいました。


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Tag : 徳川家康 北条氏政 上杉謙信 上杉景勝 直江兼続 武田勝頼 山梨県

武田信玄軍、木曾福島城を包囲 木曽義康、降伏し開城(今日は何の日)

8月21日 天文24年(1555)

天文24年3月、武田信玄は自ら兵を率いて松本に進出し、栗原左兵衛、足軽大将・多田淡路らに木曽へ侵入させ、薮原に布陣させます。
4月、武田軍は準備が整い、福島へ攻め込もうとしますが、越後の上杉謙信が川中島へ出陣するという情報が届きます。信玄は、薮原に栗原左兵衛、多田淡路らを残して、川中島へ向かいます。 (第2次川中島の戦い)

多田淡路ら武田軍は福島城を目指し進軍。

迎える木曽軍勢は地形の険峻な天然の要塞を利用し戦い、持久戦となりますが、8月21日、木曽家18代義康は木曽の安全を計り、和議を申し立て、福島城が開城されました。

木曽義康は娘の岩姫を人質として甲府に送り、信玄は三女を木曽義康の息子義昌の妻とし、西の防備を固めました。

その後、木曽氏は武田氏の親族衆として手厚くもてなされたといいます。

ゆかりの地・史跡

木曽福島城址 長野県木曽町福島5703

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Tag : 武田信玄 上杉謙信 川中島の合戦 長野県 木曽義康 木曽義昌 栗原左兵衛 多田淡路

長尾景虎(上杉謙信)出奔、家臣に説得され思いとどまる(今日は何の日)

8月17日 弘治2年(1556)
長尾景虎(上杉謙信)出奔、家臣に説得され思いとどまる

27歳の長尾景虎は、旧師の天室光育に「家臣たちの仲が悪く、言うことを聞いてくれない。国主の役目を果たしていけないので、やむを得ず隠退する」との書状を差し出し、僧のいでたちで早朝、春日山城をあとにします。

目指したのは比叡山とも高野山とも言われています。 

しかし8月17日、追いついた家臣たちに説得され、帰城を承諾します。

説得したのは、上杉景勝の父・長尾政景だったといいます。

弘治2年といえば、前年に武田信玄との「第2次・川中島の合戦」があり、翌年に「第3次・川中島の合戦」があります。 
もしこの時、春日山城に戻っていなければ、激戦となった「第4次・川中島の合戦」はなく、越後の龍・上杉謙信も歴史から消えていたことでしょう。
もちろん「信玄・謙信一騎討ちの像」もありません。 

この行動は本気だったのか? それとも家臣をひとつにさせるためのパフォーマンスだったのか?







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Tag : 上杉謙信 武田信玄 川中島の合戦 長尾政景 逸話

武田信玄、小岩嶽城を攻略(今日は何の日)

8月12日 天文21年(1552)

武田信玄(晴信)は、天文11年(1542)、諏訪頼重を攻めて諏訪氏を滅ぼす事に成功、信濃に勢力を拡大していた。

天文17年(1548)、小笠原長時を塩尻峠の合戦で破った武田信玄は、小笠原氏の残存勢力掃討戦を展開。

天文20年(1551)10月に、武田軍は小笠原軍の最前線だった平瀬城を攻め落とし、中信地方を制圧してしまいます。
 
さらに、南北安曇の中央に位置し、陸海を結ぶ主要街道の宿城として築城された小岩嶽(こいわたけ)城をターゲットにします。
城主は、村上義清に属していた古厩盛兼。
このときの攻撃では小岩嶽城は陥ちず、武田軍は城下に放火して引き上げています。
 
翌天文21年(1552)の7月末、ふたたび武田信玄は小岩嶽城を攻撃。そして8月12日、武田軍の猛攻により小岩嶽城は落城、古厩盛兼は自害しました。武田軍は500人を討ち取り、数え切れないほどの足弱(老人や婦女子)を生け獲ったという壮絶な戦いだったようです。
 
これにより、武田氏の勢力は善光寺(川中島)以北や南信濃の一部を除き、信濃国のほぼ全域に広がる事になったのです。
 
 
武田信玄VS上杉謙信 「川中島の戦い」が始まるのは、このわずか8ヵ月後のことです。



武田信玄ゆかりの地・史跡
小岩嶽城址 長野県南安曇郡穂高町有明嵩下
長野自動車道「豊科」ICより車15分
JR大糸線「穂高」駅から徒歩30分

長野を訪れる際は、使わなきゃ損しますよ!




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Tag : 武田信玄 上杉謙信 古厩盛兼 川中島の合戦 長野県

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