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前田利家VS佐々成政 前田慶次も出陣!(今日は何の日)

天正11年(1583)、羽柴秀吉は、賎ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、信長の三男・織田信孝を自害に追いやり、いよいよ天下取りまであと一歩と迫っていました。

賎ヶ岳の戦いで柴田勝家側についていた越中の守護で富山城主の佐々成政は、秀吉に降伏します。しかし、それはもちろん本意ではありませんでした。

一方、賎ヶ岳の戦いで柴田勝家を裏切った前田利家は、秀吉から加賀二郡を加増され、尾山城(金沢城)に移ります。

織田家を蔑ろにする秀吉に対し、信長の次男・織田信雄は徳川家康を頼り、小牧・長久手の戦いを挑みます。この時、成政は家康と同盟し、越中富山で秀吉に反旗を翻すのです。

天正12(1584)年8月28日、成政は突如、柴田勝家を裏切った前田利家の領内・朝日山砦を攻撃、さらに前田領を南北に分断するため、加賀と能登の境目の要地である末森城を8千の兵で取り囲みます。

9月9日、佐々成政は攻撃を開始。末森城は前田家の奥村永福が守っていましたが、佐々成政の前田家に対する恨みはすさまじく、それが攻撃になってあらわれます。佐々軍は城門をいとも簡単に突破、城内に雪崩れ込み、曲輪を次々に奪っていきます。1500ほどいた城兵を300ほどまでに討ち減らし、末森城を落城寸前まで追い詰めます。

急報を受けた、前田利家・利長はわずか3,000の兵で救援に向かいます。

この3,000の兵の中には、前田慶次(宗兵衛)の名もあるといいます。

 
しかし圧倒的に少ない兵数。前田利家は奇襲攻撃をかけるため、静かに末森城に近づきます。
そして11日未明、突如、佐々軍の背後から前田軍が襲い掛かり、同時に城側からも打って出ます。不意を付かれた佐々軍は鉄砲を乱射して応戦前田勢は銃弾に怯んでしまいます。

しかしこの時、鉄砲隊の猛射の中、前田利家自身が黄金の馬印をうち振り、「敵の銃弾降りそそぐ下で止まったままでは、戦死者が増えるばかりだ。者ども、臆するな、うってかかれ!」と味方を叱咤したといいます。
指揮官の叱咤に応えた前田勢は奮起し、ついに佐々軍は挟み撃ちされる形となり総崩れ、壊滅状態となってしまいました。
佐々成政はこれを見て富山に兵を引きます。

前田利家は、その後も上杉景勝らと連絡をとりながら越中を攻撃。
佐々成政の富山城攻めの際には先導の役を果たし、秀吉が10万の大軍を率いて攻め込むと成政は降伏。

佐々成政はほとんどの領土を没収され、前田家は三ヶ国を領する大大名となり、信長配下では同僚だった成政と利家の明暗はくっきりと分かれました。

ゆかりの地・史跡
朝日山砦 石川県金沢市加賀朝日町
末森城 石川県押水町末森山


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Tag : 前田利家 佐々成政 石川県 柴田勝家 羽柴秀吉 奥村永福 前田慶次

佐々成政、越中国富山城を明け渡し、羽柴秀吉陣所に投降(今日は何の日)

8月26日 天正13年(1585)

佐々成政(さっさ なりまさ)は14歳で織田信長に仕え、朝倉氏討滅、長篠の戦い、石山本願寺の一向一揆攻撃に功績をあげ、天正3年、柴田勝家の与力となりました。
そして天正9年、富山54万石を与えられ、越前小丸城から越中富山城に移ります。

佐々成政の人生は、織田信長の死をきっかけに崩れていきます。

天正10年、織田信長が本能寺の変で自刃すると、佐々成政は柴田勝家に味方します。しかし賤ヶ岳の戦いで柴田勝家は敗れて自害。成政は徳川家康と結びます。
しかし、その家康は、小牧・長久手の戦いで政治的勝利を治めた秀吉に屈服してしまいます。
そして羽柴秀吉は、小牧・長久手の戦いで徳川方についた諸将への討伐を開始するのです。 

天正13年8月8日、佐々成政征伐のため、秀吉は自ら大軍を率いて京を出陣します。
8月17日には、前田利家が佐々成政に対する総攻撃のために長連龍らへ来援を要請しています。

越中に入った秀吉軍は要所を放火して周り、越後の上杉景勝も秀吉に呼応して出兵。富山城は10万もの大軍で包囲されてしまいます。

そして8月26日、ついに佐々成政は富山城を明け渡し、織田信雄を頼って羽柴秀吉陣所に投降します。この時、成政は剃髪して恭順を表したといいます。

秀吉は、成政のほとんどの所領を没収して富山城を破却、前田利長に与えます。
そして佐々成政は御伽衆(おとぎしゅう)として秀吉に仕えることになりました。


ちなみに佐々成政は、小牧・長久手の戦いのあと、家康を再び挙兵させて秀吉と対立させるため、あの有名な「さらさら越え」という暴挙に出ます。
敵の領地を避け、家康のいる浜松まで行く方法が、立山連峰を越えて信州に出るという無謀とも思える、厳冬の中の北アルプス横断だったのです。
(家康と会見したものの、結局願いは叶いませんでした)

 

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Tag : 佐々成政 織田信長 本能寺の変 小牧・長久手の戦い 羽柴秀吉 前田利家 徳川家康

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