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上杉景勝から直江兼続へ、長谷堂城からの撤退命令が届く(29日説あり)(今日は何の日)

9月30日 慶長5年(1600)

西と東の出来事を、日を追ってみました。

9月15日、関ケ原の戦いはこの一日で決します。
しかし奥羽ではこの9月15日、直江兼続率いる上杉軍が、最上領の長谷堂城へ攻撃を開始しています。
この一度目の攻撃で、最上勢は、200~300の将兵が討死。
危機迫った最上義光は、伊達政宗に援軍を求めます。

9月16日、伊達政宗は、留守政景らを援軍とすることを決定。
9月17日、長谷堂城の最上勢が、上杉陣を夜討ちし、首150余をあげます。
9月20日、最上義光の妹・義姫が留守政景宛てに、一刻も早い援軍出動を催促。

9月21日、石田三成が、伊吹山の山中で東軍の捜索隊に捕らえられています。

9月24日、上杉軍が、長谷堂城に2度目の攻撃。伊達軍もようやく出陣します。

9月27日、徳川家康、大坂城入城。戦後処理を開始。

9月29日、上杉軍、長谷堂城に3度目の攻撃。

9月30日、上杉・最上両軍に、関ケ原合戦の結果が到着。
(上杉景勝から直江兼続に知らせが届いたのは29日とも)

10月1日、石田三成、小西行長、安国寺恵瓊が京都六条川原で処刑。
この日、上杉軍、長谷堂より撤退を始めます。
直江兼続が殿軍を務め、前田慶次が奮戦した撤退戦です。
撤退戦での死者は両軍合わせて2000人ともいわれています。

10月3日、直江兼続、荒砥城(山形県白鷹町)へ帰陣。
10月7日、最上領内の戦闘がようやく終息しています。
そして10月8日、上杉全軍が撤退完了。

先週の大河ドラマ「天地人」は、まさにこのあたりでしょうか。
前田慶次は登場しませんでしたが。

長谷堂城を守っていたのは当初1,000あまり。対して長谷堂城を囲んだ直江兼続の軍は1万8000とも。しかし落城させられなかったのは、長谷堂城城主・志村光安の活躍が大きいのですが、直江兼続にその気がなかったのでしょうか?

関ヶ原での決着後、もしも上杉が撤退せずに、最上を破り、伊達と結託し西へ軍を進めていたら・・・?
この時点では、時すでに遅しか・・・。

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Tag : 逸話 直江兼続 最上義光 伊達政宗 留守政景 石田三成 徳川家康 前田慶次 上杉景勝

直江兼続・前田慶次 奥羽の関ヶ原(今日は何の日)

9月13日 慶長5年(1600)

上杉景勝の家臣・直江兼続の直江状を読んだ徳川家康は上杉家討伐を決意し、大坂城を離れ下野の小山までやって来ます。
そして家康は上杉領に隣接する諸大名に対しても出動命令を下します。伊達政宗には北東の信夫から、最上義光には北の米沢から、仙道口を佐竹義宣に、西の津川口を前田利長・堀秀治に、そして家康自身は白河から。

しかしそこへ、家康の思惑通り、石田三成の挙兵の知らせが入り、家康は上杉の警戒を最上義光と伊達政宗に任せ江戸城に引き返し軍を整えます。

徳川家康に命ぜられた最上義光は、上杉領の酒田城を攻めようとします。
それに対し上杉は最上領への侵攻を決定。直江兼続を総大将として2万の軍勢が先制攻撃をしかけます。

直江兼続の主力軍は、最上領の最前線にある支城・畑谷城へ南側から攻め入ります。

一方、簗沢にまわった前田慶次の軍は、簗沢城を攻め(実際は明け逃げ)、村を焼き払い北側から畑谷城へ攻め上ります。

畑谷城を守るのは江口光清とわずか300の兵。

最上義光は「城を放棄して逃げよ」と江口光清に指示を出しましたが、江口光清は聞き入れず、徹底抗戦の構え。
直江軍からも無益な戦いをしたくないと、城の明け渡しを迫りますが、江口光清はこれを拒絶。「この城が欲しいなら、戦って取るがよい。上杉の習いはいざしらず、最上の武士は最後の一人になろうとも、城を明け渡すことはない」(奥羽永慶軍記)と300の兵で直江軍2万の軍勢に斬りかかります。

しかしやはり数の上でかなわず、9月13日、畑谷城は4時間で落城。江口光清は自刃、300の兵も一人として生き残らなかったといいます。

直江兼続は、この時の様子を秋山伊賀守宛ての手紙で、
「去る十三日、最上領畑谷城を乗り崩し、撫で斬りを命じて、城主江口五兵衛父子含めて、首を五百余り討ち取った。簗沢の城も空け逃げ、在々に放火し、昨十四日には最上の居城に向かい陣を構えている……」と書いています。「撫で斬り」とは、つまり、女子や子供なども切り捨てたということですが・・・兼続が虐殺を行ったのどうか、その事実は今となっては分かりませんが、とにかく江口光清の抵抗により、壮絶で悲惨な戦いとなったのでしょう。

直江兼続はその後、軍を長谷堂城へ向けます。

ゆかりの地・史跡
畑谷城(はたやじょう) 山形県東村山郡山辺町大字畑谷
城の麓にある長松寺に江口光清父子らの墓があります。

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Tag : 直江兼続 前田慶次 逸話 江口光清 山形県

前田慶次 【かねたん号で慶たんに会いに行こう!?】

米沢藩ゆかりの武将・直江兼続と前田慶次に関係する史跡などを巡る定期観光バスツアー「かねたん号」の運行が7月18日から始まっています。 

かねたん号は定員25人。11月23日までの土日祝日に1日1回、
計45回運行します。午後1時半に米沢駅を出発。
約3時間の行程で、兼続やお船らの墓がある春日山林泉寺、

直江石堤、慶次の供養塔がある堂森善光寺など、

市内6カ所を巡ります。

料金は大人2000円、子ども1800円。(寺社などの入場料も含まれる)
《2009年7月19日付 山形新聞より》

◆ちなみに「かねたん」とは、米沢市のマスコットキャラクター。
っぽい感じの甲冑キャラです。プロフィールは…
・性別:男の子
・年齢:ずっと子いぬ
・趣味:おさんぽ
・好きな言葉:「愛は金で買える」(うそです

◆前田慶次のエピソードの中に、利家おじさんの
影武者になるという大役を任された際、敵の前で
「我こそは、利家の影武者じゃー!!」
と名乗りをあげちゃった話しがありますが、
ひょっとしたら、敵が「こいつわざと?…もしかしたら本物かも?…」
っていうかく乱を目論んでいたのでは。(新説?)
クラスに必ずいましたよ。バカやってるのにスゴイ頭良いやつ。
さらに女にもてるという…うらやましかったなー
そのタイプだな、慶次殿!!

《「かねたん号」の予約申込みは…》
平日・(有)ジェイ・ツアーズ 電話0238-36-1080
土日祝日・山形県総合観光案内所 電話090-4633-1285

 

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Tag : 前田慶次 直江兼続 前田利家 逸話

前田利家VS佐々成政 前田慶次も出陣!(今日は何の日)

天正11年(1583)、羽柴秀吉は、賎ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、信長の三男・織田信孝を自害に追いやり、いよいよ天下取りまであと一歩と迫っていました。

賎ヶ岳の戦いで柴田勝家側についていた越中の守護で富山城主の佐々成政は、秀吉に降伏します。しかし、それはもちろん本意ではありませんでした。

一方、賎ヶ岳の戦いで柴田勝家を裏切った前田利家は、秀吉から加賀二郡を加増され、尾山城(金沢城)に移ります。

織田家を蔑ろにする秀吉に対し、信長の次男・織田信雄は徳川家康を頼り、小牧・長久手の戦いを挑みます。この時、成政は家康と同盟し、越中富山で秀吉に反旗を翻すのです。

天正12(1584)年8月28日、成政は突如、柴田勝家を裏切った前田利家の領内・朝日山砦を攻撃、さらに前田領を南北に分断するため、加賀と能登の境目の要地である末森城を8千の兵で取り囲みます。

9月9日、佐々成政は攻撃を開始。末森城は前田家の奥村永福が守っていましたが、佐々成政の前田家に対する恨みはすさまじく、それが攻撃になってあらわれます。佐々軍は城門をいとも簡単に突破、城内に雪崩れ込み、曲輪を次々に奪っていきます。1500ほどいた城兵を300ほどまでに討ち減らし、末森城を落城寸前まで追い詰めます。

急報を受けた、前田利家・利長はわずか3,000の兵で救援に向かいます。

この3,000の兵の中には、前田慶次(宗兵衛)の名もあるといいます。

 
しかし圧倒的に少ない兵数。前田利家は奇襲攻撃をかけるため、静かに末森城に近づきます。
そして11日未明、突如、佐々軍の背後から前田軍が襲い掛かり、同時に城側からも打って出ます。不意を付かれた佐々軍は鉄砲を乱射して応戦前田勢は銃弾に怯んでしまいます。

しかしこの時、鉄砲隊の猛射の中、前田利家自身が黄金の馬印をうち振り、「敵の銃弾降りそそぐ下で止まったままでは、戦死者が増えるばかりだ。者ども、臆するな、うってかかれ!」と味方を叱咤したといいます。
指揮官の叱咤に応えた前田勢は奮起し、ついに佐々軍は挟み撃ちされる形となり総崩れ、壊滅状態となってしまいました。
佐々成政はこれを見て富山に兵を引きます。

前田利家は、その後も上杉景勝らと連絡をとりながら越中を攻撃。
佐々成政の富山城攻めの際には先導の役を果たし、秀吉が10万の大軍を率いて攻め込むと成政は降伏。

佐々成政はほとんどの領土を没収され、前田家は三ヶ国を領する大大名となり、信長配下では同僚だった成政と利家の明暗はくっきりと分かれました。

ゆかりの地・史跡
朝日山砦 石川県金沢市加賀朝日町
末森城 石川県押水町末森山


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Tag : 前田利家 佐々成政 石川県 柴田勝家 羽柴秀吉 奥村永福 前田慶次

前田慶次 【慶次V.S兼続 歌で激突!?】

インテリ婆娑羅!前田慶次

米沢直江会監事で元県議の野村研三さん(62)が、
直江兼続と、その盟友の前田慶次の関係にスポットを当てた
「雲龍の出遭(であい)」を出版しました。
雲龍の出逢 

500円 米沢市内の書店などで発売中

ともに武勇に優れ、古今典籍にも通じた文武兼備の将として
知られる両雄。兼続の漢詩や書状、慶次の和歌、日誌などの
資料を通じ、それぞれの生身の人間像をクローズアップさせている。
メーンとなるのは、慶長7(1602)年、亀岡文殊堂で開かれた
「亀岡文殊奉納詩歌の会」で詠んだといわれる兼続の漢詩7首と、
慶次の和歌5首。
( 2009年1月14日付 山形新聞より )

◆亀岡文殊堂(高畠町)の“文殊”は、もんじゅの知恵の文殊。
学問の神で知られる徳一上人が開いたお寺で、
合格祈願者が数多く訪れるそうですよ。
慶次・兼続ともに、男女の恋花鳥風月を題材にした
作品を残し、文人としてかなりの腕前だそうです。

◆かの前田利家おじさんを騙して水風呂に入れ
絶叫させた問題児が、すごい変わりようですね~
でも年表で確認したら、50歳前後の出来事!
若々しさというか、少年の心というか、
見習いたいものです…

《書籍に関する問い合わせ》
発行元・新産業開発研究所0238-26-7050


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Tag : 前田慶次 直江兼続 書籍 山形県 逸話

「天地人」に前田慶次は登場しない・・・?

ネット上で調べてみると、直江兼続の盟友・前田慶次は、どうやら登場しないようですね。「キャストは高橋克典に決定」なんて騒がれたりもしましたが。

前田慶次が登場しないとなると、「
長谷堂城の戦い」はどう描くのでしょうか?
旧日本軍参謀本部の「日本戦史」でも取り上げられるほど見事な、前田慶次が殿軍を務めた撤退戦はどう描くのでしょうか?
自害しようとする直江兼続を、前田慶次が諫める場面はどう描くのでしょうか?

天下分け目の関ヶ原の合戦は、関ヶ原だけで起きたものではなく、日本全土で起きていました。そのなかでも、奥羽の戦、つまり上杉家と最上家・伊達家の戦は、関ヶ原の合戦の勝敗を大きく左右するものでした。

徳川家康は、東を最上義光と伊達政宗に任せ、後方の憂いをなくして西上しました。
もしも、最上家・伊達家の抵抗がなければ、上杉軍は西に向かい、石田三成とともに徳川家康を挟み撃ちに出来たかもしれず、戦局は大きく変わっていたのです。

また数分数秒のナレーションで済ませてしまうのでしょうか・・・

新発田重家の乱もなければ、前田慶次も登場しない・・・

Yahoo!の番組感想のグラフは、去年の篤姫のグラフを逆さまにしたようになっちゃってます。

この期に及んでも、NHKのサプライズを期待していますが・・・

 

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Tag : 直江兼続 前田慶次 上杉景勝 伊達政宗 最上義光 石田三成 徳川家康 新発田重家 山形県 NHK

前田慶次 【味覚の秋にピッタリのイベント!】

インテリ婆娑羅!前田慶次 

米澤前田慶次の会主催「月見の会」 
開催日 2009年9月27日(日) 

前日の9月26日(土)は午後6時から松川河川敷で
「夜の川中島」のイベントが行われます。 
米沢へ1泊して、翌日前田慶次と月を見ながら
「米沢名物いも煮会」なんてどうですか。
 

 会費は、1名3,000円です。
 HPから御申込み下さい。米澤前田慶次の会HPはこちら
 米澤前田慶次の会

 締切は9月14日(月)までです。
 

 午後13時30分 堂森善光寺集合
 午後14時30分 前田慶次供養塔前で供養、読経、焼香
 午後15時    道中日記解説の講演
 午後16時    月見の宴(いも煮会)イベント企画募集中
( 米澤前田慶次の会H.Pより )

◆前日に行われる一大イベント“夜の川中島合戦”
なかなか見ごたえがありそうですね!
上杉戦国絵巻夜の陣

直江兼続に惚れて上杉家に仕えた慶次ですが、
初目見えの際に持参したのが“大根三本” 

「この大根のように見かけはむさ苦しいが、
 噛めば噛むほどいい味がでる拙者でござる」

と、真顔で言ったそうですね…
これをヘラヘラしながら言ったら軽~く見られそうです。
表情も言葉以上に人の心を動かす、彼の“武器”
だったのかもしれません。

 

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Tag : 前田慶次 山形県 川中島の合戦 祭り 逸話 名言

織田四天王・滝川一益 逝く (今日は何の日)

9月9日 天正14年(1586)
 
滝川一益は、近江甲賀の出身で、浪人中を織田信長に拾われたと伝わります。
武功によって出世し、織田四天王にまでのぼりつめた織田家中の重鎮で、豪放磊落な武将として知られています。
その戦いぶりも勇猛で、先鋒でも殿でも、一益に任せておけば安心だと信長にほめちぎられました。
 
永禄12年(1569)伊勢北畠氏の攻略や、天正2年(1579)伊勢長島一向一揆征伐での武功を認められ、長島城と北伊勢などの支配権を与えられました。
この頃には、宿老として名を連ねるまでに出世しています。
 
天正10年(1582)には、甲斐武田の征伐を企画、一益自身も軍監として出陣し、武田勝頼を天目山に追いつめ討ち取り、関東管領の栄職につきます。
 
しかし、本能寺の変後の北条氏との神流川の戦いで大敗。滝川軍1万8千、北条軍5万が激突したこの戦は、戦国史上、関東で最大の戦といわれ、滝川軍は3,760名もの死者を出しました。
さらに羽柴秀吉との織田家後継者争いにも敗れ、剃髪し越前大野に蟄居します。
 
そして越前の小さな所領で、晩年を穏やかに過ごし、
天正14年の9月9日、亡くなりました。享年62。
 
関東管領として上野の厩橋城に住んでいたときのこと。
山で鶴と雀を見つけた一益は、しばらく眺めたあと、静かに近臣にこう言ったといいます。
【滝川一益 名言】
『我らが昼夜の心遣い察して見よ。汝らは鶴を羨まず、雀の楽しみを候え』。
(鶴は、我ら大名のように常に周囲を警戒しながら餌を食べ、寸部の油断もない。大名はわずかの間も気楽に過ごすことはできない。それに比べて、雀は人がいても平気で餌を食い、仲間同士で遊んでいる。お前たちは雀の楽しみを味わうが良い)
 
大名としての生活に疲れていたのでしょうか。
織田四天王にまでのぼりつめた一益の言葉。その立場になってみなければ言うことができません。そう、その立場になってみなければ・・・!
 
 
今週特集している前田慶次は、一益の甥っ子とも実子とも言われています。
(加賀藩史料)
 
ゆかりの地・史跡
厩橋城(前橋城) 群馬県前橋市大手町1丁目 
石垣、土塁、堀などの一部が現存します。
 
滝川一益墓所
高野山金剛峯寺 和歌山県伊都郡高野町高野山132
信楽寺 島根県松江市竪町88
妙心寺 京都府京都市右京区花園妙心寺町64


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Tag : 織田信長 滝川一益 前田慶次 逸話 名言 群馬県 島根県 京都府

前田慶次 天下御免の供養塔!

インテリ婆娑羅!前田慶次 

出羽之国「堂森善光寺」にて
毎月4日に前田慶次郎月命日供養
米沢善光寺 
前田慶次が埋葬されたと伝えられる善光寺では
彼の御霊を祀る供養塔が建立されています。
~碑文(部分)~
慶長五年、最上討伐には直江と共に出陣、
大いに戦い殿軍をつとめ完全撤退を果たして、
戦史に名を留めた。後、この地堂森に居を賜り、
邸を無苦庵とよび悠々自適この地を愛し郷民と親しみ、
慶長十七年六月四日七十歳の生涯を閉じた。


◆善光寺境内には慶次が力試しをした際に持ち上げた
「慶次の力石」があります。史実では60歳を超える
年齢…。無茶してますねー、慶次殿!
本堂内では、かなり「慶次グッズ」が充実、
モバイルサイトでは「善光寺限定・慶次郎殿待受け画像」の
プレゼントも実施中ですよ!
http://www.doumorizenkoji.com/mobile.html

【前田慶次 名言】

◆慶次が米沢に来る前、諸大名から「高禄(高給)で召し抱えたい」と
かなりの誘いがあったそうですが、彼はこれを断りました。 
「たとえ大大名たりとも、心のままにならなければ、
            卑しい男となんら変わりはない」
 
 地位や金はどうでもいい…これが“慶次流”だったらしいです。
 すがすがしいお言葉、ありがとうございます。



前田慶次ゆかりの地・史跡

米沢堂森善光寺 山形県米沢市万世町堂森山下375 電話:0238-28-1638



    


米沢のホテル情報も、もちろん満載です!

 

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Tag : 前田慶次 逸話 名言 山形県

インテリ婆娑羅!前田慶次 【秋の米沢「前田慶次展」のお知らせ!】

今週は、前田慶次に関する最新情報とともに名言や逸話を特集します。

前田慶次展 

前田慶次展

宮坂考古館(山形県米沢市)

開催日:平成21年9月1日(火)~11月3日(火) 

直江兼続を支えた、天下御免の傾寄者(かぶきもの)
前田慶次展開催中!

◇花の慶次リトグラフ展同時開催!
◇企画展示品
 道中日記、堂森秋月図、上田士籍(上杉文書)
 (上記3点は、9/19(土)~10/18(日)まで
 甲冑、槍、面ほか

( 
米沢観光物産協会公式H.Pより )

◆前田慶次が晩年を過ごし骨を埋めた地・米沢は、
「天地人」効果もあって、かなり盛り上がってる
みたいです。
さんざん無茶した若い頃に比べ、米沢時代は
「無苦庵」で風流を愛して過ごす“静”の面が
顔を出します。
関ヶ原の戦いの直後、前田慶次が伏見から米沢に
向かう際に綴った「道中日記」には、こんな歌が
記されていました。
 

誰ひとり浮世の旅をのがるべき
             のぼれば下る逢坂の関

◆街道の山越えの苦難は、誰ひとりとして逃れられない
人生の“苦しみ”や“悲しみ”みたいなもんだ…
っていう感じですかね。
考えさせられる永遠のテーマなんですね~。
個人的には、「誰ひとり」ってところが響きます。



米沢天地人博2009ほか東北縦断のツアーはこちら↓↓↓


 

 

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