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足利義昭から上杉謙信へ上洛を促す書状が届く(今日は何の日)

10月4日 永禄8年(1565)
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永禄8年(1565)の永禄の変で、第13代将軍・足利義輝が、松永久秀や三好三人衆らによって惨殺され、将軍の権威は著しく失墜します。

京を支配する松永久秀と三好三人衆を排して幕府権力を回復するため、上洛の機会を窺う足利義昭(義秋)は、諸国の大名としきりに連絡をとります。

上杉輝虎(後の上杉謙信)に対しては、何度となく手紙を送っています。

永禄8年(1565)の8月5日には、謙信に対して、室町幕府再興を表明した書状を送っています。

そして10月4日には、北条氏康と和睦し上洛することを促す書状を、謙信に届けています。

謙信は上洛しませんでしたが、上洛の意思は示したようで、翌年の永禄9年(1565)年3月の、義昭からの書状には、「援軍派遣の意思表示を賞す」といった内容があります。

しかし、謙信には先にやらなければならないことがあったようです。

同年の5月、謙信は、「“武田信玄を討伐して”北条氏政と和睦した後に上洛し三好氏・松永氏を滅ぼし、京都の公方と鎌倉の公方を復興することを祈願」しています。謙信にとっては、「上洛は信玄を破ってから」という気持ちがあったのでしょうか。

足利義昭は諸国の大名に、援軍要請の書状を出していましたが、いずれも上洛に関しては消極的でした。

その中で唯一、積極的に上洛の意思を表明したのが、織田信長でした。
足利義昭は、明智光秀の仲介により、織田信長を頼って尾張へ移ります。

そして、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たしたのは、永禄11年9月のことでした。

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Tag : 織田信長 上杉謙信 松永久秀 三好三人衆 逸話 北条氏康 北条氏政 武田信玄 足利義昭 明智光秀

武田信玄 上洛を開始(今日は何の日)

10月3日 元亀3年(1572)


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武田信玄は、常々「早く西上して天下を取り、まつりごとを正しく行いたい」と強く望んでいました。
ですから、足利義昭の要請は、きっかけに過ぎないと思いますが・・・

元亀2年(1571年)2月、武田は織田家との同盟関係を維持したまま、足利義昭の信長包囲網要請を受ける形で、2万5000の大軍を率いて徳川領へ侵攻し、4月15日には、三河国足助城(真弓山城)を攻略します。
しかし当時武田は、上杉・北条・徳川に3方を囲まれている状況で、長期間の遠征を維持することができず、甲斐へと撤退します。

ところが、思わぬ形で東方の憂いがなくなります。
元亀2年の12月、北条氏康の遺言により、跡を継いだ北条氏政は武田と甲相同盟を復活します。これで3方のうちのひとつの憂いがなくなりました。

この年、織田信長は比叡山を焼き討ちにし、浅井・朝倉連合軍との戦いも優位に進めています。

危機迫った足利義昭は翌年・元亀3年(1572)の1月、本願寺顕如を通じ、武田信玄へ織田信長の背後を脅かすよう依頼します。

 

フィギュア 武田信玄


信玄は、まだ北の上杉謙信からの脅威があったため、本願寺顕如に要請し、越中で一向一揆を起こさせます。
こうして戦力を一点に集中できるようになった信玄は、9月29に西上作戦を開始。
そしてついに10月3日、武田信玄は、2万2000の兵力を率いて甲府から出陣しました。


その後、武田信玄は三方ヶ原の戦いで徳川家康を破り、三河に侵攻するも、持病が悪化し、信州駒場で没します。

天下取りを目指して甲府を出陣してから6ヵ月後のことでした。


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Tag : 武田信玄 織田信長 徳川家康 本願寺顕如 足利義昭 北条氏政 北条氏康 山梨県 愛知県 静岡県

武田勝頼の痛恨の判断ミス? 徳川家康と北条氏政が同盟を結ぶ 武田家滅亡への序章(今日は何の日)

9月5日 天正7年(1579) 

徳川家康と北条氏政の同盟には、武田勝頼はもちろん、上杉景勝(直江兼続)が大きく関わっています。

天正6年(1578年)、越後国で上杉謙信が死去すると後継者を巡る御館の乱が発生します。
武田勝頼は当初、夫人の実の兄である北条氏政の要請もあり、また夫人の実の兄にあたる上杉景虎を支持していました。

しかし、もう一方の後継者候補である上杉景勝から武田勝頼に対して願ってもない和議の申し入れがあったのです。
それは、和議が成立した際には、上杉景勝から武田勝頼に一万両を献上するというものでした。

いわゆる金での買収という「卑怯」な手段は、上杉景勝を説き伏せた直江兼続の策略であったろうといわれています。

金一両が今のお金にして4万円ほどといいますから、一万両は4億円ということになりますでしょうか。

当時武田家は、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗を喫したうえ、出兵に次ぐ出兵で軍資金が底をついていました。
さらに、武田の財政を支えてきた甲斐・信濃の金山が枯渇し始めたと言われています。武田軍の軍用金の多くが産出されたと伝わる黒川金山(山梨県甲州市塩山)は天正4年(1576)に廃坑となっています。
つまり当時の武田家は、武田信玄が生きていた頃と違い、財政難状態だったのです。

武田勝頼にとっては、まさに魅力的な和睦条件でした。

さらに甲陽軍鑑によると、武田勝頼側近の跡部勝資と長坂光堅(釣閑斎)にも、それぞれ二千両の賄賂が渡されていたとされています。

そして武田勝頼は上杉景勝と甲越同盟を結んでしまいます。

この報を聞いた北条氏政は、武田家との甲相同盟を破棄します。
そして天正7年の9月5日、北条氏政は織田信長・徳川家康と同盟を結びます。この徳川・北条同盟により武田家と北条家は完全に断交に至ります。(北条・徳川の完全な同盟成立は9月13日とも)

結果的に武田勝頼のこの判断は、武田家自体の運命を決めてしまう格好になってしまいました。


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Tag : 徳川家康 北条氏政 上杉謙信 上杉景勝 直江兼続 武田勝頼 山梨県

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