ゆかりの地 都道府県検索 温泉特集 おすすめホテル・旅館(随時作成中) NEW戦国関連書籍
山梨ビデオ制作

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

前田利家VS佐々成政 前田慶次も出陣!(今日は何の日)

天正11年(1583)、羽柴秀吉は、賎ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、信長の三男・織田信孝を自害に追いやり、いよいよ天下取りまであと一歩と迫っていました。

賎ヶ岳の戦いで柴田勝家側についていた越中の守護で富山城主の佐々成政は、秀吉に降伏します。しかし、それはもちろん本意ではありませんでした。

一方、賎ヶ岳の戦いで柴田勝家を裏切った前田利家は、秀吉から加賀二郡を加増され、尾山城(金沢城)に移ります。

織田家を蔑ろにする秀吉に対し、信長の次男・織田信雄は徳川家康を頼り、小牧・長久手の戦いを挑みます。この時、成政は家康と同盟し、越中富山で秀吉に反旗を翻すのです。

天正12(1584)年8月28日、成政は突如、柴田勝家を裏切った前田利家の領内・朝日山砦を攻撃、さらに前田領を南北に分断するため、加賀と能登の境目の要地である末森城を8千の兵で取り囲みます。

9月9日、佐々成政は攻撃を開始。末森城は前田家の奥村永福が守っていましたが、佐々成政の前田家に対する恨みはすさまじく、それが攻撃になってあらわれます。佐々軍は城門をいとも簡単に突破、城内に雪崩れ込み、曲輪を次々に奪っていきます。1500ほどいた城兵を300ほどまでに討ち減らし、末森城を落城寸前まで追い詰めます。

急報を受けた、前田利家・利長はわずか3,000の兵で救援に向かいます。

この3,000の兵の中には、前田慶次(宗兵衛)の名もあるといいます。

 
しかし圧倒的に少ない兵数。前田利家は奇襲攻撃をかけるため、静かに末森城に近づきます。
そして11日未明、突如、佐々軍の背後から前田軍が襲い掛かり、同時に城側からも打って出ます。不意を付かれた佐々軍は鉄砲を乱射して応戦前田勢は銃弾に怯んでしまいます。

しかしこの時、鉄砲隊の猛射の中、前田利家自身が黄金の馬印をうち振り、「敵の銃弾降りそそぐ下で止まったままでは、戦死者が増えるばかりだ。者ども、臆するな、うってかかれ!」と味方を叱咤したといいます。
指揮官の叱咤に応えた前田勢は奮起し、ついに佐々軍は挟み撃ちされる形となり総崩れ、壊滅状態となってしまいました。
佐々成政はこれを見て富山に兵を引きます。

前田利家は、その後も上杉景勝らと連絡をとりながら越中を攻撃。
佐々成政の富山城攻めの際には先導の役を果たし、秀吉が10万の大軍を率いて攻め込むと成政は降伏。

佐々成政はほとんどの領土を没収され、前田家は三ヶ国を領する大大名となり、信長配下では同僚だった成政と利家の明暗はくっきりと分かれました。

ゆかりの地・史跡
朝日山砦 石川県金沢市加賀朝日町
末森城 石川県押水町末森山


1クリックで1票、応援お願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村

こちらもポチっとお願いします。とても励みになります。

スポンサーサイト

テーマ : 戦国時代 - ジャンル : 学問・文化・芸術

Tag : 前田利家 佐々成政 石川県 柴田勝家 羽柴秀吉 奥村永福 前田慶次

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。