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朝倉義景自刃 朝倉家滅亡(今日は何の日)
8月20日 天正元年(1573)
朝倉義景は、織田信長の攻略を受けた小谷城の浅井長政に援軍を出しますが、織田軍の猛攻を受け、居城のある一乗谷へ敗走。
織田軍は一乗谷城にも迫り、義景は城を出て洞雲寺(大野市清瀧)へ逃れます。そして勇猛で知られる僧兵集団がいる平泉寺に使いを送り、助けを求めます。(平泉寺は当時朝倉氏と同盟関係にありました)
しかし平泉寺はすでに信長と内通していました。
信長は、朝倉一族の景鏡(かげあきら)に対しても、信長軍に見方すれば褒美を与えると条件を出しました。
朝倉景鏡は、平泉寺と手を組んで信長に味方することに決心。義景のいる洞雲寺に使いをやり、六坊賢松寺へ移るように勧めます。
8月19日、義景は六坊賢松寺へ移りましたが、翌8月20日の早朝、景鏡は平泉寺衆徒と一緒に義景を襲いました。義景は景鏡が裏切ったことを知り、絶望のうちに自害します。
辞世の句は「七顛八倒 四十年中 無他無自 四大本空」(苦しみもがいた四十年の生涯であったが、結局他もなく自もなく、人の実体は空なのだ)
五代続いた名門の、あっけない幕切れでした。朝倉義景 享年41。
最後まで義景に付き添った近臣も自刃、近臣・鳥居景近は、景鏡勢の中へ斬り込んだものの引き返し、義景の後を追って自刃したとされています。
朝倉義景ゆかりの地・史跡
六坊賢松寺(けんしょうじ) 正確な場所は不明 (曹源寺か?)
曹源寺 福井県大野市明倫町2-18
朝倉義景の墓の隣には、ともに自刃した近臣鳥居景近・高橋景倍の墓があり、その後ろには愛王丸、小少将(側室:愛王丸の母)、光徳院(義景の母)三人の共同墓があります。
朝倉義景館跡 墓所 福井県福井市城戸ノ内町
館跡の墓は天正4年、村民の建てた小祠が始まりで、寛文3年(1663)福井藩主松平光通によって現在の墓塔が立てられました。
朝倉氏遺跡管理事務所 TEL:0776-41-2173
愛王丸、小少将、光徳院が京都へ護送される途中で殺害された場所に、愛王丸を祀るお堂があるといいます。
愛王堂 福井県南越前町今庄
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