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織田信長の要請により山科言継が、足利義昭参内用の装束を調達する(今日は何の日)

10月7日 永禄11年(1568)

「足利義昭参内用の装束」とは、まもなく控えている、征夷大将軍就任のため京都御所に参内するためのものでしょう。(なぜ山科言継が装束の調達などをしているのか?これはまた別の機会で)


京を支配する松永久秀と三好三人衆を排して幕府権力を回復するため、上洛の機会を窺う足利義昭(義秋)の援軍要請に応え、織田信長は永禄11年の9月26日、ついに上洛を果たします。
関連記事9月4日分「今日は何の日」参照

しかし信長は入洛後息もつかずに、28日柴田勝家ら四将を先頭に立て、岩成友通の守る勝龍寺城を攻め、30日には芥川城、越水城、滝山城を次々と落とし、信長は義昭に供奉して芥川城へ入城します。

10月2日、信長は池田城を攻め寄せ、城下に火をかけて町を焼き払い、芥川の本営に凱旋。ここに五畿内およびその隣国が信長の支配するところとなります。

芥川城滞在中、信長の元へは参賀の使者が内外の珍物を携えて続々と来訪し、「門前に市をなすがごとき盛況」となったといいます。
松永久秀九十九髪茄子の茶入れ(当時の茶人の、垂涎の的)を進上。
今井宗久は、名物松嶋茶壷紹鷗茄子の茶入れ千利休の師:武野紹鷗が所持していたもの)を献じます。
中には九郎判官義経(源 義経)が一の谷で着用したという鎧を進上するものもあったといいます。
みんな一生懸命ですね。

そして10月7日 かねてより信長が山科言継に要請していた、足利義昭参内用の装束が出来上がり届きます。
山科言継は、足利義輝の御服を参考にしたといいます。

14日、信長、義昭、帰洛。
18日、義昭は朝廷より正式に宣下を受けて征夷大将軍に就任し、22日参内を果たすのです。


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Tag : 織田信長 逸話 武野紹鷗 山科言継 足利義昭 柴田勝家 岩成友通 松永久秀 今井宗久 千利休

織田信長、淀城を攻略 岩成友通が討死(今日は何の日)

8月2日 元亀4・天正元年(1573)

岩成友通、織田信長の命を受けた細川藤孝(細川 幽斎)らとの淀城攻城戦に於いて討死した日

岩成友通は徹底して織田信長に激しく対立した戦国武将。三好三人衆のひとり。 

足利義昭の織田信長討伐に応じた岩成友通は、淀城(淀古城)に立て篭もります。
淀城には、岩成友通・番頭大炊頭・諏訪飛騨守の三将が立て篭もっていました。


しかしこのうち番頭・諏訪に対しては羽柴秀吉が内応を持ちかけ、承諾を取りつけることに成功していたのです。

 
織田信長は残る岩成友通を討つべく、細川幽斎らの軍勢を淀へ向かわせます。

織田勢が寄せると、岩成友通は城中から討って出て敵中へ切り込みます。

すると内通していた番頭・諏訪の両名がにわかに織田勢へ味方し、岩成は敵中に孤立してしまいます。


それでも岩成はなお並居る敵勢の中を切りまわりますが、やがて細川幽斎家中の下津権内に挑みかかられ、組討ちのすえついに首を落としたと伝えられています。


関連史跡 ゆかりの地
淀古城 京都府京都市伏見区淀納所付近
妙教寺境内に小さな「淀城」の石碑が建てられている。

1589(天正17)年 豊臣秀吉は側室淀殿が懐妊すると、弟秀長に命じて淀古城を修築します。
産所とするために修築された淀古城に入った茶々は、鶴松を出産しました。ここから、茶々は淀殿・淀君と呼ばれるようになりました。

 








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Tag : 織田信長 岩成友通 京都府 細川幽斎 茶々 淀殿

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