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悲運の妻、家康正室・築山殿、殺害される(今日は何の日)

8月29日 天正7年(1579) 

築山殿(瀬名)は、弘治3年(1557)、15歳の時、松平元信(後の徳川家康:当時16歳か?)と結婚します。
瀬名は今川義元の姪。今川氏の血を引く気品のある女性だったといわます。

永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで、伯父の今川義元が討たれ、家康は岡崎に戻り、今川の敵方・織田信長と同盟を結んでしまうのです。
このことが今川氏真の怒りを買い、永禄5年(1562年)3月、瀬名の実の父である関口義広(今川家一門)が、正室と共に自害させられてしまいます。

以後、家康と瀬名の間はギクシャクし始めます。

瀬名は駿府城から岡崎に移り、築山のそばに住みます。
このため築山殿と呼ばれるようになります。

永禄10年(1567年)、長男・信康と織田信長の長女・徳姫との結婚が成立します。
しかし築山殿にとって徳姫は 「父や伯父を死に追いやった信長の娘」としか映らず、折り合いは良くなかったといいます。

そしてついに築山殿は憎さのあまり、甲州から美貌の側室を信康に迎え、息子夫婦の仲を裂こうとしたといわれています。また武田勝頼と内通し徳川家滅亡をはかったともいわれています。(築山殿に、武田氏と裏で外交ができるような力があったか疑問視されています)

その他にも、唐人の鍼医減敬との内通、侍女おまんを裸で縛り付けする、などの悪女ぶり。

徳姫が築山殿の悪行を父・信長に密告したことにより、信長が家康に、築山殿と信康の処刑を命じます。

(このあたりの事実は明らかではなく、信長は、信康殺害だけを命じたとする説、信康の殺害も、築山殿の殺害も徳川家の事情によるものとする説があります) 

そして天正7年(1579)の8月29日 
家康の命令が下り、築山殿は野中重政と岡本時仲により、人里離れた山中(佐鳴湖岸小藪村)で殺害されてしまいます。(築山殿の侍女の一人も入水し殉死)

築山殿は時に38歳だったといわれ、首は岡崎に運ばれ、胴は家康の命により、渓翁禅師によって西来院に葬られました。

現在、築山殿の廟堂である西来院・月窟廟の前には、2基の石灯籠があります。
これは、家康に命じられて、築山殿を殺した家臣のひとり、野中重政の子孫が、100年後に曽祖父の罪障消滅を念じて寄進したものといわれ、築山殿の死後、様々な不吉な事が起こり、その殺害に加わった家康の家臣やその子孫たちは、怨霊のために不幸に見舞われたといわれています。

延宝 6年(1678)、西来院の玄風禅師の願いにより、法要がいとなまれ、法名も清池院殿潭月秋天大姉と改められています。 
また月窟廟は、昭和20年(1945)の空襲で本堂などとともに焼失してしまい、現在のものは、昭和 53年(1978)の四百年忌に復元されたものとのこと。

なお築山殿非難の文献は江戸時代の中期以降から見られるようになったといわれ、はたして悪女だったのかどうか疑われています。

築山殿の墓 西来院 静岡県浜松市中区広沢 2-10  



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テーマ : 戦国時代 - ジャンル : 学問・文化・芸術

Tag : 築山殿 徳川家康 今川義元 織田信長 静岡県 徳姫

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