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戦国最強の水軍を創設した九鬼嘉隆 自刃(今日は何の日)

10月12日 慶長5年(1600)

九鬼嘉隆
戦国最強ともいわれる九鬼水軍の将として
「海賊大名」の異名を取った志摩の大名。

慶長5年(1600)、九鬼嘉隆の子・守隆は、東軍の徳川家康に従って
上杉討伐へ従軍していました。父・嘉隆は家康とは不仲だったため、
石田三成率いる西軍に身を投じます。

関ヶ原の戦いは、9月15日の1日で大勢は決し、東軍の勝利が
確定します。

そして関ヶ原の戦いの後、息子・守隆は家康に、西軍に味方した
父・嘉隆の助命嘆願を必死で行い、ついに家康から父の赦免状を
賜ります。

守隆は、早く父・嘉隆に喜んでもらおうと大坂より急使を走らせます。

一方、父・嘉隆は西軍の敗北を知ると、
答志島に逃れ潮音寺で出家します。

そしてそこへ一人の使者が到着します
それは、守隆からの使者ではなく、守隆の家臣・豊田五郎右衛門が独断で発したものでした。
豊田の使者は、嘉隆が生きていては九鬼家に災い・被害が及ぶと、暗に自決を勧める言上を行います。

嘉隆も「西軍に与した自分のせいで災いが息子に及ぶことは本意ではない」と決意。
慶長5年(1600)10月12日、ついに自刃します。

その直後、四男・主殿助も五男・五郎八も相次いで自刃し、
父の後を追っています。

豊田五郎右衛門は守隆が上杉討伐に行っている間、守隆から鳥羽城の留守居役を命じられていましたが、嘉隆の攻めに遭って鳥羽城を奪われており、嘉隆を怨んでいたといわれます。

これを知った守隆は怒り狂い、豊田五郎右衛門を「のこぎり引き」の極刑に処します。

「のこぎり引き」の刑とは・・・
地中に体を埋めて地上に首から上だけを出し、
竹製の切れ味の悪いのこぎりで、首を少しずつ引いて殺すという
残酷極まりないもの。
織田信長が考案したといわれる、戦国時代の刑罰の中でも
最も酷い処刑方法。


ゆかりの地・史跡
鳥羽城 三重県鳥羽市鳥羽町 石垣、本丸、説明板のみ

答志島(とうしじま)
九鬼嘉隆首塚、九鬼嘉隆胴塚、潮音寺(ちょうおんじ)
和具港もしくは答志港が近いです。
交通:JR東海・近鉄鳥羽駅~徒歩5分~佐田浜港~定期船(リンク)~答志島

おすすめの宿
答志島温泉 寿々波
鳥羽湾を見下ろす絶好のロケーション。
夕日が綺麗な最上階の展望風呂で、答志島温泉湯が楽しめます。
夕食は、伊勢海老アワビなど獲れたて新鮮海の幸を海を見下ろすお部屋で堪能できます。
好評の若女将エステは1日3組予約限定です!

(じゃらんnet提供)

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Tag : 逸話 織田信長 羽柴秀吉 九鬼嘉隆 九鬼守隆 豊田五郎右衛門 徳川家康 三重県 温泉

浜名湖 紅葉温泉紀行  家康に運を授けた“出世城”!

家康に運を授けた“出世城”!
~静岡県浜松市~

家康が生涯で最大の負け戦を喫したことで知られる
遠州浜松の居城・浜松城周辺は、紅葉の名所としても
知られています。
今回は浜名湖畔の街から、秋のおすすめ“観光ルート”を
勝手気ままにご紹介します…



▼“やらまいかスピリッツ”が宿る:浜松城
三河から東進し、今川領の制圧を開始した徳川家康が、
名将・武田信玄の侵攻に備える拠点として、1570年に
築城した浜松城。

遠州一帯を見渡せる丘にそびえ、440年もの歴史を刻む
(現在の天守閣は昭和33年再建です)お城で、これからの時期
には日本庭園を中心にして紅葉が広がり、赤・黄・茶色など
色とりどりの紅葉で埋め尽くされます。

歴代の城主が幕府の要職についたことから、別名「出世城」と
呼ばれているんですが、浜松は、かの本田宗一郎氏の
「やらまいか精神」でも知られる土地。なにやら土地柄が
与える影響が強いのかもしれませんね。

※やらまいか=遠州の方言で「やってみよう」の意味。
 全てのことに前向きに取組む気質・心意気を表す言葉。

▼犀ヶ崖(さいががけ)資料館
犀ヶ崖は浜松城の北側約1kmにある渓谷。
家康が大敗を喫した「三方ヶ原の戦い」の古戦場で、
戦死者を祀ったお堂跡には、家康苦悩の時期を物語る
資料が公開されています。

その近くには「みやひろ」という、かなり美味しい
ラーメン屋があり、昭和31年の開業以来、
浜松っ子に愛され続けています…
(おすすめ:丼表面を覆い尽くすように焼豚が盛られた
                  チャーシュー麺・700円)

▼もうひとつの決戦地!浜名湖かんざんじ温泉

ホテル ウェルシーズン浜名湖

浜松城から街道で結ばれた浜名湖畔の舘山寺(地域)は、
紅葉温泉の両方を楽しめる欲張りスポット!
県下最大の温泉施設「華咲の湯」が魅力の宿です。


(じゃらんnet提供)

遠州灘天然とらふぐ懐石料理」プラン
遠州灘(太平洋)は全国屈指の天然とらふぐの漁場!
地元舞阪漁港より直送の冬の味覚の王様「天然とらふぐ」を
思う存分楽しめるプランです。
「ふぐ」といえば下関ですが、下関発の最高級とらふぐの多くが、
ここから下関へ陸送されているんです!

 

注目の宿泊者特典!
浜松っ子にとっての“ディズニーランド”!? 「浜名湖パルパル」
無料入場券・割引券などが盛りだくさん。
パルパルは、その昔、仮面ライダー1号・2号がゲルショッカーと
死闘を繰り広げた“古戦場”でもあります…

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Tag : 徳川家康 温泉 静岡県

奥三河 紅葉温泉紀行 家康ゆかりの名刹で気分爽快山登り!

~愛知県新城市~

若き家康が治めていた三河の地は、
豊かな自然を残す穴場的な歴史散策路が
数多くあるんです。
特に紅葉の季節におすすめしたい“観光ルート”を
勝手気ままにご紹介します・・・



フィギュア 徳川家康 Aタイプ
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▼家康誕生の秘密:鳳来山東照宮
JR飯田線・本長篠駅からバスで30分ほど
山間を走ったところにある古刹・鳳来寺は、
702年開山、真言宗五智教団の本山。
四季折々の自然が魅力の山寺ですが、
紅葉の季節(11月)には「もみじ祭り」を開催。
観光土産の物産展なども行われおすすめです!

江戸時代,鳳来寺山に東照宮が建立。
鳳来寺山には,かつて家康の母の於大(おだい)の方が,
鳳来寺山の薬師に懐胎を祈願して家康を身ごもった
という伝説があったため、家光がここに
東照宮造営を命じ,完成させたそうです。
日本三大東照宮に数えられていますが、これには
諸説あるそうで、“言い張ってる系”かもしれません。
でも、天下人・家康の心身の基礎が築かれた地だけに
かなりの説得力があると思います。

ちなみに鳳来寺の石段は、1425段!
裏手のパークウェイから車でも上がれますが、
単調な階段ではなく、ちょっとした登山道みたいな
感じなのでトレッキング感覚で上ることができて、
かなりの癒やし効果が得られるし、本堂付近からの
絶景もよりいっそう格別なものに!
  
▼渓流をのぞむ露天風呂が魅力!湯谷温泉
【おすすめの宿 「旅荘みつい」】

鳳来寺山の麓を流れる清流のせせらぎと
紅葉に染まる木々にかこまれた開放的な
露天風呂…
そして、旬の味をいかした田舎会席料理が
魅力の宿です。

(じゃらんnet提供)

「秋だから、思い切って松茸食べちゃお♪♪」プラン
“すだち”を絞って豪快に「焼松茸」!
香りを楽しむ「土瓶蒸」
究極の贅沢「松茸のすき焼き」
目の前で出来上がる「松茸釜飯」
秋の味覚の王様・松茸を色々なお味で楽しめる
かなり“お得”なプランだと思います!

でも、なんといっても一番のご馳走は、
奥三河の“澄んだ空気”なんですけどね。



奥三河の旅館・ホテル一覧はこちらから

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Tag : 徳川家康 温泉 愛知県

武田信玄 上洛を開始(今日は何の日)

10月3日 元亀3年(1572)


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武田信玄は、常々「早く西上して天下を取り、まつりごとを正しく行いたい」と強く望んでいました。
ですから、足利義昭の要請は、きっかけに過ぎないと思いますが・・・

元亀2年(1571年)2月、武田は織田家との同盟関係を維持したまま、足利義昭の信長包囲網要請を受ける形で、2万5000の大軍を率いて徳川領へ侵攻し、4月15日には、三河国足助城(真弓山城)を攻略します。
しかし当時武田は、上杉・北条・徳川に3方を囲まれている状況で、長期間の遠征を維持することができず、甲斐へと撤退します。

ところが、思わぬ形で東方の憂いがなくなります。
元亀2年の12月、北条氏康の遺言により、跡を継いだ北条氏政は武田と甲相同盟を復活します。これで3方のうちのひとつの憂いがなくなりました。

この年、織田信長は比叡山を焼き討ちにし、浅井・朝倉連合軍との戦いも優位に進めています。

危機迫った足利義昭は翌年・元亀3年(1572)の1月、本願寺顕如を通じ、武田信玄へ織田信長の背後を脅かすよう依頼します。

 

フィギュア 武田信玄


信玄は、まだ北の上杉謙信からの脅威があったため、本願寺顕如に要請し、越中で一向一揆を起こさせます。
こうして戦力を一点に集中できるようになった信玄は、9月29に西上作戦を開始。
そしてついに10月3日、武田信玄は、2万2000の兵力を率いて甲府から出陣しました。


その後、武田信玄は三方ヶ原の戦いで徳川家康を破り、三河に侵攻するも、持病が悪化し、信州駒場で没します。

天下取りを目指して甲府を出陣してから6ヵ月後のことでした。


武田信玄 (学研M文庫)
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Tag : 武田信玄 織田信長 徳川家康 本願寺顕如 足利義昭 北条氏政 北条氏康 山梨県 愛知県 静岡県

上杉景勝から直江兼続へ、長谷堂城からの撤退命令が届く(29日説あり)(今日は何の日)

9月30日 慶長5年(1600)

西と東の出来事を、日を追ってみました。

9月15日、関ケ原の戦いはこの一日で決します。
しかし奥羽ではこの9月15日、直江兼続率いる上杉軍が、最上領の長谷堂城へ攻撃を開始しています。
この一度目の攻撃で、最上勢は、200~300の将兵が討死。
危機迫った最上義光は、伊達政宗に援軍を求めます。

9月16日、伊達政宗は、留守政景らを援軍とすることを決定。
9月17日、長谷堂城の最上勢が、上杉陣を夜討ちし、首150余をあげます。
9月20日、最上義光の妹・義姫が留守政景宛てに、一刻も早い援軍出動を催促。

9月21日、石田三成が、伊吹山の山中で東軍の捜索隊に捕らえられています。

9月24日、上杉軍が、長谷堂城に2度目の攻撃。伊達軍もようやく出陣します。

9月27日、徳川家康、大坂城入城。戦後処理を開始。

9月29日、上杉軍、長谷堂城に3度目の攻撃。

9月30日、上杉・最上両軍に、関ケ原合戦の結果が到着。
(上杉景勝から直江兼続に知らせが届いたのは29日とも)

10月1日、石田三成、小西行長、安国寺恵瓊が京都六条川原で処刑。
この日、上杉軍、長谷堂より撤退を始めます。
直江兼続が殿軍を務め、前田慶次が奮戦した撤退戦です。
撤退戦での死者は両軍合わせて2000人ともいわれています。

10月3日、直江兼続、荒砥城(山形県白鷹町)へ帰陣。
10月7日、最上領内の戦闘がようやく終息しています。
そして10月8日、上杉全軍が撤退完了。

先週の大河ドラマ「天地人」は、まさにこのあたりでしょうか。
前田慶次は登場しませんでしたが。

長谷堂城を守っていたのは当初1,000あまり。対して長谷堂城を囲んだ直江兼続の軍は1万8000とも。しかし落城させられなかったのは、長谷堂城城主・志村光安の活躍が大きいのですが、直江兼続にその気がなかったのでしょうか?

関ヶ原での決着後、もしも上杉が撤退せずに、最上を破り、伊達と結託し西へ軍を進めていたら・・・?
この時点では、時すでに遅しか・・・。

上杉謙信・景勝・直江兼続 軍神の系譜 (学研M文庫)
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Tag : 逸話 直江兼続 最上義光 伊達政宗 留守政景 石田三成 徳川家康 前田慶次 上杉景勝

世紀の一大決戦!関ヶ原の戦い(今日は何の日)

9月15日 慶長5年(1600)

徳川家康率いる東軍と石田三成の指揮する西軍が美濃国不破郡関ヶ原で激突しました。午前8時開戦。午後3時ごろ終戦。東軍が西軍を破りました。
東軍8万VS西軍8万5千(諸説あり)
しかし、西軍で実際に戦ったのは3万5千程度、その他は、家康側に内通した者、動かなかった者が多かったといいます。

主な全国の関ヶ原の戦い 
東北の関ヶ原 「長谷堂城の戦い」
最上義光(東軍)VS上杉景勝(西軍) 

北陸の関ヶ原 「浅井畷の戦い」
前田利長(東軍)VS丹羽長重(西軍) 

東海の関ヶ原 「安濃津城の戦い」
富田信高(東軍)VS毛利秀元(西軍) 

九州の関ヶ原 「石垣原の戦い」
黒田如水(東軍)VS大友義統(西軍)



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Tag : 徳川家康 石田三成

「天地人」に前田慶次は登場しない・・・?

ネット上で調べてみると、直江兼続の盟友・前田慶次は、どうやら登場しないようですね。「キャストは高橋克典に決定」なんて騒がれたりもしましたが。

前田慶次が登場しないとなると、「
長谷堂城の戦い」はどう描くのでしょうか?
旧日本軍参謀本部の「日本戦史」でも取り上げられるほど見事な、前田慶次が殿軍を務めた撤退戦はどう描くのでしょうか?
自害しようとする直江兼続を、前田慶次が諫める場面はどう描くのでしょうか?

天下分け目の関ヶ原の合戦は、関ヶ原だけで起きたものではなく、日本全土で起きていました。そのなかでも、奥羽の戦、つまり上杉家と最上家・伊達家の戦は、関ヶ原の合戦の勝敗を大きく左右するものでした。

徳川家康は、東を最上義光と伊達政宗に任せ、後方の憂いをなくして西上しました。
もしも、最上家・伊達家の抵抗がなければ、上杉軍は西に向かい、石田三成とともに徳川家康を挟み撃ちに出来たかもしれず、戦局は大きく変わっていたのです。

また数分数秒のナレーションで済ませてしまうのでしょうか・・・

新発田重家の乱もなければ、前田慶次も登場しない・・・

Yahoo!の番組感想のグラフは、去年の篤姫のグラフを逆さまにしたようになっちゃってます。

この期に及んでも、NHKのサプライズを期待していますが・・・

 

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Tag : 直江兼続 前田慶次 上杉景勝 伊達政宗 最上義光 石田三成 徳川家康 新発田重家 山形県 NHK

武田勝頼の痛恨の判断ミス? 徳川家康と北条氏政が同盟を結ぶ 武田家滅亡への序章(今日は何の日)

9月5日 天正7年(1579) 

徳川家康と北条氏政の同盟には、武田勝頼はもちろん、上杉景勝(直江兼続)が大きく関わっています。

天正6年(1578年)、越後国で上杉謙信が死去すると後継者を巡る御館の乱が発生します。
武田勝頼は当初、夫人の実の兄である北条氏政の要請もあり、また夫人の実の兄にあたる上杉景虎を支持していました。

しかし、もう一方の後継者候補である上杉景勝から武田勝頼に対して願ってもない和議の申し入れがあったのです。
それは、和議が成立した際には、上杉景勝から武田勝頼に一万両を献上するというものでした。

いわゆる金での買収という「卑怯」な手段は、上杉景勝を説き伏せた直江兼続の策略であったろうといわれています。

金一両が今のお金にして4万円ほどといいますから、一万両は4億円ということになりますでしょうか。

当時武田家は、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗を喫したうえ、出兵に次ぐ出兵で軍資金が底をついていました。
さらに、武田の財政を支えてきた甲斐・信濃の金山が枯渇し始めたと言われています。武田軍の軍用金の多くが産出されたと伝わる黒川金山(山梨県甲州市塩山)は天正4年(1576)に廃坑となっています。
つまり当時の武田家は、武田信玄が生きていた頃と違い、財政難状態だったのです。

武田勝頼にとっては、まさに魅力的な和睦条件でした。

さらに甲陽軍鑑によると、武田勝頼側近の跡部勝資と長坂光堅(釣閑斎)にも、それぞれ二千両の賄賂が渡されていたとされています。

そして武田勝頼は上杉景勝と甲越同盟を結んでしまいます。

この報を聞いた北条氏政は、武田家との甲相同盟を破棄します。
そして天正7年の9月5日、北条氏政は織田信長・徳川家康と同盟を結びます。この徳川・北条同盟により武田家と北条家は完全に断交に至ります。(北条・徳川の完全な同盟成立は9月13日とも)

結果的に武田勝頼のこの判断は、武田家自体の運命を決めてしまう格好になってしまいました。


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Tag : 徳川家康 北条氏政 上杉謙信 上杉景勝 直江兼続 武田勝頼 山梨県

徳川秀忠が、上田城の真田昌幸に降伏を勧告(今日は何の日)

9月2日 慶長5年(1600)

慶長5年(1600)8月24日、徳川家康の率いる軍は東海道を、徳川秀忠率いる軍勢は宇都宮を発し中山道を通り、それぞれ関ヶ原を目指します。

徳川秀忠軍は、碓氷峠を越えて小諸城に着陣します。目の前には、石田三成を中心とする西軍に加勢した、真田昌幸の籠る上田城が見えてきました。
この先、本来なら上田を支障なく通過し、諏訪に出て木曽路を通り、美濃へ向かって家康軍と合流して、関ヶ原に進みたいところでした。

そこで9月2日、上田城に籠る真田昌幸に対し降伏を勧告するのです。

軍使は、真田昌幸の長男・真田信幸(信之)と本多忠政でした。

翌日、上田城外の信濃国分寺で真田信幸と本多忠政は、真田昌幸と会見し、城明け渡しを説得します。長男の説得に父・真田昌幸は降伏して頭を剃ると申し出たといいます。

しかし、これは籠城の為の時間稼ぎでした。
本多秀忠は真田昌幸の引き延ばし作戦に乗せられていたことを激怒。

真田信幸に弟・真田幸村(信繁)の籠る戸石城を攻めさせます。真田幸村はこれを受け、戸石城を開城。上田城に撤退します。

そして6日、上田城攻めが開始されます。
徳川秀忠軍38,000の軍勢に対し、真田方はわずか2,500。

しかし、真田昌幸は真田家得意の戦法で応戦します。
敵を城壁のそばまでおびき寄せ、城中から狙撃し、敵がひるむや否や出撃するという戦法で善戦。徳川秀忠軍は日時を浪費するのみで上田城を攻略することができませんでした。

徳川秀忠はついに上田城攻めをあきらめ、抑えの将兵だけを残し、小諸城を9月11日に出発。上田領を避け、雨境峠から大門峠を経て諏訪から塩尻、木曽福島を通り、17日妻籠宿に到着。しかしこの宿で徳川秀忠は東軍大勝利という関ヶ原の報に接します。

中山道を上った秀忠軍は、関ヶ原戦に間に合わなかったのです。徳川家康にとっては実に不愉快なことであり、徳川秀忠は当分の間、面会を許されなかったといいます。

関ヶ原の合戦後。
敗れた西軍に加勢していた真田昌幸・真田信繁(幸村)父子は九度山に配流となり、上田城は徹底的に破却されました。

ゆかりの地・史跡
上田城 長野県上田市二の丸
小諸城 長野県小諸市丁311
信濃国分寺 上田市国分1049

 



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Tag : 真田昌幸 真田幸村 真田信幸 関ヶ原の合戦 徳川家康 長野県

悲運の妻、家康正室・築山殿、殺害される(今日は何の日)

8月29日 天正7年(1579) 

築山殿(瀬名)は、弘治3年(1557)、15歳の時、松平元信(後の徳川家康:当時16歳か?)と結婚します。
瀬名は今川義元の姪。今川氏の血を引く気品のある女性だったといわます。

永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで、伯父の今川義元が討たれ、家康は岡崎に戻り、今川の敵方・織田信長と同盟を結んでしまうのです。
このことが今川氏真の怒りを買い、永禄5年(1562年)3月、瀬名の実の父である関口義広(今川家一門)が、正室と共に自害させられてしまいます。

以後、家康と瀬名の間はギクシャクし始めます。

瀬名は駿府城から岡崎に移り、築山のそばに住みます。
このため築山殿と呼ばれるようになります。

永禄10年(1567年)、長男・信康と織田信長の長女・徳姫との結婚が成立します。
しかし築山殿にとって徳姫は 「父や伯父を死に追いやった信長の娘」としか映らず、折り合いは良くなかったといいます。

そしてついに築山殿は憎さのあまり、甲州から美貌の側室を信康に迎え、息子夫婦の仲を裂こうとしたといわれています。また武田勝頼と内通し徳川家滅亡をはかったともいわれています。(築山殿に、武田氏と裏で外交ができるような力があったか疑問視されています)

その他にも、唐人の鍼医減敬との内通、侍女おまんを裸で縛り付けする、などの悪女ぶり。

徳姫が築山殿の悪行を父・信長に密告したことにより、信長が家康に、築山殿と信康の処刑を命じます。

(このあたりの事実は明らかではなく、信長は、信康殺害だけを命じたとする説、信康の殺害も、築山殿の殺害も徳川家の事情によるものとする説があります) 

そして天正7年(1579)の8月29日 
家康の命令が下り、築山殿は野中重政と岡本時仲により、人里離れた山中(佐鳴湖岸小藪村)で殺害されてしまいます。(築山殿の侍女の一人も入水し殉死)

築山殿は時に38歳だったといわれ、首は岡崎に運ばれ、胴は家康の命により、渓翁禅師によって西来院に葬られました。

現在、築山殿の廟堂である西来院・月窟廟の前には、2基の石灯籠があります。
これは、家康に命じられて、築山殿を殺した家臣のひとり、野中重政の子孫が、100年後に曽祖父の罪障消滅を念じて寄進したものといわれ、築山殿の死後、様々な不吉な事が起こり、その殺害に加わった家康の家臣やその子孫たちは、怨霊のために不幸に見舞われたといわれています。

延宝 6年(1678)、西来院の玄風禅師の願いにより、法要がいとなまれ、法名も清池院殿潭月秋天大姉と改められています。 
また月窟廟は、昭和20年(1945)の空襲で本堂などとともに焼失してしまい、現在のものは、昭和 53年(1978)の四百年忌に復元されたものとのこと。

なお築山殿非難の文献は江戸時代の中期以降から見られるようになったといわれ、はたして悪女だったのかどうか疑われています。

築山殿の墓 西来院 静岡県浜松市中区広沢 2-10  



東京から浜松まで格安3,200円!


浜松駅から徒歩5分、モーニングサービス付(パン&コーヒー無料)、セミダブルで大人1泊2,500円!!



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Tag : 築山殿 徳川家康 今川義元 織田信長 静岡県 徳姫

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