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織田信長、美濃を手中にして「天下布武」を掲げる(今日は何の日)

8月15日 永禄10年(1567)

織田信長は、桶狭間の合戦(永禄3年1560)で、今川義元を倒すと三河の松平元康(徳川家康)と同盟を結び、東方を安泰にします。さらに近江の浅井長政には妹・お市を嫁がせ、甲斐の武田へは養女を嫁がせ、後顧の憂いを断ちます。

そして織田信長は美濃国の斎藤龍興との戦いに全力を傾けるのです。
織田信長が美濃を支配下に治めたい理由は、領土拡大はもちろん、足利義昭が信長に上洛を求めていたため、美濃を通る必要があったのです。

織田信長はまず、斎藤家の「美濃三人衆」(稲葉一鉄・安藤守就・氏家卜全)に対して内応工作を進めます。

永禄10年(1567)8月1日にはいると3人の承諾を得、ついに行動を起こします。
斎藤家では、5年前に斎藤義龍が急死し、嫡男・斎藤龍興が後を継ぐも、跡目争いで家中に分裂が起きていた好機でもありました。

ところが、信長は「三河へ行く」と城内の兵に通達しておいて、出発すると美濃へ向かうのです。
敵を欺くにはまず味方から。

美濃の斉藤方では信長の軍勢が攻めてくるなど考えておらず、驚き慌てふためきます。
時は遅し、あっという間に稲葉山城の城下は織田軍で埋め尽くされてしまうのです。
織田軍は城下の井之口の町に放火。その翌日には稲葉山城を包囲してしまいます。 

そして激しい戦闘ののち、8月15日稲葉山城は落城します。

斎藤龍興は一命を助けられ、伊勢国長島へ退去。 
織田信長は稲葉山城を占領したのち、町の名を井之口から「岐阜」へと改めます。

「岐阜」の名の由来
その昔、中国の文王が八百年という長い間繁栄を築いた岐山(ぎざん)の「岐」と、学問の祖・孔子が生まれた曲阜(きょくふ)の「阜」をとって岐阜と名付けました。 
天下統一、天下泰平と、学問を学んで豊かな暮らしができますようにと、信長の祈りがこめられているといいます。
そして岐阜は天下統一の拠点として全国にその名を広めるのです。 

尾張・美濃を手に入れた織田信長、この時33歳。

これを機に、「天下布武」の印判の使用を始め、日本の真ん中・美濃より天下統一を目指すのです。




「織田信長 騎乗」
馬上より冷ややかに見下ろす信長の表情は、朝廷をも跪かせ自ら神に近づかんとした彼の気質に迫って再現されています。黒・赤・金の彩色を一部加えることにより、安土桃山時代独特の華やかな南蛮装束を演出、草刷りや臑当といった甲冑の細密で造形化困難な部分に至るまで、丹念に研究し再現しています。

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テーマ : 戦国時代 - ジャンル : 学問・文化・芸術

Tag : 織田信長 岐阜県 斎藤龍興

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