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室町幕府のラストエンペラー没す(今日は何の日)

8月28日 慶長2年(1597)


足利義昭は、室町幕府の第15代将軍で、室町幕府最後の将軍。
 
永禄8(1565)年、足利義昭は、亡き兄・義輝の側近だった一色藤長、細川藤孝らに助けられ、幽閉先の奈良興福寺の一乗院を脱出します。
その後、越前の朝倉家などを頼りつつ、各地を転々とします。 貧乏公方」とまで言われ、大名家に助力を嘆願する毎日でした。足利将軍家復活への執念は、剣豪将軍ともいわれた兄・義輝に勝るとも劣らなかったといいます。
 
足利義昭は気位が高く名誉心に富み、それに見合った力量を備えていました。
将来を見通す力、現実を見る力、決断力を秘め、苦しい立場に追い込まれても忍耐強かったといいます。
だからこそ、自ら兵を持たず、信長包囲網をつくり上げることが可能でした。
足利義昭は、俗に言われる陰険な小者ではなかったといわれます。
 
永禄11年(1568)、足利義昭は流浪の末、織田信長に助けられ、念願であった室町幕府第15代将軍に任じられます。
 
しかし義昭は、織田信長が中央での実権を握るための道具として自分を利用したのだと気づき、兄の義輝同様、操り人形になるのを嫌った義昭は、信長と激しく対立するようになります。
 
信長包囲網を築くも失敗に終わると、義昭は信長によって京都を追われ備後に下向します。
 
そして天正10年(1582)、ついに本能寺の変を引き起こす(?)のです。
(本能寺の変・足利義昭黒幕説)
 
 

足利義昭の晩年は秀吉の御伽衆に加えられ、太閤の良き話し相手となります。

天正16年(1588)大坂で落飾し昌山道久と号す。

慶長2年(1597)の8月28日、大坂で死去、享年61。

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Tag : 足利義昭 織田信長 本能寺の変

佐々成政、越中国富山城を明け渡し、羽柴秀吉陣所に投降(今日は何の日)

8月26日 天正13年(1585)

佐々成政(さっさ なりまさ)は14歳で織田信長に仕え、朝倉氏討滅、長篠の戦い、石山本願寺の一向一揆攻撃に功績をあげ、天正3年、柴田勝家の与力となりました。
そして天正9年、富山54万石を与えられ、越前小丸城から越中富山城に移ります。

佐々成政の人生は、織田信長の死をきっかけに崩れていきます。

天正10年、織田信長が本能寺の変で自刃すると、佐々成政は柴田勝家に味方します。しかし賤ヶ岳の戦いで柴田勝家は敗れて自害。成政は徳川家康と結びます。
しかし、その家康は、小牧・長久手の戦いで政治的勝利を治めた秀吉に屈服してしまいます。
そして羽柴秀吉は、小牧・長久手の戦いで徳川方についた諸将への討伐を開始するのです。 

天正13年8月8日、佐々成政征伐のため、秀吉は自ら大軍を率いて京を出陣します。
8月17日には、前田利家が佐々成政に対する総攻撃のために長連龍らへ来援を要請しています。

越中に入った秀吉軍は要所を放火して周り、越後の上杉景勝も秀吉に呼応して出兵。富山城は10万もの大軍で包囲されてしまいます。

そして8月26日、ついに佐々成政は富山城を明け渡し、織田信雄を頼って羽柴秀吉陣所に投降します。この時、成政は剃髪して恭順を表したといいます。

秀吉は、成政のほとんどの所領を没収して富山城を破却、前田利長に与えます。
そして佐々成政は御伽衆(おとぎしゅう)として秀吉に仕えることになりました。


ちなみに佐々成政は、小牧・長久手の戦いのあと、家康を再び挙兵させて秀吉と対立させるため、あの有名な「さらさら越え」という暴挙に出ます。
敵の領地を避け、家康のいる浜松まで行く方法が、立山連峰を越えて信州に出るという無謀とも思える、厳冬の中の北アルプス横断だったのです。
(家康と会見したものの、結局願いは叶いませんでした)

 

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Tag : 佐々成政 織田信長 本能寺の変 小牧・長久手の戦い 羽柴秀吉 前田利家 徳川家康

細川ガラシャ(明智光秀の娘、細川忠興の正室)没(今日は何の日)

8月25日 慶長5年(1600)
 
細川ガラシャは、明智光秀の三女で、細川忠興の正室
ガラシャは洗礼名で本名は玉(珠もしくは玉子)
玉16歳の時に細川忠興と結婚。勝竜寺で婚礼が行われました。
2年間、勝竜寺城で幸せな新婚生活を過ごしたといいます。
 
父の明智光秀が天正10年、本能寺の変で織田信長を討つと、「逆臣の娘」となり、夫の忠興は玉を丹後の味土野に幽閉します。
 
以後、彼女の苦難の生活が始まります。しかしそんな中にあっても玉は、身分の分け隔てを超えた人間愛、優しさといたわりの心を常に忘れず持ち続けていたと言われています。
 
玉はこの地で侍女(清原枝賢の娘:洗礼名マリア)からキリスト教の話を聞き、信仰に救いを求めて帰依し、味土野で暮らしました。
 
幽閉から2年後、秀吉のとりなしで大坂城下の細川屋敷に戻ります。ところが側室おりょうの存在を知ったり、夫忠興の嫉妬心のため屋敷から外出が許されないなどさまざまな困難が玉の前に立ちはだかります。そんな中、心の平安をキリスト教に求めて熱心に信仰し、そしてついに洗礼を受け、ガラシャ(ラテン語で恩寵の意)という名前を授かります。
 
慶長5年(1600)、夫の忠興は、徳川家康に従い上杉征伐に出陣し、ガラシャは大阪邸の留守を守っていましたが、石田三成の軍勢に囲まれ、人質として大阪城入城を迫られます。
しかしガラシャは、人質になるのを敢然と拒否、そして8月25日、キリスト教が自害を禁じていたことから家臣(小笠原少斎)に長刀で胸を突かせて刺殺させ、館に火を放ち、悲運の最期を遂げました。
享年38でした。
 
辞世の句
ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ
 
細川ガラシャゆかりの地。史跡
生誕地 明智神社(明智光秀の邸宅跡) 福井県福井市東大味町
 
婚礼の場所 勝竜寺 京都府長岡京市勝竜寺13番1号
細川忠興・ガラシャ像があります。
 
越中井 大阪府大阪市中央区森ノ宮中央2丁目12 
細川屋敷跡の台所にあたる場所とされ、ガラシャはこの地で果てたとされています。
「越中井 細川忠興夫人秀林院 殉節之遺址」と書かれた石碑があり、側面にはガラシャの辞世の句が彫られています。この石碑は昭和9年建立。
 
ガラシャの墓 大阪市東淀川区東中島 崇禅寺
墓(五輪塔)の横に「香林院細川玉子之墓」の石碑が建っています。
細川屋敷の焼け跡から、ザビエルの弟子オルガンチノが、ガラシャの遺骨を拾い、細川家ゆかりの崇禅寺(菩提寺)に埋葬したと伝わります。
 
カトリック玉造教会 大阪市中央区玉造2丁目
教会の庭にはガラシャのための「慰霊塔」が建てられています。
死後350年を記念して、昭和25年年(1950)、細川加羅紗頌徳会が建立
また聖マリア大聖堂の前には、ガラシャの像が建てられています。
 
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Tag : 細川ガラシャ 明智光秀 細川忠興 本能寺の変 石田三成 福井県 京都府 大阪府

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