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武田信玄 上洛を開始(今日は何の日)

10月3日 元亀3年(1572)


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武田信玄は、常々「早く西上して天下を取り、まつりごとを正しく行いたい」と強く望んでいました。
ですから、足利義昭の要請は、きっかけに過ぎないと思いますが・・・

元亀2年(1571年)2月、武田は織田家との同盟関係を維持したまま、足利義昭の信長包囲網要請を受ける形で、2万5000の大軍を率いて徳川領へ侵攻し、4月15日には、三河国足助城(真弓山城)を攻略します。
しかし当時武田は、上杉・北条・徳川に3方を囲まれている状況で、長期間の遠征を維持することができず、甲斐へと撤退します。

ところが、思わぬ形で東方の憂いがなくなります。
元亀2年の12月、北条氏康の遺言により、跡を継いだ北条氏政は武田と甲相同盟を復活します。これで3方のうちのひとつの憂いがなくなりました。

この年、織田信長は比叡山を焼き討ちにし、浅井・朝倉連合軍との戦いも優位に進めています。

危機迫った足利義昭は翌年・元亀3年(1572)の1月、本願寺顕如を通じ、武田信玄へ織田信長の背後を脅かすよう依頼します。

 

フィギュア 武田信玄


信玄は、まだ北の上杉謙信からの脅威があったため、本願寺顕如に要請し、越中で一向一揆を起こさせます。
こうして戦力を一点に集中できるようになった信玄は、9月29に西上作戦を開始。
そしてついに10月3日、武田信玄は、2万2000の兵力を率いて甲府から出陣しました。


その後、武田信玄は三方ヶ原の戦いで徳川家康を破り、三河に侵攻するも、持病が悪化し、信州駒場で没します。

天下取りを目指して甲府を出陣してから6ヵ月後のことでした。


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Tag : 武田信玄 織田信長 徳川家康 本願寺顕如 足利義昭 北条氏政 北条氏康 山梨県 愛知県 静岡県

織田信長、弟・信興の弔い合戦で2万人を殺戮(今日は何の日)

9月29日 天正2年(1574)

  
フィギュア 織田信長

織田信長が石山本願寺を囲んで攻撃した「石山の戦い」は元亀元年(1570)から天正8年(1580)まで11年間も続きました。
そのきっかけは、信長が中国四国征伐をすすめるのに、瀬戸内海航路に便利な本願寺の地に城を築きたいから本願寺を明け渡せと、本願寺顕如に迫ったことに始まります。もちろん本願寺顕如はこれを断り、三好衆や一向衆、浅井朝倉勢を巻き込んでの戦いとなりました。

元亀元年(1570)11月、本願寺顕如の命令で伊勢長島の一向一揆が、尾張小木江城に迫り陥落させ、城主であり信長の弟である織田信興を自刃させてしまいます。

翌年の元亀2年(1571)、信長は信興の弔い合戦のため伊勢長島の一揆を攻めますが大敗。信長は、門徒衆に対して憎悪の炎を燃やし、比叡山を焼き討ちにします。

天正元年(1573)9月、信長は6万の軍勢で、二度目の伊勢長島攻めを開始します。しかし、北伊勢方面を手中に収めるも長島城を攻めることが出来ずに大垣に帰ります。

弟・信興が一揆勢のために割腹して果ててからというもの、信長の憎悪の念はつのる一方でした。

翌天正2年(1574)7月13日、信長は嫡男信忠を従えて、7万の軍勢で3度目の長島征伐を開始。
九鬼嘉隆に命じて、軍船や小船を集め、水軍で長島城を取り囲み、兵糧攻めにします。
海上を大船団で取り囲み、大鳥居城・篠橋城へ寄せた織田の軍勢は大鉄砲で塀・櫓を打ち崩し、間隙を与えず猛攻を加えたといいます。

観念した長島一向勢は、降伏赦免を求めますが、信長は断固として許しません。
8月2日には、大鳥居城に籠城していた一揆勢が夜間風雨に紛れて脱出を図りますが、織田勢はそれを見逃さず、追撃して男女1,000ほどを撫で斬りにします。

長島城を取り囲んでから2ヶ月が過ぎ、長島城内の過半数はその間に餓死していました。もはや抵抗する力も尽き果てた一揆勢は、9月29日ついに降伏開城します。

降伏を許された一揆勢は、それぞれ船に乗って城砦を出ようとします。しかし織田勢は彼らに鉄砲を撃ち、逃げた者は白刃をもって追い、川へ斬り落としていきます。

一揆勢は怒り狂い、7、800ばかりが裸体に抜身一本のみをたずさえて織田勢の中へ突入。織田の陣所を切り崩し、そこから大坂へ逃れたといいます。
この失態をみた信長は、残る砦に対して周囲に柵を幾重にも廻らし、砦の男女2万人を取り囲み、火をかけて焼殺させました。


本願寺顕如が降伏するのは、これから5年後の天正7年(1579)、石山本願寺を明け渡したのは翌天正8年(1580)のこと。
そして本能寺の変が天正10年(1582)。
避けて通れない道とはいえ、11年は長かった・・・

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Tag : 織田信長 本願寺顕如 織田信興 三重県

本願寺顕如と、三条公頼の娘で細川晴元の養女(如春尼)との婚約が成立(今日は何の日)

7月30日 天文13年(1544)

如春尼は、武田信玄の正室・三条夫人の実の妹です。

結婚時には南近江の戦国大名・六角定頼の猶子となっていました。

まぎれもなく政略結婚です。

武田信玄と三条夫人の結婚といい、本願寺顕如と如春尼の結婚といい、三条家・細川晴元の必死さが分かりますね。

本願寺顕如は、足利義昭、武田信玄、浅井長政・朝倉義景らと信長包囲網を作り、信長を大いに苦しめます。

しかし信玄の死、浅井・朝倉の滅亡により、信長包囲網は崩壊、信長と和睦した上、顕如も石山本願寺を去ることになります。
豊臣秀吉の世になると、秀吉から京都七条堀川に土地を与えられ、新たな本願寺建立の運びとなります。

文禄元年(1592)、50歳にて示寂。

連れ添った如春尼も波乱の人生だったのではないでしょうか。
しかし、政略結婚とはいえ、二人の夫婦仲は良く、結婚三31年目の天正16年(1588年)の七夕には、
「いくとせもちぎりかわらぬ七夕の、けふまちへたるあふせなるらん」 顕如
「いくとせのかはらぬ物を七夕の、けふめづらしきあうせなるらん」 如春尼
と歌を詠み合っているそうです。

本願寺顕如ゆかりの地・史跡
石山本願寺 大阪府大阪市中央区大坂城敷地内
石山本願寺の跡地に豊臣秀吉が創建したのが大阪城です。石山本願寺推定地の碑と説明版があります。

本願寺顕如 墓所 京都市東山区 東本願寺大谷祖廟 
親鸞聖人の墓所として有名なところです。

如春尼の墓所 不明 
ご存知の方教えてください。



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Tag : 本願寺顕如 武田信玄 三条夫人 如春尼 大阪府 細川晴元 京都府

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