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織田信長が、弟の信勝・柴田勝家を破る(稲生の戦い)(今日は何の日)
8月24日 弘治2年(1556)
織田信長22歳、清洲城主だった時の出来事です。
当時信長は、家中からも「うつけ者」と呼ばれ、頭領に相応しくないと目されていたといいます。
「信長では織田家をまとめられない」と考えた信長宿老の林秀貞と弟林美作守、信勝老臣の柴田勝家らは、信長を排除し、家中でも評価の高い信勝に家督を継がせようとしました。そして信勝自身も、信長への反抗の姿勢を示します。
そしてついに、8月23日、柴田勝家が1000名余を率い、林美作守が700名余を率いて尾張国名塚砦を攻撃。
信長勢は佐久間盛重、信盛、前田利家、丹羽長秀ら700の兵で迎え受けます。
戦上手の柴田勝家を擁する上に、倍以上の軍勢の信勝軍有利はいうまでもありませんでした。
危ないと見た信長は、自ら出陣し、林美作守を信長本人が討ちます。信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は奮戦。形勢は逆転し、8月24日、ついに信勝勢は敗走してしまうのです。
戦後、信勝は母・土田御前の取り計らいで許され、柴田勝家らも許されて忠誠を誓うのです。
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