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伊達政宗の正室・愛姫、人質となり秀吉の元へ(今日は何の日)

7月26日 天正18年1590年 今から419年前
伊達政宗の正室・愛姫、人質となり秀吉の元へ
 
羽柴秀吉は、小田原征伐を終え、奥州平定のため、7月26日に宇都宮に到着しています。その日のこと。
 
以下、「伊達家文書」より引用
7月26日 
木下吉隆(秀吉の家臣)、伊達政宗へ出羽国・陸奥国・その他への「御置目」が通達されることを知らせ、伊達政宗も少数の供衆を随行し、早々に下野国宇都宮に参上すべきという羽柴秀吉の「御朱印」が発給されたので「いかにもてかたく、片時も御急」いで参上することを督促。
また最上義光も召喚されたされたことに触れ、陸奥国へは伊達政宗の「御差図」を参考にするとのこと、不届きな輩のもとへは「上使」が派遣されること「以外之御急」の事態であるので夜中であっても参上すべきこと、更に伊達「御足弱衆」の上洛も命令されたので「御急専一」であること、詳細は木村吉清(「木村弥一右衛門尉」)へ申し入れるべきこと、「早々参候へ」という羽柴秀吉「御朱印」であるので緊急に参上すべきことを通知。(「伊達家文書」)
 
天下を手中にした秀吉の高圧的な態度が分かりますね。


 
米沢城に移っていた伊達政宗は、正室の愛姫や片倉小十郎たちを引き連れて、秀吉のもとを訪れています。


羽柴秀吉は、愛姫を見て「ほう、美しい。京を案内して、もてなしたい」と言ったといいます。もちろんこれは妻を京に差し出せ、ということです。


その後、愛姫は人質として京で過ごすこととなり、政宗と離れ離れになってしまうのです。
史跡・ゆかりの地
宇都宮城 栃木県宇都宮市本丸町3520 028-632-2593


 

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Tag : 伊達政宗 羽柴秀吉 愛姫 片倉小十郎 栃木県

真田昌幸・信之・幸村、犬伏の別れ(今日は何の日)

7月21日 慶長5年1600年
真田昌幸・信之・幸村親子、犬伏の別れ


真田昌幸・幸村親子は、上杉景勝討伐へ向かった徳川家康に従い下野(栃木県)まで行軍してきていた。
そして、7月21日、下野犬伏の唐沢山城に着陣した時、昌幸の陣に石田三成からの密書が駆け込んできた。
密書は、西軍の挙兵を知らせ、昌幸の加担を求めてきたものだった。

昌幸は至急、小山に布陣していた信之にも連絡し、犬伏で親子三者会談を開いた。
三者会談の場所は、米山古墳にある薬師堂と伝わっている。

嫡男・信之は、家康が器量人であることを説き、また自分の妻が徳川家の四天王・本多忠勝の娘であることから、西軍につくことを反対する。

しかし父・昌幸の娘は三成の義兄・宇田頼次に嫁いでおり、次男・幸村(信繁)の妻は、三成の親友・大谷吉継の娘であったので、西軍につく意思を固めていた。

そして、昌幸・幸村父子は西軍に、信之は東軍に分かれて戦うこととなった。

関ヶ原の戦いのあとも父子兄弟の間は反目することがなかったことから考えて、親子で袂を分ければ、どちらが負けても真田家を存続させることができる・・・と、信濃の一武将にすぎない真田家の存続をかけた苦肉の策でもあったと推測されている。

真田幸村ゆかりの地・史跡 真田昌幸ゆかりの地・史跡
唐沢山城跡 
場所 栃木県佐野市富士見町および栃本町

米山古墳薬師堂 
場所 栃木県佐野市犬伏新町



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Tag : 真田昌幸 真田信之 真田幸村 栃木県 逸話 石田三成 徳川家康

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