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まことの武将・武田信繁と真田信繁(幸村)

武田信繁は、信玄の4歳下の弟です。別名:典厩
文武・人物ともに優れ家中の人望も高く、武田信玄の
副将として活躍しました。

永禄4年(1561)第4次川中島の戦いで、
上杉軍が武田軍に迫り、武田軍が劣勢に追い込まれる中、
武田信繁はすぐさま信玄に遣いをやります。

「我が隊は全員玉砕をもって眼前の敵を防ぎとめるので
援軍の必要はない。御大将にはよろしく大局の戦勝を」
と伝え、自ら敵陣に突撃し、討ち死を遂げました。
武田信繁、享年37。

戦いの後、信玄は信繁の遺体を抱いて号泣したといいます。

遺骸は鶴巣寺(のちに典厩寺)の境内に埋められました。

美濃・崇福寺の快川紹喜は
「典厩公の戦死は、惜しみても尚惜しむべし。蒼天」
書き記しています。

武田四天王のひとり、山県昌景は
「古典厩信繁、内藤昌豊こそは、毎事相整う真の副将なり」
と評したといいます(『甲陽軍鑑』)。

また江戸時代の儒学者である室鳩巣はこう賞賛しています。
「典厩公こそは天文、永禄の間に賢と称すべき武将であった。
兄信玄に使えて人臣を失うことなく、その忠臣、誠実は
人の心に通じ、加えて武威武略に長じ、知剛知柔、
まことの武将とは信繁のごとき人物をいう」


第4次川中島の戦いの際、信玄の小姓役だった真田昌幸は、
信繁の武勇に深く感じ、次男に信繁と命名しています。


武田信繁ゆかりの地・史跡
典厩寺
武田信繁の菩提を弔うために真田昌幸の長男・信之が
寺号を典厩寺と改称して、寺領5石の朱印地を給しました。

八代藩主・真田幸貫は、万延元年(1860)、
川中島合戦300年を記念して閻魔堂を建立し、
6,000余名といわれる戦没者の菩提を弔いました。

典厩寺の山門は、真田3代藩主幸道の霊屋の門を
移築したもの。
典厩寺は真田歴代藩主から手厚い保護をうけました。

武田信繁の墓の他、典厩信繁公の首きよめの井戸、
信玄の愛石(躑躅ヶ崎館の庭石)、
謙信の力石(春日山の石)
川中島典厩寺記念館などがあります。
長野市篠ノ井杵渕1000  026-292-3335

川中島典厩寺記念館
入館料:大人200円 小中学生150円
信玄や信繁、山本勘助の絵や、
信繁が着用した鎧・兜・刀・槍の柄、鶴の足の鞭、
謙信の鉄扇などが置いてあります。

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Tag : 逸話 武田信玄 武田信繁 真田幸村 長野県

真田家ゆかりの地で紅葉巡り 温泉三昧

真田幸村の兄である真田信之が初代藩主となり
信州真田家10万石の城下町となった松代。
先週「松代藩真田十万石まつり」で盛り上がった
ばかりの松代ですが、
この街には真田宝物館や、真田邸(新御殿跡)、
菩提寺など、真田氏関連の遺跡が多くあり、
また、武田信玄と上杉謙信の川中島古戦場善光寺も近く、
歴史ファンならずとも訪れたい所です。

そしてこれからの季節、紅葉が素晴らしいスポットでもあります。

松代城(海津城)は、永禄3年(1560)頃、
甲斐の武田信玄が上杉謙信の侵攻に備えて、
家臣の山本勘助に築城させたともいわれています。
永禄4年9月の第4次川中島の戦いでは、
武田信玄の本陣となりました。

武田氏滅亡後、織田氏家臣の森長可の居城となり、
江戸時代に入り、真田信之が入城し、以後、真田家の居城と
なります。

修理復元を行い、現在は江戸時代の姿に
限りなく近い状態で再現され、一般公開しています。

特に真田邸の紅葉は見事です。

真田宝物館・真田邸・松代城
住所 長野市松代町松代4-1
休館 毎週火曜日(祝日を除く)、年末年始
開館時間 9:00~16:30
入館料 大人500円 小中学生200円

長国寺 真田家の菩提寺
真田信之の霊廟(重要文化財)をはじめ、
歴代藩主の墓所、真田幸村・大助親子の供養塔があります。
本堂の屋根の鯱と、その下にある真田家の家紋六文銭が印象的。
長野県長野市松代町松代1015-1
境内無料(真田家墓所・霊廟見学300円、内部特別拝観500円別途)
霊廟の見学は1週間前までに申し込みが必要。

長野善光寺
広い境内の様々な場所で美しい紅葉を見ることが出来ます。
長野県長野市元善町491
026-234-3591
夏期4:30~16:30、冬期6:00~16:00

▽おすすめの宿
国民宿舎 松代荘
歴史の町松代にふさわしく、施設内の日本庭園など
景観にも配慮した公共の温泉宿。


▽おすすめの宿
信州松代ロイヤルホテル
【朝食付】歴史の街!城下町松代へ行こう!プラン






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Tag : 真田幸村 真田昌幸 真田信之 温泉 武田信玄 上杉謙信 長野県

足利義昭から上杉謙信へ上洛を促す書状が届く(今日は何の日)

10月4日 永禄8年(1565)
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永禄8年(1565)の永禄の変で、第13代将軍・足利義輝が、松永久秀や三好三人衆らによって惨殺され、将軍の権威は著しく失墜します。

京を支配する松永久秀と三好三人衆を排して幕府権力を回復するため、上洛の機会を窺う足利義昭(義秋)は、諸国の大名としきりに連絡をとります。

上杉輝虎(後の上杉謙信)に対しては、何度となく手紙を送っています。

永禄8年(1565)の8月5日には、謙信に対して、室町幕府再興を表明した書状を送っています。

そして10月4日には、北条氏康と和睦し上洛することを促す書状を、謙信に届けています。

謙信は上洛しませんでしたが、上洛の意思は示したようで、翌年の永禄9年(1565)年3月の、義昭からの書状には、「援軍派遣の意思表示を賞す」といった内容があります。

しかし、謙信には先にやらなければならないことがあったようです。

同年の5月、謙信は、「“武田信玄を討伐して”北条氏政と和睦した後に上洛し三好氏・松永氏を滅ぼし、京都の公方と鎌倉の公方を復興することを祈願」しています。謙信にとっては、「上洛は信玄を破ってから」という気持ちがあったのでしょうか。

足利義昭は諸国の大名に、援軍要請の書状を出していましたが、いずれも上洛に関しては消極的でした。

その中で唯一、積極的に上洛の意思を表明したのが、織田信長でした。
足利義昭は、明智光秀の仲介により、織田信長を頼って尾張へ移ります。

そして、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たしたのは、永禄11年9月のことでした。

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Tag : 織田信長 上杉謙信 松永久秀 三好三人衆 逸話 北条氏康 北条氏政 武田信玄 足利義昭 明智光秀

武田信玄 上洛を開始(今日は何の日)

10月3日 元亀3年(1572)


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武田信玄は、常々「早く西上して天下を取り、まつりごとを正しく行いたい」と強く望んでいました。
ですから、足利義昭の要請は、きっかけに過ぎないと思いますが・・・

元亀2年(1571年)2月、武田は織田家との同盟関係を維持したまま、足利義昭の信長包囲網要請を受ける形で、2万5000の大軍を率いて徳川領へ侵攻し、4月15日には、三河国足助城(真弓山城)を攻略します。
しかし当時武田は、上杉・北条・徳川に3方を囲まれている状況で、長期間の遠征を維持することができず、甲斐へと撤退します。

ところが、思わぬ形で東方の憂いがなくなります。
元亀2年の12月、北条氏康の遺言により、跡を継いだ北条氏政は武田と甲相同盟を復活します。これで3方のうちのひとつの憂いがなくなりました。

この年、織田信長は比叡山を焼き討ちにし、浅井・朝倉連合軍との戦いも優位に進めています。

危機迫った足利義昭は翌年・元亀3年(1572)の1月、本願寺顕如を通じ、武田信玄へ織田信長の背後を脅かすよう依頼します。

 

フィギュア 武田信玄


信玄は、まだ北の上杉謙信からの脅威があったため、本願寺顕如に要請し、越中で一向一揆を起こさせます。
こうして戦力を一点に集中できるようになった信玄は、9月29に西上作戦を開始。
そしてついに10月3日、武田信玄は、2万2000の兵力を率いて甲府から出陣しました。


その後、武田信玄は三方ヶ原の戦いで徳川家康を破り、三河に侵攻するも、持病が悪化し、信州駒場で没します。

天下取りを目指して甲府を出陣してから6ヵ月後のことでした。


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Tag : 武田信玄 織田信長 徳川家康 本願寺顕如 足利義昭 北条氏政 北条氏康 山梨県 愛知県 静岡県

武田信玄が上野の箕輪城を総攻撃(今日は何の日)

9月27日 永禄9年(1566)

天文21年(1552)、北条氏康に追われた関東管領上杉憲政は、越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、上杉姓と関東管領職を譲ります。
このままだと関東の上野が長尾景虎の支配下となって、越後と上野の両面から領地を脅かされることになる甲斐の武田信玄は、そうなる前に上野侵攻を決意します。

しかし上野の西部を支配する箕輪城は、政略にも優れていた智勇兼備の名将・長野業政(ながの なりまさ)が守っていました。

武田信玄は、弘治3年(1557)上野侵攻を開始しますが、長野業政の巧みな守りに箕輪城を落とすことは出来ず退却。
武田信玄は以後計6度に渡る上野侵攻を繰り返しますが、長野業政は見事にこれを退けたといいます。

信玄は「業正ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と嘆いたといいます。

しかしその長野業政が永禄4年(1561)に病死。業政の死を知ると信玄は大いに喜び、「これで上野を手に入れたも同然」と述べて、すぐに軍を上野に向けます。

まず箕輪城を中心とした一揆の一角、小幡氏が武田に降り、永禄7年(1564)には安中・松井田城、さらに翌年には箕輪城の支城・倉賀野城が落城します。

そして永禄9年(1566)、里見城・雉郷城・鷹留城を落とし、箕輪城を孤立させると9月27日、武田信玄は箕輪城に総攻撃を仕掛けます。
まず若田ヶ原で野戦となりますが、数に勝る武田軍に押されて箕輪城に引き籠りました。

そして9月29日暁より武田軍は箕輪城を攻めます。
箕輪城の城兵は城門を開き打って出ます。しかしその度に討ち死にし、城兵の数も少なくなると、ついに城主・長野業盛は、持仏堂に入り、念仏を三遍唱えて自害。家臣たちもその後を追って自害したといいます。

箕輪城は武田氏の上野経営の拠点と位置づけられ、有力家臣である甘利昌忠、真田幸隆(幸綱)、浅利信種が城代に任じられました。


武田信玄ゆかりの地
箕輪城址 群馬県群馬郡箕郷町西明屋字城山



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Tag : 武田信玄 上杉謙信 群馬県 長野業政 甘利昌忠 真田幸隆 浅利信種 逸話

武田信玄生誕の地・要害山の隠し湯 積翠寺温泉

山梨県のJR甲府駅から北へ行くと、武田氏三代の居城・武田神社(躑躅ヶ崎の館)に出ます。その裏山にそびえるのが要害山です。
駿河の今川が、甲斐国に侵攻した時(飯田河原の合戦)、武田信虎は夫人たちを要害山へ避難させました。
身重の大井夫人は山上まで登れず、途中の「積翠寺」(せきすいじ)で男児(後の信玄)を出産しました。積翠寺境内にはこの産湯を汲んだ井戸が現在も残っています。
 
要害山は、スニーカーで気軽に登ることができる山で、大小の曲輪跡や門跡があり、その山頂は広場になっていて「武田信玄公誕生之地」の碑があります。
 
要害山の山肌に湧く鉱泉が発見されたのは鎌倉時代。信玄も手厚く保護し、たびたびこの地を訪れました。
 
現在は、甲府盆地が一望でき、夜景は必見!
戦国の世に、武田信玄はここから何を見ていたのでしょうか?
 
この「信玄の隠し湯」は今も変わらず冷泉が湧き続けています。

そして要害山の麓、標高780メートル、深い山々に囲まれた2軒の宿がひっそりと佇んでいます。


積翠寺温泉 要害
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露天風呂からの風景です 

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二人っきりでのんびり、グラスワイン片手にゆっくりお話♪
夜11時以降は絶景露天風呂の貸切もできます。
山里の旬にこだわった食事も自慢。甲州名物おざらや季節の果実狩も楽しめます。



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Tag : 武田信玄 山梨県 温泉

武田水軍の拠点 遠江国遠目城・持船城を徳川軍が攻撃(今日は何の日)

9月19日 天正7年(1579)
 
甲斐の武田信玄は、信濃侵攻を本格化させるため天文23年(1554)に甲相駿三国同盟を締結します。しかし川中島の合戦が一段落するのと時を同じくして、駿河の今川義元が敗死し今川氏真が当主になると、武田信玄は徳川家康と今川領の分割を提案、密約を結び、今川領に攻め取ることにしました。
武田信玄は永禄10年(1567)、駿河に侵攻するも、今川方に北条氏政の援軍が到来し、さらに北条氏政と上杉謙信との同盟が締結したため、戦況不利とみて信玄は撤退します。
それから2年後の永禄12年(1569)、信玄はまず今川に味方する北条を攻め、抑えることに成功すると、駿河に侵攻。花沢城、徳之一色城を落とし、駿河を支配下に置きます。
 
駿河への侵攻は、武田信玄にとって領土拡大だけでなく、もうひとつ大きな夢のためでもあったのです。それは戦国最強といわれた武田軍が持てなかったもの、海、そして水軍でした。
山に囲まれ海のなかった甲斐国が、念願の海を手に入れたのです。
武田信玄は水軍を使って、北条水軍に対抗するだけでなく、京に攻め上ることを考えていたのでしょう。
 
武田信玄は早速、旧今川の家臣を船大将におき、水軍を編成します。
そして孫子の兵法を元に、向井伊賀、伊丹大隈らが諸種の水軍流を折衷して独特の「甲州水軍」を組織します。
 
その武田水軍の拠点となっていたのが持船城とその出城である遠目砦でした。
 
武田信玄存命中に、その活躍の場を与えられることはほとんどありませんでしたが、天正元年(1573)には、北条水軍と戦っているといいます。
 
その武田水軍(海賊衆)の編成
旧今川衆・・・船17艘
旧伊勢衆・・・武田軍唯一の大型軍艦1艘、船20艘
旧北条衆・・・船15艘
 
天正7年(1579)の9月19日、高天神城包囲のために横須賀城を本陣としていた徳川家康は、まず持舟城の出城であった遠目砦をおとし、大崩の海岸沿いに持舟城を攻撃し、これもおとします。
 
 
 
しかし武田水軍が無くなったわけではなく、その後も袋城(清水城)を水軍基地とし、天正8年(1580)には武田勝頼が、駿河湾の重須沖で相模水軍と激しい海戦(重須の戦い)を行いました。
 
武田信玄ゆかりの地・史跡
持船城 静岡県静岡市駿河区用宗城山町
JR用宗駅から徒歩10分
塁,堀切,竪堀,井戸が残ります。
 
遠目砦(当目砦) 静岡県焼津市浜当目字殿山
JR焼津駅から徒歩30分
曲輪,空堀が残ります。
 
袋城(清水城) 静岡県静岡市清水区本町 JR清水駅から徒歩20分ほど。
武田氏が築いた水軍基地 清水湊の発祥 
遺構は何もありませんが、上総稲荷神社には袋城の石とされるものが置かれています。


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Tag : 武田信玄 武田勝頼 静岡県

第4次川中島の合戦 武田信繁・山本勘助ら討ち死に(今日は何の日)

9月10日 永禄4年(1561)
 
時に武田信玄41歳、上杉謙信32歳。

8月14日、上杉謙信は1万8千の大部隊を引率して春日山城を発ちます。

8月16日、上杉謙信は、5千の兵を善光寺に残し、妻女山に布陣。
武田信玄はこの日、2万の兵を従えて躑躅ヶ崎の館を発ち、
棒道を進軍します。


8月29日、武田信玄は、武田側の最前線、海津城に入城。
その後、10日間ほど、両者動かず、不気味なにらみ合いが続きます。

9月9日、武田信玄は軍儀を開き、軍師・山本勘助が提案した「啄木鳥戦法」を採用し、翌日の対決を決意します。
9月9日は、無病息災を祈る重陽の節句。陣中では菊酒の杯で、必勝を、そして生きて故郷へ帰ることを祈願したでしょうか?
 
そして9月10日、ついに武田軍と上杉軍が激突します。
 
形勢は、武田軍の作戦を見破った上杉軍の優勢で始まります。

奇襲隊が失敗し、逆に不意打ちをくらう格好となった武田信玄は、上杉謙信が「車懸かりの陣」を敷いたため、「鶴翼の陣」で対抗するも、信玄の弟・武田信繁(曲厩信繁)が討たれ、諸角昌清が倒れ、さらに山本勘助までもが壮絶な戦死を遂げてしまいます。
 
この時、上杉謙信は手薄となった武田信玄の本陣に、長刀を振るい斬り込みますが、信玄は軍配でこれを防いだといわれています。
 
前半戦は、上杉軍優位でしたが、武田の奇襲隊が引き返してくると、上杉勢は押され始め、形勢が逆転。押されに押された上杉軍は、犀川を渡り善光寺方面へ敗走します。
武田信玄は、これを追撃せず、第4次川中島の戦いは終わります。
 
 
12年もの長きに渡って続けられた川中島の戦いは、結局「勝負なし」に終わっています。
その間、織田信長は着実に天下統一への基礎を固めていたのです。
 
武田信玄・上杉謙信ゆかりの地・史跡
川中島古戦場 (八幡原史跡公園) 長野市小島田町
信玄・謙信一騎討ちの像はここにあります。


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Tag : 武田信玄 上杉謙信 長野県 川中島の合戦

武田信玄が愛した下部温泉(信玄の隠し湯)

戦国時代の武将の多くは温泉を重視していました。その中でも武田信玄は温泉の発見や、開発にことさら熱心でした。
その温泉は傷ついた将兵の治療や休養に使われたり、また金山などで働く人々の療養にも使われたといいます。
他の戦国武将にもゆかりの温泉はあるのですが、武田信玄に関する温泉は、26カ所と非常に多く、信玄がいかに重要視していたかが分かります。

なかでも「武田信玄の隠し湯」として有名なのが山梨県の下部温泉です。
開湯はなんと1200年前。古くから骨折や切り傷に効く湯として知られ、武田信玄が川中島の戦いで受けた刀傷を癒したと伝わっています。

下部川の渓流に沿う温泉街は、湯治場の風情が今も漂い静寂な雰囲気につつまれています。

「下部ホテル」
武田信玄の隠し湯で6種類の露天風呂と11の湯船で湯めぐり♪広めのお部屋でゆっくりプラン
 
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14,900円~ 1泊2食付 1人に1枚お呈茶券付!

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Tag : 温泉 武田信玄 隠し湯 山梨県

武田陣中ほうとう祭り(武田信玄も愛したほうとうが食べ放題!)

富士山01  

武田信玄に関するお祭りをもうひとつ。

武田家終焉の地、天目山の田野(甲州市大和町)で、ほうとうが食べ放題で満喫できるお祭りです!

 

ほうとうは山梨県の郷土料理で、武田信玄が陣中食として用いたものとして知られています。

甲斐の国は山国で水田が少なく、米の代わりにほうとうがよく食べられていました。野菜をたっぷり入れることで、鋭気を養い戦に臨んでいたともいわれています。

現代の山梨では、「ほうとうを作れる娘は、良いとこに嫁に行ける」という言葉があるほど、馴染みのある食べ物なんですよ~。

もちろん各家庭の味、母の味というのがあって、山梨県民は物心つかない頃から母の作るほうとうを食べているので、記憶に刻まれた「ウチのかあちゃんの作るほうとうが一番旨い!」と胸を張って言います。

さてお祭りですが、甲州市や大和町の特産物の直売他、力強い和太鼓の演奏絵手紙教室じゃんけん大会などで、雰囲気を盛り上げるといいます。

 

ただし、当日は予約制で先着600名なので、参加希望者は電話・ファックス・はがきで事前に申し込む必要がありますのでご注意を。

 

参加費 大人500円、小人300円

問合せ先 TEL 0553-48-2111 FAX 0553-48-2024(代表)(甲州市観光協会事務局(甲州市役所観光課内))

E-mail : kankou03@city.koshu.yamanashi.jp

 

場所:日川渓谷レジャーセンター
日時:2009年10月31日(土)

住所:山梨県甲州市大和町田野

 



食べに行けない方は、こちらからお取り寄せも出来ます。

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Tag : 武田信玄 山梨県 祭り

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