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武田水軍の拠点 遠江国遠目城・持船城を徳川軍が攻撃(今日は何の日)

9月19日 天正7年(1579)
 
甲斐の武田信玄は、信濃侵攻を本格化させるため天文23年(1554)に甲相駿三国同盟を締結します。しかし川中島の合戦が一段落するのと時を同じくして、駿河の今川義元が敗死し今川氏真が当主になると、武田信玄は徳川家康と今川領の分割を提案、密約を結び、今川領に攻め取ることにしました。
武田信玄は永禄10年(1567)、駿河に侵攻するも、今川方に北条氏政の援軍が到来し、さらに北条氏政と上杉謙信との同盟が締結したため、戦況不利とみて信玄は撤退します。
それから2年後の永禄12年(1569)、信玄はまず今川に味方する北条を攻め、抑えることに成功すると、駿河に侵攻。花沢城、徳之一色城を落とし、駿河を支配下に置きます。
 
駿河への侵攻は、武田信玄にとって領土拡大だけでなく、もうひとつ大きな夢のためでもあったのです。それは戦国最強といわれた武田軍が持てなかったもの、海、そして水軍でした。
山に囲まれ海のなかった甲斐国が、念願の海を手に入れたのです。
武田信玄は水軍を使って、北条水軍に対抗するだけでなく、京に攻め上ることを考えていたのでしょう。
 
武田信玄は早速、旧今川の家臣を船大将におき、水軍を編成します。
そして孫子の兵法を元に、向井伊賀、伊丹大隈らが諸種の水軍流を折衷して独特の「甲州水軍」を組織します。
 
その武田水軍の拠点となっていたのが持船城とその出城である遠目砦でした。
 
武田信玄存命中に、その活躍の場を与えられることはほとんどありませんでしたが、天正元年(1573)には、北条水軍と戦っているといいます。
 
その武田水軍(海賊衆)の編成
旧今川衆・・・船17艘
旧伊勢衆・・・武田軍唯一の大型軍艦1艘、船20艘
旧北条衆・・・船15艘
 
天正7年(1579)の9月19日、高天神城包囲のために横須賀城を本陣としていた徳川家康は、まず持舟城の出城であった遠目砦をおとし、大崩の海岸沿いに持舟城を攻撃し、これもおとします。
 
 
 
しかし武田水軍が無くなったわけではなく、その後も袋城(清水城)を水軍基地とし、天正8年(1580)には武田勝頼が、駿河湾の重須沖で相模水軍と激しい海戦(重須の戦い)を行いました。
 
武田信玄ゆかりの地・史跡
持船城 静岡県静岡市駿河区用宗城山町
JR用宗駅から徒歩10分
塁,堀切,竪堀,井戸が残ります。
 
遠目砦(当目砦) 静岡県焼津市浜当目字殿山
JR焼津駅から徒歩30分
曲輪,空堀が残ります。
 
袋城(清水城) 静岡県静岡市清水区本町 JR清水駅から徒歩20分ほど。
武田氏が築いた水軍基地 清水湊の発祥 
遺構は何もありませんが、上総稲荷神社には袋城の石とされるものが置かれています。


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Tag : 武田信玄 武田勝頼 静岡県

武田勝頼の痛恨の判断ミス? 徳川家康と北条氏政が同盟を結ぶ 武田家滅亡への序章(今日は何の日)

9月5日 天正7年(1579) 

徳川家康と北条氏政の同盟には、武田勝頼はもちろん、上杉景勝(直江兼続)が大きく関わっています。

天正6年(1578年)、越後国で上杉謙信が死去すると後継者を巡る御館の乱が発生します。
武田勝頼は当初、夫人の実の兄である北条氏政の要請もあり、また夫人の実の兄にあたる上杉景虎を支持していました。

しかし、もう一方の後継者候補である上杉景勝から武田勝頼に対して願ってもない和議の申し入れがあったのです。
それは、和議が成立した際には、上杉景勝から武田勝頼に一万両を献上するというものでした。

いわゆる金での買収という「卑怯」な手段は、上杉景勝を説き伏せた直江兼続の策略であったろうといわれています。

金一両が今のお金にして4万円ほどといいますから、一万両は4億円ということになりますでしょうか。

当時武田家は、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗を喫したうえ、出兵に次ぐ出兵で軍資金が底をついていました。
さらに、武田の財政を支えてきた甲斐・信濃の金山が枯渇し始めたと言われています。武田軍の軍用金の多くが産出されたと伝わる黒川金山(山梨県甲州市塩山)は天正4年(1576)に廃坑となっています。
つまり当時の武田家は、武田信玄が生きていた頃と違い、財政難状態だったのです。

武田勝頼にとっては、まさに魅力的な和睦条件でした。

さらに甲陽軍鑑によると、武田勝頼側近の跡部勝資と長坂光堅(釣閑斎)にも、それぞれ二千両の賄賂が渡されていたとされています。

そして武田勝頼は上杉景勝と甲越同盟を結んでしまいます。

この報を聞いた北条氏政は、武田家との甲相同盟を破棄します。
そして天正7年の9月5日、北条氏政は織田信長・徳川家康と同盟を結びます。この徳川・北条同盟により武田家と北条家は完全に断交に至ります。(北条・徳川の完全な同盟成立は9月13日とも)

結果的に武田勝頼のこの判断は、武田家自体の運命を決めてしまう格好になってしまいました。


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Tag : 徳川家康 北条氏政 上杉謙信 上杉景勝 直江兼続 武田勝頼 山梨県

土佐の武田勝頼没後400年祭・・・なぜ土佐で? 武田勝頼落人伝説

高知県の仁淀川町で、武田勝頼没後400年を記念したお祭りがあります。

「武田勝頼没後400年祭【秋の陣】」 10月10日(土)
於:大崎八幡宮境内(高知県吾川郡仁淀川町大崎)
詳細はこちら 武田勝頼土佐の会HP
http://katsuyoritosa.web.fc2.com/index.html
(まだ詳細はアップされていません)

武田勝頼は、言わずと知れた甲斐の武将。武田信玄を父に持つ甲斐武田家第20代当主で、武田家最後の武将です。

信玄没後、戦国最強といわれた武田軍を率いますが、長篠の戦で織田・徳川連合軍に大敗。
天正10年(1582)、織田信長が甲斐侵攻作戦を開始すると、同年3月、勝頼は韮崎新府城に火をつけ岩殿城を目指します。しかし小山田信茂の裏切りに遭い、岩櫃城を目指して天目山に分け入ったところを滝川一益の軍に遮られ、田野の地まで引き返したところで一族とともに自害しました。

というのが良く知られている歴史ですが。 

土佐には、勝頼は天目山では自害してはおらず、影武者を使った事が言い伝えられています。

信長の軍に負けた武田勝頼の一行は、上野国利根郡に一時隠れ、その後諸国を巡り、武田家の末裔である香宗我部家の住む土佐へ入ります。

土佐といえば長宗我部。
羽柴秀吉に知られるのを恐れた長宗我部元親は、勝頼に土佐の山奥に行くことを勧めます。
その後、大崎村川井入った勝頼は「大崎玄蕃(おおさきげんば)」と名乗ったというのです。

天正13年(1585)には、寺村に武田家の先祖を祀る為の菩提寺(流光山成福寺)を建立しています。現在も成福寺跡には、「観音堂」と「聖観音立像」が現存しているといいます。
さらにその翌年、勝頼(大崎玄蕃)は、川井に「川井神社」またの名を「武田城八幡宮」(現在の大崎八幡宮)を建立しています。

そして、慶長14年(西暦1609年)8月25日64歳で逝去したといいます。

土佐には、勝頼の墓(鳴玉神社)、勝頼の長男・信勝の墓、娘の墓、孫の墓、手鏡、伝説の元となっている400年前から伝えられて来たという土佐の武田家系図のほか、仁淀川町大崎地区には、武田勝頼の変名である大崎玄蕃にちなんだ「玄蕃踊り」が400年間受け継がれているといいます。

この伝説、皆さんはどう思いますか?

土佐ではこの言い伝えを、しっかりと守っています。

そして10月10日は、土佐各地に伝わる玄蕃踊りの、始まりの場所とされる大崎八幡宮の境内で踊りや太鼓を奉納し、武田勝頼没後400年を祝います。



「武田勝頼没後400年祭【秋の陣】」の詳細はこちら

武田勝頼土佐の会HP http://katsuyoritosa.web.fc2.com/index.html




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Tag : 武田勝頼 高知県 滝川一益 小山田信茂

春の「信玄公祭り」と秋の「武田勝頼公新府入城祭り」・・・(?)

武田信玄のお祭りといえば、信玄の命日4月12日に合わせて甲府で行われる「信玄公祭り」が有名です。
信玄公祭りパンフ

そのメインとなる「甲州軍団出陣」は1,600人余りの鎧を身に纏った武者たちが、甲府の町をねり歩くという日本最大級のお祭りです
「信玄公祭り」は、「甲州軍団出陣」のほかにも、「武田24将騎馬行列」「甲府囃子演奏」、「子ども武者行列」、約1,000人による「風・林・火・山総踊り」、
変わったところでは「湖衣姫コンテスト」「こいひげコンテスト」(笑)など、盛大に行われます。


春のお祭りが「信玄公祭り」ならば、秋は「武田勝頼公新府入城祭り」があります。
いや・・・正確に言えば「あった。」です・・・
今年(2009年)から名称も内容も大幅にリニューアルされるそうです。
「武田の里にらさき・ふるさとまつり」~夢と感動のにらさき自慢市~と生まれ変わります。
内容はというと、たたみ1畳ほどの絵画65点を街中に展示する「武田三代物語絵巻展」、「おらが自慢の大声コンテスト」、「韮崎の中心で愛を叫ぶ」、「特産品早食いコンテスト」、「韮崎自慢絵手紙コンテスト」、「まちなかパフォーミング・アーツスタジアム」(ライブ・大道芸・紙芝居・陶芸の個展など)・・・と戦国色をほとんど無くしています。

「武田勝頼公新府入城祭り」を飾る最大のイベントだった、武田勝頼が新府城に入城する様を再現した時代絵巻行列はなくなってしまいました。

もともとこのお祭りは、勝頼が新府城に入場した12月24日ではなく、韮崎市の市制施行日に合わせて、20年前から始まったものでした。

武田勝頼を偲ぶお祭り、というよりは、とにかく大騒ぎして(失礼・・・)町を盛り上げようという発想が強いみたいですね。
戦国ファンにとっては、ちょっと残念です。もうちょっと歴史を重ねて欲しかったです。

でも、これはこれで楽しめるのかも・・・ですね。

「武田の里にらさき・ふるさとまつり」 詳しくはこちらpdf(観光協会)
開催日:10月11日(日)
JR中央線韮崎駅から徒歩5分。中央道韮崎ICから5分。
武田の里まつり実行委員会 0551-22-1111
山梨県韮崎市 韮崎駅前中央通り・本通り(歩行者天国内)
11:00~16:00



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Tag : 武田信玄 祭り 武田勝頼 山梨県

武田信玄からのミッションをクリアし、由布姫を救出せよ!

武田信玄とのゆかりは、直接にはない場所ですが…。

山梨県の富士急ハイランドに、信玄ファンにはたまらないアトラクションがあります。
その名も「武田信玄埋蔵金伝説『風林火山』」。脱出パニック系アトラクションです。
ネーミングを聞いただけでも行きたくなっちゃいませんか?

簡単なルールは、制限時間内に、「風」「林」「火」「山」の四つの文字を探し出し、さらわれた由布姫を救い出す、というもの。

制限時間があるために、室内を結構走り回りますが、なかなかクリアできずに、ハマる人も多いみたいです。

由布姫とはご存知の通り、武田信玄から寵愛を受けた側室・諏訪御料人のこと。武田勝頼の母ですね。
「武田信玄の埋蔵金」と呼ばれる埋蔵金は、山梨県の各地に眠っていると考えられています。埋めた場所を石に刻んだ地図も残されているといいます。しかし、伝説とは裏腹に埋蔵金にたどり着いたものはほとんどいないそうです。

さて、アトラクションですが、制限時間内に「風」「林」「火」「山」の4つの文字を全て集めると「最上階への扉」の向こうへ行けるらしいです。その先には何があるのか? ぜひ、ご自身の目でお確かめ下さい!
(私は・・・まだクリアできていません^^;)

武田信玄埋蔵金伝説『風林火山』入場料:500円

富士急ハイランド
山梨県富士吉田市新西原5-6-1
TEL : 0555-23-2111
2009年度の休園日は10/20(火)、11/17(火)、12/15(火)、1/19(火)、2/2(火)。




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Tag : 武田信玄 由布姫 諏訪御料人 武田勝頼 山梨県

徳川家康、甲斐国新府に入る(今日は何の日)

8月10日 天正10年(1582) 
徳川家康、甲斐国新府に入る

天正元年(1573)武田信玄が信州駒場で病死します。 武田勝頼は、徳川領・遠江の高天神城を落とし、東遠江を平定し、領土を広げます。

 しかし翌年の長篠の戦いで大敗を喫すると、織田・徳川連合軍の逆襲が始まります。

天正9年(1581年)、徳川軍の攻撃によって高天神城陥落。 高天神城の陥落は武田家の威信を大きく下げ、国人衆は大きく動揺、日頃から不仲な一門衆や日和見の国人の造反も始まることになるのです。

武田勝頼は、織田・徳川連合軍への備えのため、躑躅ヶ崎館より強固な韮崎の地に新府城を築城して防備を固めます。

しかし、翌年(天正10年)2月には、信玄の娘婿の木曾義昌が、織田信長に寝返ってしまいます。

その頃、織田信忠が伊奈方面から、金森長近が飛騨から、徳川家康が駿河から、北条氏直が関東及び伊豆から武田領に侵攻してきます。

これに対して武田軍では組織的な抵抗ができず、領内各地で敗走や降伏が相次ぎます。

天正10年3月、勝頼は未完成の新府城に放火して逃亡。 
そして武田氏ゆかりの地である天目山で、正室の北条夫人、嫡男・信勝と共に自害します。

ここに450年の歴史を誇る名門・甲斐武田氏は滅亡しました。

その年の6月、本能寺の変で織田信長が急死すると、事実上空白地帯となったこの旧武田領を巡って、徳川・北条・上杉、真田が対立を深めていきます。

徳川家康は、酒井忠次・奥平信昌に信州路を進ませる一方で、自身は7月には甲斐へ入り、そして8月10日、新府城に入ります。 

この争いは、徳川家康と北条氏直の戦いに発展(天正壬午の乱) さらに天正壬午の乱は、小田原の役へと発展していきます。

ゆかりの地・史跡

新府城(新府中韮崎城)  山梨県韮崎市中田町中条上野 国指定史跡

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Tag : 武田勝頼 徳川家康 山梨県

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