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石田三成の名言・逸話

ある年の10月、毛利輝元から秀吉公に献上したいと大きくて見事な桃が届けられました。

旧暦の10月といえばすでに初冬。桃の時期ではありませんが、この時期には珍しい大きな桃を献上すれば秀吉は喜ぶことでしょう。 

しかし石田三成は、毛利家の使いの者に返してしまいました。
石田三成はその使いのものにこう言ったといいます 

「珍しいものであるから殿下は喜んで召し上がるでしょうが、万一病気になられることがあるかもしれませぬ。なるべく季節のものを献上されるのが良い」と。

現代は、季節外れで珍しいというのが好まれますが、旬の物と比べたら味も栄養分も数段落ちます。旬のものが一番美味しいんですね。

この逸話は、主君・秀吉に対する石田三成の気配り、誠実さを伝えるもので、忠実無比の家臣だったことが分かります。



次は有名な石田三成の名言

関ヶ原の戦いで敗れた石田三成は、即戦場を離れます。逃れた先の伊吹山で捕らえられ、六条河原の刑場に引かれていく途中、三成は警護の者に湯が飲みたいと願い出ます。

しかし、湯がなかったため、代わりに干し柿を渡すと「それは痰の毒になるからいらない」と断りました。
「これから首を刎ねられる者が、毒絶ちするとは稀代未聞のことよ」と警護の者が嘲笑うと、三成は毅然としてこう言いました。

「大義思ふ者は、仮令首を刎ねらるる期迄も命を大切にして、何卒本意を達せんと思ふ」 (明良洪範)
(大義を思う者は、首を刎ねられる最後の瞬間まで命を大事にして、なんとか本意を達しようと思うものだ)

石田三成は関ヶ原の戦いで敗戦後、自刃せず即戦場を離れました。これは命を惜しんだわけではなく、大坂に潜入し機を見て再挙をはかろうと考えたものといわれています。



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Tag : 石田三成 逸話 名言 毛利輝元 羽柴秀吉 グッズ

羽柴秀吉が、徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家に対し自筆遺言状を与え羽柴秀頼の将来を託す(今日は何の日)

85日 慶長3年(1598)年
 
羽柴秀吉が、徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家に対し自筆遺言状を与え羽柴秀頼の将来を託した日
 
これは2度目の遺言書といわれ、五大老に対して与えられたものです。
その遺言状は、こんな内容でした。
 
「徳川家康は3年間在京し所用の場合は徳川秀忠を江戸に下すべきこと、奉行衆の前田玄以・長束正家以外の3名中1人は伏見城留守居を担当し、徳川家康は常時伏見城留守居とすべきこと、大坂城留守居は奉行衆中の2人とすべきこと、羽柴秀頼を大坂城に入城させて諸大名の妻子を大坂に証人として滞在さすべき」 
奉行衆とは五奉行のことで、浅野長政を筆頭に、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以の5人。
 
羽柴秀吉はこの13日後、その生涯を終えています。
 
羽柴秀吉(豊臣秀吉)ゆかりの地・史跡
豊国神社 豊臣秀吉を祀る神社
京都府京都市東山区大和大路正面茶屋町530
 
豊国廟 豊臣秀吉を埋葬した五輪塔
豊国神社から東に1Kmほどの阿弥陀ヶ峰山頂
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Tag : 羽柴秀吉 徳川家康 石田三成 逸話 京都府 グッズ 前田利家 毛利輝元 上杉景勝 宇喜多秀家

伏見城陥落 松平家忠は討死 鳥居元忠は自刃(今日は何の日)

8月1日 慶長5年(1600)

豊臣秀吉没後、伏見城の徳川家康は、度重なる上洛命令に応じない、上杉景勝征伐のため、慶長5年6月、5万3千人の大軍で大阪城を出陣します。

軍事的空白を好機と見た石田三成 は反家康軍を挙兵
総大将は宇喜多秀家、副将は小早川秀秋、総勢4万人の大軍でした。

伏見城は、鳥居元忠を筆頭にわずか1800人。

西軍の大軍が伏見城を包囲、そして7月19日、銃撃戦から城攻めが始まります。
しかし城内の抵抗は凄まじく、郷を煮やした西軍は、城内の甲賀衆に内通の矢文を送ったといいます。
従わなければ、家族を磔にする・・・
甲賀衆はこの脅迫に応じ、伏見城内に火事を起こします。この裏切りによって支えきれなくなった鳥居元忠は8月1日、城内で自刃。松平家忠も討死。380名以上が自刃したといわれています。そしてさすがの名城・伏見城も落城しました。 

松平家忠、享年46、鳥居元忠、享年62でした。

その後、石田三成は美濃の石垣城に入り、毛利輝元は西軍の総帥として大坂城に。
徳川家康は、下野の小山で軍議を開き(小山会議)、上杉景勝征伐の中止を決定。
打倒三成のための勧誘・調略を始めるのです。

こうしてまもなく天下分け目の合戦、関ヶ原の戦いが始まります。


関連史跡
伏見城本丸跡 
京都府京都市伏見区桃山御陵 自由に散策はできません。
伏見桃山城
現在の伏見桃山城は、かつての伏見城のお花畑山荘に昭和39年再建されたものです。
※現在、入城はできないようです

関ヶ原の戦い後、家康により再建された伏見城は、破却後、京都の社寺や各城に移築されました。

伏見城遺構といわれるもの
二条城(天守台)、常寂光寺本堂、江戸城伏見櫓、福山城伏見櫓他、西本願寺唐門、豊国神社唐門、御香宮神社表門、他多数。

血天井
鳥居元忠らの遺骸は関ヶ原の戦いが終わるまで約2ヶ月間、伏見城に放置されたままだったそうです。
その血痕が縁側の板に染みつき、いくら拭いても落ちなくなったので、縁側からその板を外し、供養のため寺に移しました。その際、床を足で踏む床板にしては供養にならないからと、天井にして手厚く供養しているのだそうです。

血天井が見られる寺
養源院
京都市東山区七条通東大路西入ル三十三間堂廻り町656
源光庵
京都市北区鷹峯北鷹峯町47


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Tag : 松平家忠 鳥居元忠 京都府 徳川家康 石田三成 上杉景勝 宇喜多秀家 小早川秀秋 毛利輝元

足利義昭が毛利輝元らへ援助を要求した日(今日は何の日)

7月24日 元亀4・天正元年1573年

足利義昭、毛利輝元・小早川隆景・吉川元春へ援助を要求する。

織田信長に京を追われた将軍足利義昭は毛利領内へ逃げ込みました。

これにより、毛利と織田の対決は決定的となりました。



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Tag : 足利義昭 毛利輝元 小早川隆景 吉川元春

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