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直江兼続・前田慶次 奥羽の関ヶ原(今日は何の日)

9月13日 慶長5年(1600)

上杉景勝の家臣・直江兼続の直江状を読んだ徳川家康は上杉家討伐を決意し、大坂城を離れ下野の小山までやって来ます。
そして家康は上杉領に隣接する諸大名に対しても出動命令を下します。伊達政宗には北東の信夫から、最上義光には北の米沢から、仙道口を佐竹義宣に、西の津川口を前田利長・堀秀治に、そして家康自身は白河から。

しかしそこへ、家康の思惑通り、石田三成の挙兵の知らせが入り、家康は上杉の警戒を最上義光と伊達政宗に任せ江戸城に引き返し軍を整えます。

徳川家康に命ぜられた最上義光は、上杉領の酒田城を攻めようとします。
それに対し上杉は最上領への侵攻を決定。直江兼続を総大将として2万の軍勢が先制攻撃をしかけます。

直江兼続の主力軍は、最上領の最前線にある支城・畑谷城へ南側から攻め入ります。

一方、簗沢にまわった前田慶次の軍は、簗沢城を攻め(実際は明け逃げ)、村を焼き払い北側から畑谷城へ攻め上ります。

畑谷城を守るのは江口光清とわずか300の兵。

最上義光は「城を放棄して逃げよ」と江口光清に指示を出しましたが、江口光清は聞き入れず、徹底抗戦の構え。
直江軍からも無益な戦いをしたくないと、城の明け渡しを迫りますが、江口光清はこれを拒絶。「この城が欲しいなら、戦って取るがよい。上杉の習いはいざしらず、最上の武士は最後の一人になろうとも、城を明け渡すことはない」(奥羽永慶軍記)と300の兵で直江軍2万の軍勢に斬りかかります。

しかしやはり数の上でかなわず、9月13日、畑谷城は4時間で落城。江口光清は自刃、300の兵も一人として生き残らなかったといいます。

直江兼続は、この時の様子を秋山伊賀守宛ての手紙で、
「去る十三日、最上領畑谷城を乗り崩し、撫で斬りを命じて、城主江口五兵衛父子含めて、首を五百余り討ち取った。簗沢の城も空け逃げ、在々に放火し、昨十四日には最上の居城に向かい陣を構えている……」と書いています。「撫で斬り」とは、つまり、女子や子供なども切り捨てたということですが・・・兼続が虐殺を行ったのどうか、その事実は今となっては分かりませんが、とにかく江口光清の抵抗により、壮絶で悲惨な戦いとなったのでしょう。

直江兼続はその後、軍を長谷堂城へ向けます。

ゆかりの地・史跡
畑谷城(はたやじょう) 山形県東村山郡山辺町大字畑谷
城の麓にある長松寺に江口光清父子らの墓があります。

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テーマ : 戦国時代 - ジャンル : 学問・文化・芸術

Tag : 直江兼続 前田慶次 逸話 江口光清 山形県

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