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織田四天王・滝川一益 逝く (今日は何の日)

9月9日 天正14年(1586)
 
滝川一益は、近江甲賀の出身で、浪人中を織田信長に拾われたと伝わります。
武功によって出世し、織田四天王にまでのぼりつめた織田家中の重鎮で、豪放磊落な武将として知られています。
その戦いぶりも勇猛で、先鋒でも殿でも、一益に任せておけば安心だと信長にほめちぎられました。
 
永禄12年(1569)伊勢北畠氏の攻略や、天正2年(1579)伊勢長島一向一揆征伐での武功を認められ、長島城と北伊勢などの支配権を与えられました。
この頃には、宿老として名を連ねるまでに出世しています。
 
天正10年(1582)には、甲斐武田の征伐を企画、一益自身も軍監として出陣し、武田勝頼を天目山に追いつめ討ち取り、関東管領の栄職につきます。
 
しかし、本能寺の変後の北条氏との神流川の戦いで大敗。滝川軍1万8千、北条軍5万が激突したこの戦は、戦国史上、関東で最大の戦といわれ、滝川軍は3,760名もの死者を出しました。
さらに羽柴秀吉との織田家後継者争いにも敗れ、剃髪し越前大野に蟄居します。
 
そして越前の小さな所領で、晩年を穏やかに過ごし、
天正14年の9月9日、亡くなりました。享年62。
 
関東管領として上野の厩橋城に住んでいたときのこと。
山で鶴と雀を見つけた一益は、しばらく眺めたあと、静かに近臣にこう言ったといいます。
【滝川一益 名言】
『我らが昼夜の心遣い察して見よ。汝らは鶴を羨まず、雀の楽しみを候え』。
(鶴は、我ら大名のように常に周囲を警戒しながら餌を食べ、寸部の油断もない。大名はわずかの間も気楽に過ごすことはできない。それに比べて、雀は人がいても平気で餌を食い、仲間同士で遊んでいる。お前たちは雀の楽しみを味わうが良い)
 
大名としての生活に疲れていたのでしょうか。
織田四天王にまでのぼりつめた一益の言葉。その立場になってみなければ言うことができません。そう、その立場になってみなければ・・・!
 
 
今週特集している前田慶次は、一益の甥っ子とも実子とも言われています。
(加賀藩史料)
 
ゆかりの地・史跡
厩橋城(前橋城) 群馬県前橋市大手町1丁目 
石垣、土塁、堀などの一部が現存します。
 
滝川一益墓所
高野山金剛峯寺 和歌山県伊都郡高野町高野山132
信楽寺 島根県松江市竪町88
妙心寺 京都府京都市右京区花園妙心寺町64


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Tag : 織田信長 滝川一益 前田慶次 逸話 名言 群馬県 島根県 京都府

土佐の武田勝頼没後400年祭・・・なぜ土佐で? 武田勝頼落人伝説

高知県の仁淀川町で、武田勝頼没後400年を記念したお祭りがあります。

「武田勝頼没後400年祭【秋の陣】」 10月10日(土)
於:大崎八幡宮境内(高知県吾川郡仁淀川町大崎)
詳細はこちら 武田勝頼土佐の会HP
http://katsuyoritosa.web.fc2.com/index.html
(まだ詳細はアップされていません)

武田勝頼は、言わずと知れた甲斐の武将。武田信玄を父に持つ甲斐武田家第20代当主で、武田家最後の武将です。

信玄没後、戦国最強といわれた武田軍を率いますが、長篠の戦で織田・徳川連合軍に大敗。
天正10年(1582)、織田信長が甲斐侵攻作戦を開始すると、同年3月、勝頼は韮崎新府城に火をつけ岩殿城を目指します。しかし小山田信茂の裏切りに遭い、岩櫃城を目指して天目山に分け入ったところを滝川一益の軍に遮られ、田野の地まで引き返したところで一族とともに自害しました。

というのが良く知られている歴史ですが。 

土佐には、勝頼は天目山では自害してはおらず、影武者を使った事が言い伝えられています。

信長の軍に負けた武田勝頼の一行は、上野国利根郡に一時隠れ、その後諸国を巡り、武田家の末裔である香宗我部家の住む土佐へ入ります。

土佐といえば長宗我部。
羽柴秀吉に知られるのを恐れた長宗我部元親は、勝頼に土佐の山奥に行くことを勧めます。
その後、大崎村川井入った勝頼は「大崎玄蕃(おおさきげんば)」と名乗ったというのです。

天正13年(1585)には、寺村に武田家の先祖を祀る為の菩提寺(流光山成福寺)を建立しています。現在も成福寺跡には、「観音堂」と「聖観音立像」が現存しているといいます。
さらにその翌年、勝頼(大崎玄蕃)は、川井に「川井神社」またの名を「武田城八幡宮」(現在の大崎八幡宮)を建立しています。

そして、慶長14年(西暦1609年)8月25日64歳で逝去したといいます。

土佐には、勝頼の墓(鳴玉神社)、勝頼の長男・信勝の墓、娘の墓、孫の墓、手鏡、伝説の元となっている400年前から伝えられて来たという土佐の武田家系図のほか、仁淀川町大崎地区には、武田勝頼の変名である大崎玄蕃にちなんだ「玄蕃踊り」が400年間受け継がれているといいます。

この伝説、皆さんはどう思いますか?

土佐ではこの言い伝えを、しっかりと守っています。

そして10月10日は、土佐各地に伝わる玄蕃踊りの、始まりの場所とされる大崎八幡宮の境内で踊りや太鼓を奉納し、武田勝頼没後400年を祝います。



「武田勝頼没後400年祭【秋の陣】」の詳細はこちら

武田勝頼土佐の会HP http://katsuyoritosa.web.fc2.com/index.html




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Tag : 武田勝頼 高知県 滝川一益 小山田信茂

羽柴秀吉・柴田勝家ら大失敗 信長に叱られる(今日は何の日)

8月13日 元亀4・天正元年(1573) 

この日の「信長公記」はちょっと面白いです。

8月12日夜、激しい風雨の中、織田信長は自ら馬廻りたちを率いて、ずぶ濡れになりながら、朝倉軍が篭っていた近江の大嶽城、丁野山城を攻撃、そしていとも簡単にこれを陥します。
大嶽・丁野が落ちたため、信長は朝倉勢が今夜のうちにも越前へ退却を始めると読みます。
そして先手の諸将へその旨を伝え、「退却する朝倉軍を逃さぬよう覚悟せよ」と再三にわたって命じたのです。
しかしそれでも信長は自分を抑えきれず、日が変わった13日ついに自らも越前衆陣所へ攻め入ったのです。

このとき越前軍の近くに布陣していた先手とは・・・
佐久間信盛・柴田勝家・滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀・稲葉一鉄・蒲生氏郷・進藤山城守・永田刑部少輔・阿閉貞征・山岡景隆らそうそうたる顔ぶれ。 

ところが! 
朝倉義景の退却に対して、追撃を最初に仕掛けたのは、織田信長でした。 

信長からの再三にわたる命にも関わらず、油断しきっており、信長に先を越されてしまったのです。

先手衆らはあわてて信長の後を追い、そして地蔵山でようやく信長に追いつき、神妙な面持ちで御前に並びます。 
信長は「この比興者どもめが」と彼らを激しく叱責したそうです。

「比興者」(ひきょうもの)とは、「困ったやつら」といった意味でしょうか。
いつの時代も「比興者」がいるんですね。

 

それにしても秀吉たち、焦ったろうなぁ

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Tag : 織田信長 羽柴秀吉 佐久間信盛 柴田勝家 滝川一益 蜂屋頼隆 丹羽長秀 稲葉一鉄 逸話

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