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岐阜城 陥落(今日は何の日)

岐阜城攻防戦は関ヶ原の合戦一連の戦です。

慶長5年(1600)徳川家康は、上杉景勝に上洛命令を出します。しかし、景勝は自国の会津を動かず、家老・直江兼続が、挑発的な書状(いわゆる「直江状」)を返し、徳川家康を激怒させます。

徳川家康は、会津征伐の軍事行動を起こします。(この行動は、自分が畿内を留守にして、石田三成に挙兵のチャンスを与えるためだったといわれています)
石田三成は、毛利輝元を総大将として西軍を構成し宣戦布告。伏見城を攻め落とします。一方徳川家康は「小山評定」で東軍を結成。諸将を西上させます。

西上した東軍主力は、尾張清洲城に滞陣し、家康の指示を待ちますが、当の家康は江戸から一歩も出る気配がなく、指示も出さぬまま日にちだけが進んでいました。
これは、先鋒の諸将の忠誠心をはかるためといわれています。
「自分たちは試されている」と知った諸将は競い合うようにして戦いに出ます。

東軍主力は、福束城、高須城などを次々と陥落させ、三成が援軍を出した竹鼻城も、東軍・福島正則らにより一日で陥落してしまいます。

岐阜城に追いつめられた城主織田秀信(信長の孫)は22日夜、大垣城と犬山城に救援要請を飛ばし、軍評定を開くものの、城主織田秀信の独断により木曽川にて迎え撃つと決まります。
待ち構えていた西軍織田勢は、渡河してくる東軍に対し、一斉射撃で応戦するも、数で圧倒され、後退。

城主秀信も激戦を展開しますが、敗れ、織田勢は岐阜城へと退却、援軍到着まで籠城死守することに決めます。
しかし東軍の浅野幸長、井伊直政、福島正則らが岐阜城砦に殺到。

そして23日朝、総攻撃を開始。諸砦を落とし、岐阜城は瞬く間に包囲されてしまいます。 
万策尽きた秀信は城中より笠を掲げて降伏の意を伝え、東軍はこれを容れて攻撃を停止しました。 
こうして岐阜城は、わずか一日であっけなく落城。

頼みにしていた援軍はついに一兵も来なかったといいます。


ゆかりの地・史跡
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テーマ : 戦国時代 - ジャンル : 学問・文化・芸術

Tag : 徳川家康 石田三成 上杉景勝 直江兼続 関ヶ原の合戦 直江状 岐阜県

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