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真田幸村ゆかりの地(NHK歴史秘話ヒストリアで紹介)

もうずいぶん前のことになりましたが、NHK歴史秘話ヒストリアで紹介された真田幸村ゆかりの地をまとめてみました。

真田昌幸・幸村が幽閉されていた地、九度山(くどやま)
和歌山県九度山町は、高野山の麓の町です。
最寄り駅は南海高野線の九度山駅になります。

真田の抜け穴
大坂城までつながっていて、
九度山脱出の時に使ったという伝説があります。
実は古墳の石室です。
和歌山県伊都郡九度山町九度山1339付近

真田庵
元は真田昌幸・幸村父子の屋敷跡です。
和歌山県伊都郡九度山町大字九度山1413
0736-54-2019


敷地内には、幽閉11年目に65歳で亡くなった昌幸の墓
昌幸を祀った真田地主大権現、宝物資料館があります。

真田宝物資料館
土蔵づくりの資料館です。
真田幸村が愛用したと伝えられる槍先や鎧などの
武具や書状、真田紐などが数多く展示され、
在りし日の真田一族の面影を偲ばせています。
真田庵敷地内 0736-54-2218

雷封じの井戸
真田庵の庭にあります。
屋敷に落ちた雷を、幸村が捕まえて井戸に封じ込め、
村人を落雷から救ったと伝わります。


より大きな地図で 真田の抜け穴 真田庵 を表示

町の雑貨屋さんでは「真田紐」が紹介されていました。
真田紐は、袋状のため丈夫で、鎧兜の紐に使われました。
幸村の家臣たちが真田紐を諸国で売り歩き、
徳川打倒のための情報を集めたと伝わります。

幸村からもらった手水鉢
個人の商店の庭にあるので場所の紹介は控えます。

その他、九度山町には至る所に六文銭が見られます。
また池波正太郎著の「真田太平記」に描かれている、
九度山を脱出する時に使った船渡は、
紀ノ川にかかる九度山橋の上流の深淵にあるそうです。
そこで幸村は女忍者お江に逢い、
大坂へ向かいます。

周辺の宿【九度山 中川旅館】
素泊り・真田十勇士おみやげ日本タオル付きプラン


九度山から少し離れます。

蓮華定院(れんげじょういん)
和歌山県伊都郡高野町大字高野山700
地図(クリック)
南海高野線の終点・極楽橋から高野山ケーブル~バス

古くから真田氏発祥の地・佐久の武士たちと
深い縁のあったお寺です。
幸村が焼酎を所望した書状のほか、
真田家の墓所があり、昌幸の位牌が残ります。


次は大阪へ移動します。

安居神社(やすいじんじゃ) 幸村終焉の地
真田幸村が大坂夏の陣で戦死した地と伝えられ、
真田幸村戦死跡之碑が建てられています。
手傷を負った幸村が寄りかかって休んだと伝わる
「さなだ松」は二代目になります。
大阪府大阪市天王寺区逢阪1丁目3−24
06-6771-4932

志紀長吉神社(しきながよしじんじゃ)
大坂夏の陣で、真田幸村が戦勝を祈願した神社です。
その際、伊達軍の銃弾の跡が残る六文銭軍旗と刀剣が
奉納されました。(刀剣は終戦後没収)
幸村が戦勝祈願をしたことから、江戸時代以来
勝利のご利益があるといわれます。
大阪府大阪市平野区長吉長原2丁目8−23‎ 
06-6709-1757


最後はぐっと飛んで宮城へ

当信寺(とうしんじ)
紋所は真田の六文銭。
片倉小十郎(二代目・重長)の室となった幸村の娘・阿梅や
次男・大八(片倉守信)の墓があります。
幕府から守信の調査命令が出された時、伊達家は、
守信の存在をひた隠しに隠したといいます。
本尊は幸村戦死の地、大坂天王寺から運ばれたもの。
宮城県白石市字本町62 0224-26-3473



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Tag : 真田幸村 和歌山県 大阪府 宮城県 片倉小十郎 真田昌幸

真田家ゆかりの地で紅葉巡り 温泉三昧

真田幸村の兄である真田信之が初代藩主となり
信州真田家10万石の城下町となった松代。
先週「松代藩真田十万石まつり」で盛り上がった
ばかりの松代ですが、
この街には真田宝物館や、真田邸(新御殿跡)、
菩提寺など、真田氏関連の遺跡が多くあり、
また、武田信玄と上杉謙信の川中島古戦場善光寺も近く、
歴史ファンならずとも訪れたい所です。

そしてこれからの季節、紅葉が素晴らしいスポットでもあります。

松代城(海津城)は、永禄3年(1560)頃、
甲斐の武田信玄が上杉謙信の侵攻に備えて、
家臣の山本勘助に築城させたともいわれています。
永禄4年9月の第4次川中島の戦いでは、
武田信玄の本陣となりました。

武田氏滅亡後、織田氏家臣の森長可の居城となり、
江戸時代に入り、真田信之が入城し、以後、真田家の居城と
なります。

修理復元を行い、現在は江戸時代の姿に
限りなく近い状態で再現され、一般公開しています。

特に真田邸の紅葉は見事です。

真田宝物館・真田邸・松代城
住所 長野市松代町松代4-1
休館 毎週火曜日(祝日を除く)、年末年始
開館時間 9:00~16:30
入館料 大人500円 小中学生200円

長国寺 真田家の菩提寺
真田信之の霊廟(重要文化財)をはじめ、
歴代藩主の墓所、真田幸村・大助親子の供養塔があります。
本堂の屋根の鯱と、その下にある真田家の家紋六文銭が印象的。
長野県長野市松代町松代1015-1
境内無料(真田家墓所・霊廟見学300円、内部特別拝観500円別途)
霊廟の見学は1週間前までに申し込みが必要。

長野善光寺
広い境内の様々な場所で美しい紅葉を見ることが出来ます。
長野県長野市元善町491
026-234-3591
夏期4:30~16:30、冬期6:00~16:00

▽おすすめの宿
国民宿舎 松代荘
歴史の町松代にふさわしく、施設内の日本庭園など
景観にも配慮した公共の温泉宿。


▽おすすめの宿
信州松代ロイヤルホテル
【朝食付】歴史の街!城下町松代へ行こう!プラン






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Tag : 真田幸村 真田昌幸 真田信之 温泉 武田信玄 上杉謙信 長野県

戦国動乱の中、真田昌幸が開いた湯治場

四万(しま)温泉(群馬県)
上信越の山々に囲まれて、清流四万川沿いにひっそり佇む温泉街。1,000年以上湧き続ける自慢の名湯とともに、飾らず気取らず、どこか懐かしい空気に包まれて今も湯客を出迎えてくれます。

 

真田氏は、戦乱によって荒れ果てた四万温泉の復興に尽力しました。真田幸村の父・昌幸は土地の人々の嘆願を聞き入れて、湯守と宿を配置しました。四万温泉が実質的に湯治場として機能し始めたのは、真田昌幸の時代です。

沼田城主・真田信幸(信之)の武運が永久に続くことを祈願して作られた「日向見薬師堂」は国の重要文化財。慶長3年(1598)に建立されたといいます。
その隣にある源泉の『御夢想之湯』(共同浴場)は、永延3年(989)頃に源頼光の家臣・碓氷貞光が立ち寄った際、発見したものだそうで、2~3人も入ればいっぱいの小さな浴槽があり、今も地下から温泉がこんこんと湧き続けており、古き湯治場の面影を感じさせます。一見の価値があり! 


四万やまぐち館
水と緑に恵まれました群馬県四万温泉のやまぐち館は、女性に人気の露天風呂とご家族に好評な貸切展望風呂等があり、お風呂三昧の日本旅館です。
宿泊施設以外の5軒の中からもう1軒のお風呂がご利用できる「湯めぐり入浴券」、「四万温泉特製入浴剤」付きのおすすめプラン♪
(じゃらんnet提供)

清流館 豊島屋(としまや)
客室全15室に対して、お風呂が8つで風呂自慢。手作り料理でおもてなし、地元素材で味自慢。心づくしの旅の宿です。
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四万温泉の旅館ホテル一覧はこちらから

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真田昌幸 真田幸村ゆかりの地

四万温泉


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Tag : 真田昌幸 群馬県 温泉

徳川秀忠が、上田城の真田昌幸に降伏を勧告(今日は何の日)

9月2日 慶長5年(1600)

慶長5年(1600)8月24日、徳川家康の率いる軍は東海道を、徳川秀忠率いる軍勢は宇都宮を発し中山道を通り、それぞれ関ヶ原を目指します。

徳川秀忠軍は、碓氷峠を越えて小諸城に着陣します。目の前には、石田三成を中心とする西軍に加勢した、真田昌幸の籠る上田城が見えてきました。
この先、本来なら上田を支障なく通過し、諏訪に出て木曽路を通り、美濃へ向かって家康軍と合流して、関ヶ原に進みたいところでした。

そこで9月2日、上田城に籠る真田昌幸に対し降伏を勧告するのです。

軍使は、真田昌幸の長男・真田信幸(信之)と本多忠政でした。

翌日、上田城外の信濃国分寺で真田信幸と本多忠政は、真田昌幸と会見し、城明け渡しを説得します。長男の説得に父・真田昌幸は降伏して頭を剃ると申し出たといいます。

しかし、これは籠城の為の時間稼ぎでした。
本多秀忠は真田昌幸の引き延ばし作戦に乗せられていたことを激怒。

真田信幸に弟・真田幸村(信繁)の籠る戸石城を攻めさせます。真田幸村はこれを受け、戸石城を開城。上田城に撤退します。

そして6日、上田城攻めが開始されます。
徳川秀忠軍38,000の軍勢に対し、真田方はわずか2,500。

しかし、真田昌幸は真田家得意の戦法で応戦します。
敵を城壁のそばまでおびき寄せ、城中から狙撃し、敵がひるむや否や出撃するという戦法で善戦。徳川秀忠軍は日時を浪費するのみで上田城を攻略することができませんでした。

徳川秀忠はついに上田城攻めをあきらめ、抑えの将兵だけを残し、小諸城を9月11日に出発。上田領を避け、雨境峠から大門峠を経て諏訪から塩尻、木曽福島を通り、17日妻籠宿に到着。しかしこの宿で徳川秀忠は東軍大勝利という関ヶ原の報に接します。

中山道を上った秀忠軍は、関ヶ原戦に間に合わなかったのです。徳川家康にとっては実に不愉快なことであり、徳川秀忠は当分の間、面会を許されなかったといいます。

関ヶ原の合戦後。
敗れた西軍に加勢していた真田昌幸・真田信繁(幸村)父子は九度山に配流となり、上田城は徹底的に破却されました。

ゆかりの地・史跡
上田城 長野県上田市二の丸
小諸城 長野県小諸市丁311
信濃国分寺 上田市国分1049

 



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Tag : 真田昌幸 真田幸村 真田信幸 関ヶ原の合戦 徳川家康 長野県

真田昌幸・信之・幸村、犬伏の別れ(今日は何の日)

7月21日 慶長5年1600年
真田昌幸・信之・幸村親子、犬伏の別れ


真田昌幸・幸村親子は、上杉景勝討伐へ向かった徳川家康に従い下野(栃木県)まで行軍してきていた。
そして、7月21日、下野犬伏の唐沢山城に着陣した時、昌幸の陣に石田三成からの密書が駆け込んできた。
密書は、西軍の挙兵を知らせ、昌幸の加担を求めてきたものだった。

昌幸は至急、小山に布陣していた信之にも連絡し、犬伏で親子三者会談を開いた。
三者会談の場所は、米山古墳にある薬師堂と伝わっている。

嫡男・信之は、家康が器量人であることを説き、また自分の妻が徳川家の四天王・本多忠勝の娘であることから、西軍につくことを反対する。

しかし父・昌幸の娘は三成の義兄・宇田頼次に嫁いでおり、次男・幸村(信繁)の妻は、三成の親友・大谷吉継の娘であったので、西軍につく意思を固めていた。

そして、昌幸・幸村父子は西軍に、信之は東軍に分かれて戦うこととなった。

関ヶ原の戦いのあとも父子兄弟の間は反目することがなかったことから考えて、親子で袂を分ければ、どちらが負けても真田家を存続させることができる・・・と、信濃の一武将にすぎない真田家の存続をかけた苦肉の策でもあったと推測されている。

真田幸村ゆかりの地・史跡 真田昌幸ゆかりの地・史跡
唐沢山城跡 
場所 栃木県佐野市富士見町および栃本町

米山古墳薬師堂 
場所 栃木県佐野市犬伏新町



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Tag : 真田昌幸 真田信之 真田幸村 栃木県 逸話 石田三成 徳川家康

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