ゆかりの地 都道府県検索 温泉特集 おすすめホテル・旅館(随時作成中) NEW戦国関連書籍
山梨ビデオ制作

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

細川ガラシャ(明智光秀の娘、細川忠興の正室)没(今日は何の日)

8月25日 慶長5年(1600)
 
細川ガラシャは、明智光秀の三女で、細川忠興の正室
ガラシャは洗礼名で本名は玉(珠もしくは玉子)
玉16歳の時に細川忠興と結婚。勝竜寺で婚礼が行われました。
2年間、勝竜寺城で幸せな新婚生活を過ごしたといいます。
 
父の明智光秀が天正10年、本能寺の変で織田信長を討つと、「逆臣の娘」となり、夫の忠興は玉を丹後の味土野に幽閉します。
 
以後、彼女の苦難の生活が始まります。しかしそんな中にあっても玉は、身分の分け隔てを超えた人間愛、優しさといたわりの心を常に忘れず持ち続けていたと言われています。
 
玉はこの地で侍女(清原枝賢の娘:洗礼名マリア)からキリスト教の話を聞き、信仰に救いを求めて帰依し、味土野で暮らしました。
 
幽閉から2年後、秀吉のとりなしで大坂城下の細川屋敷に戻ります。ところが側室おりょうの存在を知ったり、夫忠興の嫉妬心のため屋敷から外出が許されないなどさまざまな困難が玉の前に立ちはだかります。そんな中、心の平安をキリスト教に求めて熱心に信仰し、そしてついに洗礼を受け、ガラシャ(ラテン語で恩寵の意)という名前を授かります。
 
慶長5年(1600)、夫の忠興は、徳川家康に従い上杉征伐に出陣し、ガラシャは大阪邸の留守を守っていましたが、石田三成の軍勢に囲まれ、人質として大阪城入城を迫られます。
しかしガラシャは、人質になるのを敢然と拒否、そして8月25日、キリスト教が自害を禁じていたことから家臣(小笠原少斎)に長刀で胸を突かせて刺殺させ、館に火を放ち、悲運の最期を遂げました。
享年38でした。
 
辞世の句
ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ
 
細川ガラシャゆかりの地。史跡
生誕地 明智神社(明智光秀の邸宅跡) 福井県福井市東大味町
 
婚礼の場所 勝竜寺 京都府長岡京市勝竜寺13番1号
細川忠興・ガラシャ像があります。
 
越中井 大阪府大阪市中央区森ノ宮中央2丁目12 
細川屋敷跡の台所にあたる場所とされ、ガラシャはこの地で果てたとされています。
「越中井 細川忠興夫人秀林院 殉節之遺址」と書かれた石碑があり、側面にはガラシャの辞世の句が彫られています。この石碑は昭和9年建立。
 
ガラシャの墓 大阪市東淀川区東中島 崇禅寺
墓(五輪塔)の横に「香林院細川玉子之墓」の石碑が建っています。
細川屋敷の焼け跡から、ザビエルの弟子オルガンチノが、ガラシャの遺骨を拾い、細川家ゆかりの崇禅寺(菩提寺)に埋葬したと伝わります。
 
カトリック玉造教会 大阪市中央区玉造2丁目
教会の庭にはガラシャのための「慰霊塔」が建てられています。
死後350年を記念して、昭和25年年(1950)、細川加羅紗頌徳会が建立
また聖マリア大聖堂の前には、ガラシャの像が建てられています。
 
ゆかりの地への旅行・観光はツアーがお得!



 
 
ポチっとお願いします。とても励みになります。
スポンサーサイト

テーマ : 戦国時代 - ジャンル : 学問・文化・芸術

Tag : 細川ガラシャ 明智光秀 細川忠興 本能寺の変 石田三成 福井県 京都府 大阪府

朝倉義景自刃 朝倉家滅亡(今日は何の日)

8月20日 天正元年(1573)

朝倉義景は、織田信長の攻略を受けた小谷城の浅井長政に援軍を出しますが、織田軍の猛攻を受け、居城のある一乗谷へ敗走。

織田軍は一乗谷城にも迫り、義景は城を出て洞雲寺(大野市清瀧)へ逃れます。そして勇猛で知られる僧兵集団がいる平泉寺に使いを送り、助けを求めます。(平泉寺は当時朝倉氏と同盟関係にありました)

しかし平泉寺はすでに信長と内通していました。 
信長は、朝倉一族の景鏡(かげあきら)に対しても、信長軍に見方すれば褒美を与えると条件を出しました。

朝倉景鏡は、平泉寺と手を組んで信長に味方することに決心。義景のいる洞雲寺に使いをやり、六坊賢松寺へ移るように勧めます。

8月19日、義景は六坊賢松寺へ移りましたが、翌8月20日の早朝、景鏡は平泉寺衆徒と一緒に義景を襲いました。義景は景鏡が裏切ったことを知り、絶望のうちに自害します。

辞世の句は「七顛八倒 四十年中 無他無自 四大本空」(苦しみもがいた四十年の生涯であったが、結局他もなく自もなく、人の実体は空なのだ)

五代続いた名門の、あっけない幕切れでした。朝倉義景 享年41。


最後まで義景に付き添った近臣も自刃、近臣・鳥居景近は、景鏡勢の中へ斬り込んだものの引き返し、義景の後を追って自刃したとされています。


朝倉義景ゆかりの地・史跡
六坊賢松寺(けんしょうじ) 正確な場所は不明 (曹源寺か?)
曹源寺 福井県大野市明倫町2-18 
朝倉義景の墓の隣には、ともに自刃した近臣鳥居景近・高橋景倍の墓があり、その後ろには愛王丸、小少将(側室:愛王丸の母)、光徳院(義景の母)三人の共同墓があります。

朝倉義景館跡 墓所 福井県福井市城戸ノ内町
館跡の墓は天正4年、村民の建てた小祠が始まりで、寛文3年(1663)福井藩主松平光通によって現在の墓塔が立てられました。
朝倉氏遺跡管理事務所 TEL:0776-41-2173

愛王丸、小少将、光徳院が京都へ護送される途中で殺害された場所に、愛王丸を祀るお堂があるといいます。
愛王堂 福井県南越前町今庄

 

福井への観光・旅行はツアーがお得です。

 







ポチっとお願いします。とても励みになります。

 

 

 

テーマ : 戦国時代 - ジャンル : 学問・文化・芸術

Tag : 織田信長 朝倉義景 福井県 鳥居景近 高橋景倍 愛王丸 小少将 光徳院

大虐殺!織田信長、越前一向一揆討伐のため敦賀に宿泊(今日は何の日)

8月14日 天正3年(1575)

天正元年、武田信玄が信州駒場で死去し、2年後の天正3年(1575年)5月には、長篠の戦いで武田勝頼に大勝した織田信長。
甲斐武田の脅威が小さくなったこと、さらに越前の一向一揆分裂を好機ととらえ、越前国内の残敵掃討のため、10万余の大軍を越前に侵攻させます。 

そして8月14日、織田信長、越前国敦賀に宿泊。武藤舜秀の宿所に布陣します。
朝廷は、陣中見舞いとして「勅使」勧修寺晴豊を派遣しています。 

敦賀で軍の態勢を整えた信長は3日後、越前国内の残敵掃討戦を実行。 
壮絶な「虐殺」が開始されます。

信長は、かつて一向一揆に縁者や重臣の多くを殺されていたといいます。
その恨みは根強く、そして尋常なものではなく、一揆衆1万人以上という大虐殺に表れます。

「十万余の軍勢共、此処に追詰め、彼処に馳廻って捜し出し、切り殺し、刺し殺し、叩き殺し、踏み殺す」(北陸七国志)

ポチっとお願いします。とても励みになります。

テーマ : 戦国時代 - ジャンル : 学問・文化・芸術

Tag : 織田信長 越前一向一揆 福井県 逸話

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。