ゆかりの地 都道府県検索 温泉特集 おすすめホテル・旅館(随時作成中) NEW戦国関連書籍
山梨ビデオ制作

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

織田信長、弟・信興の弔い合戦で2万人を殺戮(今日は何の日)

9月29日 天正2年(1574)

  
フィギュア 織田信長

織田信長が石山本願寺を囲んで攻撃した「石山の戦い」は元亀元年(1570)から天正8年(1580)まで11年間も続きました。
そのきっかけは、信長が中国四国征伐をすすめるのに、瀬戸内海航路に便利な本願寺の地に城を築きたいから本願寺を明け渡せと、本願寺顕如に迫ったことに始まります。もちろん本願寺顕如はこれを断り、三好衆や一向衆、浅井朝倉勢を巻き込んでの戦いとなりました。

元亀元年(1570)11月、本願寺顕如の命令で伊勢長島の一向一揆が、尾張小木江城に迫り陥落させ、城主であり信長の弟である織田信興を自刃させてしまいます。

翌年の元亀2年(1571)、信長は信興の弔い合戦のため伊勢長島の一揆を攻めますが大敗。信長は、門徒衆に対して憎悪の炎を燃やし、比叡山を焼き討ちにします。

天正元年(1573)9月、信長は6万の軍勢で、二度目の伊勢長島攻めを開始します。しかし、北伊勢方面を手中に収めるも長島城を攻めることが出来ずに大垣に帰ります。

弟・信興が一揆勢のために割腹して果ててからというもの、信長の憎悪の念はつのる一方でした。

翌天正2年(1574)7月13日、信長は嫡男信忠を従えて、7万の軍勢で3度目の長島征伐を開始。
九鬼嘉隆に命じて、軍船や小船を集め、水軍で長島城を取り囲み、兵糧攻めにします。
海上を大船団で取り囲み、大鳥居城・篠橋城へ寄せた織田の軍勢は大鉄砲で塀・櫓を打ち崩し、間隙を与えず猛攻を加えたといいます。

観念した長島一向勢は、降伏赦免を求めますが、信長は断固として許しません。
8月2日には、大鳥居城に籠城していた一揆勢が夜間風雨に紛れて脱出を図りますが、織田勢はそれを見逃さず、追撃して男女1,000ほどを撫で斬りにします。

長島城を取り囲んでから2ヶ月が過ぎ、長島城内の過半数はその間に餓死していました。もはや抵抗する力も尽き果てた一揆勢は、9月29日ついに降伏開城します。

降伏を許された一揆勢は、それぞれ船に乗って城砦を出ようとします。しかし織田勢は彼らに鉄砲を撃ち、逃げた者は白刃をもって追い、川へ斬り落としていきます。

一揆勢は怒り狂い、7、800ばかりが裸体に抜身一本のみをたずさえて織田勢の中へ突入。織田の陣所を切り崩し、そこから大坂へ逃れたといいます。
この失態をみた信長は、残る砦に対して周囲に柵を幾重にも廻らし、砦の男女2万人を取り囲み、火をかけて焼殺させました。


本願寺顕如が降伏するのは、これから5年後の天正7年(1579)、石山本願寺を明け渡したのは翌天正8年(1580)のこと。
そして本能寺の変が天正10年(1582)。
避けて通れない道とはいえ、11年は長かった・・・

戦国武将ペンダント・鎧『織田・織田木瓜』
Amazon.co.jp通販サイト/Amazon 

1クリックで1票、応援お願いいたします。
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村


こちらもポチっとお願いします。とても励みになります。

 

スポンサーサイト

テーマ : 戦国時代 - ジャンル : 学問・文化・芸術

Tag : 織田信長 本願寺顕如 織田信興 三重県

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。