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長宗我部元親が黒瀬城を落とし南伊予を平定(今日は何の日)

10月19日 天正12年(1584)

長宗我部が土佐を統一したのは天正3年(1575)。

天正3年といえば、織田信長がその2年前に浅井・朝倉を滅亡に追い込み、翌年には長島一向一揆を鎮圧、中央で勢力拡大・統一事業を進めながらも信長包囲網に対していた頃です。
そしてこの当時は、長宗我部元親と織田信長は友好関係にありました。

元親は土佐統一後も信長と誼を通じ、領土拡大を目指します。
「一領具足」と呼ばれた半兵半農の強兵を率いて、阿波・讃岐へ進出し、天正8年(1581)までには四国の大部分を平定します。

しかし、その台頭を快く思わない信長と対立するようになり、四国征伐の準備までされていましたが、天正10年(1582)6月、本能寺の変で信長が急死。

窮地を凌いだ元親は、再び四国の平定を進め、天正10年(1582)阿波を掌握。
そして天正12(1584)年10月19日、西園寺公広の黒瀬城を落とし、南伊予を平定します。

そして翌年、河野通直らを降して伊予を制圧し、ようやく四国全土を統一するも、そのわずか数週間後、秀吉による四国征伐がはじまり、10万の兵が押し寄せ、秀吉に降伏、伊予一国の領有となってしまうのです。

信長は生前、元親をこう評していたといいます。
「鳥なき島のコウモリ」
田舎大名だが、油断のならない奴。


ゆかりの地・史跡
黒瀬城 曲輪、石垣、井戸跡などが残ります。
愛媛県西予市宇和町卯之町
JR予讃本線卯之町駅~徒歩10分で登城口

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Tag : 長宗我部元親 織田信長 高知県 愛媛県

浅井万福丸(輝政)が磔に処される(今日は何の日)

10月17日 天正元年(1573)


浅井万福丸は、北近江の鷹といわれた浅井長政の嫡男。

生母は不明。お市ではないとの説も。
2011年のNHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」で主役となる江や茶々、初の兄です。

天正元年(1573)、織田信長は、3万の軍勢を率いて北近江への侵攻を開始します。
織田軍の総攻撃が間近になったと悟った小谷城の浅井長政は、継室・お市に三人の娘(茶・初・江)と一緒に山を降りるように説得します。

織田信長も、妹・お市の身を案じ、小谷城に遣いをやり、降伏を勧告。
長政は拒むお市を説得し、三人の娘と一緒に信長の本陣へ送り届けました。

しかし嫡男の万福丸は越前へ逃がし、敦賀の木村貞之介という者のところへ預けます(生まれたばかりの次男・万寿丸は城下の寺院へ預けられた)。

天正元年9月1日、浅井長政、自害。

信長は禍根を絶つため、「我が甥である万福丸を、長政に劣らぬ立派な武将に育てる」と
お市を騙し、万福丸の居場所を聞き出したといいます。

そして早くも9月3日、万福丸は捕まり、羽柴秀吉のもとへ送り届けられたのです。

信長はすぐにその処刑を命じたといいます。

万福丸は天正元年10月17日、関ヶ原で磔(串刺しとの説も)に処されました。
万福丸、享年10。


捕まってから処刑まで、1ヶ月半、この間、何があったのでしょうか?

お市による兄・信長への、助命の懇願か?

なおこのいきさつは、秀吉の独断という話もありますが真相は不明です。





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Tag : 逸話 織田信長 浅井長政 お市の方 万福丸 羽柴秀吉 茶々 お初 お江

戦国最強の水軍を創設した九鬼嘉隆 自刃(今日は何の日)

10月12日 慶長5年(1600)

九鬼嘉隆
戦国最強ともいわれる九鬼水軍の将として
「海賊大名」の異名を取った志摩の大名。

慶長5年(1600)、九鬼嘉隆の子・守隆は、東軍の徳川家康に従って
上杉討伐へ従軍していました。父・嘉隆は家康とは不仲だったため、
石田三成率いる西軍に身を投じます。

関ヶ原の戦いは、9月15日の1日で大勢は決し、東軍の勝利が
確定します。

そして関ヶ原の戦いの後、息子・守隆は家康に、西軍に味方した
父・嘉隆の助命嘆願を必死で行い、ついに家康から父の赦免状を
賜ります。

守隆は、早く父・嘉隆に喜んでもらおうと大坂より急使を走らせます。

一方、父・嘉隆は西軍の敗北を知ると、
答志島に逃れ潮音寺で出家します。

そしてそこへ一人の使者が到着します
それは、守隆からの使者ではなく、守隆の家臣・豊田五郎右衛門が独断で発したものでした。
豊田の使者は、嘉隆が生きていては九鬼家に災い・被害が及ぶと、暗に自決を勧める言上を行います。

嘉隆も「西軍に与した自分のせいで災いが息子に及ぶことは本意ではない」と決意。
慶長5年(1600)10月12日、ついに自刃します。

その直後、四男・主殿助も五男・五郎八も相次いで自刃し、
父の後を追っています。

豊田五郎右衛門は守隆が上杉討伐に行っている間、守隆から鳥羽城の留守居役を命じられていましたが、嘉隆の攻めに遭って鳥羽城を奪われており、嘉隆を怨んでいたといわれます。

これを知った守隆は怒り狂い、豊田五郎右衛門を「のこぎり引き」の極刑に処します。

「のこぎり引き」の刑とは・・・
地中に体を埋めて地上に首から上だけを出し、
竹製の切れ味の悪いのこぎりで、首を少しずつ引いて殺すという
残酷極まりないもの。
織田信長が考案したといわれる、戦国時代の刑罰の中でも
最も酷い処刑方法。


ゆかりの地・史跡
鳥羽城 三重県鳥羽市鳥羽町 石垣、本丸、説明板のみ

答志島(とうしじま)
九鬼嘉隆首塚、九鬼嘉隆胴塚、潮音寺(ちょうおんじ)
和具港もしくは答志港が近いです。
交通:JR東海・近鉄鳥羽駅~徒歩5分~佐田浜港~定期船(リンク)~答志島

おすすめの宿
答志島温泉 寿々波
鳥羽湾を見下ろす絶好のロケーション。
夕日が綺麗な最上階の展望風呂で、答志島温泉湯が楽しめます。
夕食は、伊勢海老アワビなど獲れたて新鮮海の幸を海を見下ろすお部屋で堪能できます。
好評の若女将エステは1日3組予約限定です!

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Tag : 逸話 織田信長 羽柴秀吉 九鬼嘉隆 九鬼守隆 豊田五郎右衛門 徳川家康 三重県 温泉

大徳寺で織田信長の追善供養(今日は何の日)           総見院 秋期特別拝観!

10月11日 天正10年(1582)

天正10年6月2日、明智光秀が京都本能寺に織田信長を襲い、
信長は炎上する本能寺にて自刃します。享年49。
光秀の子孫が解き明かす「本能寺」の謎、驚愕の真実
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9月13日、羽柴秀吉は、大徳寺へ織田信長の葬礼にあたり、
銭10,000貫文、葬礼用に不動国行の太刀、葦毛の馬、
梨地金覆輪で桐鳳凰入の鞍、梨地桐鳳凰入の鎧を納め、
葬儀の準備しています。(梨地とは蒔絵の一種です)

そして天正10年10月11日
大徳寺において織田信長の追善供養が始まりました。


10月15日には、羽柴秀吉によって、大徳寺で葬儀が
執行されます。

翌年の天正11年6月2日、羽柴秀吉は、
大徳寺に総見院を創建し、信長の一周忌法要を執行します。

この際、織田信長の遺骨が阿弥陀寺にあると聞いた羽柴秀吉は、
遺骨の引き渡しを申し入れます。
しかし阿弥陀寺の清玉上人はこれを拒否。
やむなく羽柴秀吉は遺骨の代わりに信長の木像を作り、
大徳寺で盛大な追善供養を行いました。

信長の木像は2体作られ、そのうちの1体はこの時に
火葬され、残る1体が総見院に残されています。


総見院は、普段は拝観謝絶ですが、春と秋に特別拝観という形で
公開され、この信長の木像も見ることが出来ます。

大徳寺総見院 秋期特別拝観 実施中!
【住所】京都市北区紫野大徳寺町
【電話】TEL:075-231-7015(京都春秋事務局)
【交通】JR京都駅、四条河原町、三条京阪から市バス
「大徳寺前」下車 徒歩5分
【期間】10月11日~12月6日
(拝観休止日:11月6日、7日、22日、28日)
(拝観午前休止日:10月22日、26日、11月2日)
【時間】10:00~16:00
【料金】一般 600円

蓮台山 阿弥陀寺
境内には織田信長公と嫡男・信忠公の墓所、森蘭丸・坊丸・力丸兄弟の墓所があります。
また手水鉢には織田家の家紋「木瓜」が刻まれています。
【住所】京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町14
【拝観料】無料(6月2日のみ堂内開放、拝観料:1,000円)
【拝観時間】9時~16時


大徳寺・阿弥陀寺周辺の最安ホテルはこちら
 シャトレーイン京都
(じゃらんnet提供)

大徳寺・阿弥陀寺周辺のホテル・旅館一覧はこちら

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Tag : 織田信長 羽柴秀吉 明智光秀 京都府

森蘭丸がふるさとの地に甦る!【若獅子蘭丸2009】

織田信長の小姓・森蘭丸(森成利)の生誕地、岐阜県可児市兼山で10月18日(日)に戦国武者行列が開催されます。 

天正10年(1582)6月2日、森蘭丸が本能寺で最期を遂げてから

427年。
蘭丸をはじめとする森一族の武将・姫・槍隊・弓隊など、総勢60名による勇壮華麗な戦国絵巻行列が街中を練り歩きます。途中で繰り広げられる寸劇やパフォーマンスなど見どころ満載です !!

コースは、兼山本通りの蘭丸亭(12:00)から兼山振興事務所前~可成寺~貴船神社~兼山公民館(14:30)というコース。

寸劇は兼山振興事務所前(12:30頃)と、貴船神社(14:00頃)で行われます。

恒例となっているこの寸劇。今回は、蘭丸の兄・森長可にスポットを当てて、 「小牧・長久手の戦い」 を再現するといいます。

また、今回初登場の ゆるキャラ「のぶさま。」 にも注目 !!

(ネズミに見えるけど、ニホンオオカミがモチーフだそうです) 


若獅子蘭丸2009HPはこちら
岐阜県可児市周辺のホテル・宿泊一覧はこちらから

さて・・・
信長は数多くの小姓を身近に置いていたといい、信長の逆鱗に触れ、命を落とした者も少なくないといいます。その中で、森蘭丸は晩年の信長の、側近ナンバーワンの座にありました。
その森蘭丸の傑出した才覚を表す逸話がこちら。

ある日蘭丸は、多くの家臣がいる前で信長に「障子を開けたままにしてきてしまったので、閉めてこい」といわれました。蘭丸が行ってみると障子はきちんと閉められていました。

こんな時、あなたならどうしますが?
蘭丸は、障子を開け、ピシリと音を立てて閉めたといいます。

信長は大勢の者の前で「開けたままに」と言いました。
蘭丸が戻ってきて「閉まっていました」では、信長の思い違いになり、恥をかかせてしまいます。
そこで蘭丸は、一度開けて音を立てて閉めたのです。

もし、「閉まっていました」と言ったら・・・
「俺は開けたままにしてきた!ウソを申すな!」で、首を刎ねられていたのかも?

よく知られる逸話ですが、しかし私から言わせれば、このくらいの気遣いは、皆さん同様に私もやってきました。
上司が「黒」といえば、「白」も黒になる縦社会で育ちましたから。
「紙製の木箱」、「厚く薄切り」、
「キンキンに冷やしたホットコーヒー」などなど・・・

問い合わせ:蘭丸プロジェクツ
岐阜県可児市兼山701-1 兼山町商工会 内 TEL (0574) 59-2117

 

森蘭丸ゆかりの地・史跡

可児市兼山歴史民俗資料館 
岐阜県可児市兼山675-1 0574-59-2288
森一族に関する古文書など歴代の金山城主の資料を展示。
休館日/月曜日(祝日の場合は翌日)祝日の翌日 12/26~1/5
 
金山城跡
森家代々の居城となった城。森蘭丸もここを居城としました。
天文6年(1537)に斉藤道山の養子斉藤大納言正義によって古城山の山頂に築かれた山城で烏峰城と名付けられました。
永禄8年(1565)に森可成が織田信長からこの城を賜りました。
標高277mの山頂からは東・中濃地区が見渡せます。
 
可成寺
森家の菩提寺。森可成、可行、可隆、長可、蘭丸、坊丸、力丸の供養墓があります。
非公開だが、寺宝として森可成愛用の硯、森長可の画像、長可の脛当などがあります。
元は金山城東の寺ケ峰にありました。
 
常照寺
森家家老の林長兵衛為忠(妙向尼弟)によって建立されました。蘭丸らの母妙向尼とその父の墓があります。蘭丸愛用の鑓の穂先・妙向尼の画像(2幅)ありますが非公開。複製を兼山歴史民俗資料館で見ることができます。
 
信長休み石
天正10年、武田攻めの際に兼山に宿泊した織田信長が森可成の墓参りの時に
座ったとされる石が可成寺跡地にあります。見つけるのに困難?

 



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森蘭丸 (PHP文庫) 著・八尋舜右

 

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Tag : 織田信長 森蘭丸 逸話 岐阜県

織田信長の要請により山科言継が、足利義昭参内用の装束を調達する(今日は何の日)

10月7日 永禄11年(1568)

「足利義昭参内用の装束」とは、まもなく控えている、征夷大将軍就任のため京都御所に参内するためのものでしょう。(なぜ山科言継が装束の調達などをしているのか?これはまた別の機会で)


京を支配する松永久秀と三好三人衆を排して幕府権力を回復するため、上洛の機会を窺う足利義昭(義秋)の援軍要請に応え、織田信長は永禄11年の9月26日、ついに上洛を果たします。
関連記事9月4日分「今日は何の日」参照

しかし信長は入洛後息もつかずに、28日柴田勝家ら四将を先頭に立て、岩成友通の守る勝龍寺城を攻め、30日には芥川城、越水城、滝山城を次々と落とし、信長は義昭に供奉して芥川城へ入城します。

10月2日、信長は池田城を攻め寄せ、城下に火をかけて町を焼き払い、芥川の本営に凱旋。ここに五畿内およびその隣国が信長の支配するところとなります。

芥川城滞在中、信長の元へは参賀の使者が内外の珍物を携えて続々と来訪し、「門前に市をなすがごとき盛況」となったといいます。
松永久秀九十九髪茄子の茶入れ(当時の茶人の、垂涎の的)を進上。
今井宗久は、名物松嶋茶壷紹鷗茄子の茶入れ千利休の師:武野紹鷗が所持していたもの)を献じます。
中には九郎判官義経(源 義経)が一の谷で着用したという鎧を進上するものもあったといいます。
みんな一生懸命ですね。

そして10月7日 かねてより信長が山科言継に要請していた、足利義昭参内用の装束が出来上がり届きます。
山科言継は、足利義輝の御服を参考にしたといいます。

14日、信長、義昭、帰洛。
18日、義昭は朝廷より正式に宣下を受けて征夷大将軍に就任し、22日参内を果たすのです。


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Tag : 織田信長 逸話 武野紹鷗 山科言継 足利義昭 柴田勝家 岩成友通 松永久秀 今井宗久 千利休

足利義昭から上杉謙信へ上洛を促す書状が届く(今日は何の日)

10月4日 永禄8年(1565)
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永禄8年(1565)の永禄の変で、第13代将軍・足利義輝が、松永久秀や三好三人衆らによって惨殺され、将軍の権威は著しく失墜します。

京を支配する松永久秀と三好三人衆を排して幕府権力を回復するため、上洛の機会を窺う足利義昭(義秋)は、諸国の大名としきりに連絡をとります。

上杉輝虎(後の上杉謙信)に対しては、何度となく手紙を送っています。

永禄8年(1565)の8月5日には、謙信に対して、室町幕府再興を表明した書状を送っています。

そして10月4日には、北条氏康と和睦し上洛することを促す書状を、謙信に届けています。

謙信は上洛しませんでしたが、上洛の意思は示したようで、翌年の永禄9年(1565)年3月の、義昭からの書状には、「援軍派遣の意思表示を賞す」といった内容があります。

しかし、謙信には先にやらなければならないことがあったようです。

同年の5月、謙信は、「“武田信玄を討伐して”北条氏政と和睦した後に上洛し三好氏・松永氏を滅ぼし、京都の公方と鎌倉の公方を復興することを祈願」しています。謙信にとっては、「上洛は信玄を破ってから」という気持ちがあったのでしょうか。

足利義昭は諸国の大名に、援軍要請の書状を出していましたが、いずれも上洛に関しては消極的でした。

その中で唯一、積極的に上洛の意思を表明したのが、織田信長でした。
足利義昭は、明智光秀の仲介により、織田信長を頼って尾張へ移ります。

そして、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たしたのは、永禄11年9月のことでした。

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Tag : 織田信長 上杉謙信 松永久秀 三好三人衆 逸話 北条氏康 北条氏政 武田信玄 足利義昭 明智光秀

武田信玄 上洛を開始(今日は何の日)

10月3日 元亀3年(1572)


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武田信玄は、常々「早く西上して天下を取り、まつりごとを正しく行いたい」と強く望んでいました。
ですから、足利義昭の要請は、きっかけに過ぎないと思いますが・・・

元亀2年(1571年)2月、武田は織田家との同盟関係を維持したまま、足利義昭の信長包囲網要請を受ける形で、2万5000の大軍を率いて徳川領へ侵攻し、4月15日には、三河国足助城(真弓山城)を攻略します。
しかし当時武田は、上杉・北条・徳川に3方を囲まれている状況で、長期間の遠征を維持することができず、甲斐へと撤退します。

ところが、思わぬ形で東方の憂いがなくなります。
元亀2年の12月、北条氏康の遺言により、跡を継いだ北条氏政は武田と甲相同盟を復活します。これで3方のうちのひとつの憂いがなくなりました。

この年、織田信長は比叡山を焼き討ちにし、浅井・朝倉連合軍との戦いも優位に進めています。

危機迫った足利義昭は翌年・元亀3年(1572)の1月、本願寺顕如を通じ、武田信玄へ織田信長の背後を脅かすよう依頼します。

 

フィギュア 武田信玄


信玄は、まだ北の上杉謙信からの脅威があったため、本願寺顕如に要請し、越中で一向一揆を起こさせます。
こうして戦力を一点に集中できるようになった信玄は、9月29に西上作戦を開始。
そしてついに10月3日、武田信玄は、2万2000の兵力を率いて甲府から出陣しました。


その後、武田信玄は三方ヶ原の戦いで徳川家康を破り、三河に侵攻するも、持病が悪化し、信州駒場で没します。

天下取りを目指して甲府を出陣してから6ヵ月後のことでした。


武田信玄 (学研M文庫)
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Tag : 武田信玄 織田信長 徳川家康 本願寺顕如 足利義昭 北条氏政 北条氏康 山梨県 愛知県 静岡県

織田信長、弟・信興の弔い合戦で2万人を殺戮(今日は何の日)

9月29日 天正2年(1574)

  
フィギュア 織田信長

織田信長が石山本願寺を囲んで攻撃した「石山の戦い」は元亀元年(1570)から天正8年(1580)まで11年間も続きました。
そのきっかけは、信長が中国四国征伐をすすめるのに、瀬戸内海航路に便利な本願寺の地に城を築きたいから本願寺を明け渡せと、本願寺顕如に迫ったことに始まります。もちろん本願寺顕如はこれを断り、三好衆や一向衆、浅井朝倉勢を巻き込んでの戦いとなりました。

元亀元年(1570)11月、本願寺顕如の命令で伊勢長島の一向一揆が、尾張小木江城に迫り陥落させ、城主であり信長の弟である織田信興を自刃させてしまいます。

翌年の元亀2年(1571)、信長は信興の弔い合戦のため伊勢長島の一揆を攻めますが大敗。信長は、門徒衆に対して憎悪の炎を燃やし、比叡山を焼き討ちにします。

天正元年(1573)9月、信長は6万の軍勢で、二度目の伊勢長島攻めを開始します。しかし、北伊勢方面を手中に収めるも長島城を攻めることが出来ずに大垣に帰ります。

弟・信興が一揆勢のために割腹して果ててからというもの、信長の憎悪の念はつのる一方でした。

翌天正2年(1574)7月13日、信長は嫡男信忠を従えて、7万の軍勢で3度目の長島征伐を開始。
九鬼嘉隆に命じて、軍船や小船を集め、水軍で長島城を取り囲み、兵糧攻めにします。
海上を大船団で取り囲み、大鳥居城・篠橋城へ寄せた織田の軍勢は大鉄砲で塀・櫓を打ち崩し、間隙を与えず猛攻を加えたといいます。

観念した長島一向勢は、降伏赦免を求めますが、信長は断固として許しません。
8月2日には、大鳥居城に籠城していた一揆勢が夜間風雨に紛れて脱出を図りますが、織田勢はそれを見逃さず、追撃して男女1,000ほどを撫で斬りにします。

長島城を取り囲んでから2ヶ月が過ぎ、長島城内の過半数はその間に餓死していました。もはや抵抗する力も尽き果てた一揆勢は、9月29日ついに降伏開城します。

降伏を許された一揆勢は、それぞれ船に乗って城砦を出ようとします。しかし織田勢は彼らに鉄砲を撃ち、逃げた者は白刃をもって追い、川へ斬り落としていきます。

一揆勢は怒り狂い、7、800ばかりが裸体に抜身一本のみをたずさえて織田勢の中へ突入。織田の陣所を切り崩し、そこから大坂へ逃れたといいます。
この失態をみた信長は、残る砦に対して周囲に柵を幾重にも廻らし、砦の男女2万人を取り囲み、火をかけて焼殺させました。


本願寺顕如が降伏するのは、これから5年後の天正7年(1579)、石山本願寺を明け渡したのは翌天正8年(1580)のこと。
そして本能寺の変が天正10年(1582)。
避けて通れない道とはいえ、11年は長かった・・・

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Tag : 織田信長 本願寺顕如 織田信興 三重県

織田信長、上杉謙信献上の若鷹に感激(今日は何の日)

9月25日 元亀2年(1571)

元亀2年というと、織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちにし、家臣の明智光秀が坂本城を築城しています。その前年の元亀元年には、織田信長は姉川の合戦で、浅井・朝倉を破っています。

元亀2年(1571)1月、織田信長は、陸奥国へ鷹師2名を派遣するため、過書(関所通行の許可証)及び道中の警固を上杉謙信に依頼しています。

そして9月25日、上杉謙信に求めていた若鷹が織田信長の元に到着し、その非情に珍しい様に感激、“秘蔵し自愛する”ことで謝意を表明しました。

この頃の織田信長と上杉謙信は、仲が良かったのでしょうか。
その翌年の元亀3年(1572)、武田信玄に抵抗するため上杉謙信は、申し出のあった織田信長と同盟を結びます。

しかし、天正4年(1576)には、織田信長との同盟を破棄して、反信長包囲網を築き上げ、信長との対立を明らかにしました。


織田信長に仕えていた鷹匠は、現在にも伝承されている諏訪流鷹匠といい、(吉田流という鷹匠も仕えていたようです)明治時代には、宮内省鷹師として鷹匠の中核となり、放鷹術を現代に伝えているといいます。

元亀2年は、織田信長にとっては、とても忙しい年だったでしょう。
頭領として、ストレスも多かったのでしょうか?
鷹狩は、そのストレス解消法のひとつだったのかもしれませんね。



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Tag : 織田信長 上杉謙信 逸話

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