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武田信玄が上野の箕輪城を総攻撃(今日は何の日)

9月27日 永禄9年(1566)

天文21年(1552)、北条氏康に追われた関東管領上杉憲政は、越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、上杉姓と関東管領職を譲ります。
このままだと関東の上野が長尾景虎の支配下となって、越後と上野の両面から領地を脅かされることになる甲斐の武田信玄は、そうなる前に上野侵攻を決意します。

しかし上野の西部を支配する箕輪城は、政略にも優れていた智勇兼備の名将・長野業政(ながの なりまさ)が守っていました。

武田信玄は、弘治3年(1557)上野侵攻を開始しますが、長野業政の巧みな守りに箕輪城を落とすことは出来ず退却。
武田信玄は以後計6度に渡る上野侵攻を繰り返しますが、長野業政は見事にこれを退けたといいます。

信玄は「業正ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と嘆いたといいます。

しかしその長野業政が永禄4年(1561)に病死。業政の死を知ると信玄は大いに喜び、「これで上野を手に入れたも同然」と述べて、すぐに軍を上野に向けます。

まず箕輪城を中心とした一揆の一角、小幡氏が武田に降り、永禄7年(1564)には安中・松井田城、さらに翌年には箕輪城の支城・倉賀野城が落城します。

そして永禄9年(1566)、里見城・雉郷城・鷹留城を落とし、箕輪城を孤立させると9月27日、武田信玄は箕輪城に総攻撃を仕掛けます。
まず若田ヶ原で野戦となりますが、数に勝る武田軍に押されて箕輪城に引き籠りました。

そして9月29日暁より武田軍は箕輪城を攻めます。
箕輪城の城兵は城門を開き打って出ます。しかしその度に討ち死にし、城兵の数も少なくなると、ついに城主・長野業盛は、持仏堂に入り、念仏を三遍唱えて自害。家臣たちもその後を追って自害したといいます。

箕輪城は武田氏の上野経営の拠点と位置づけられ、有力家臣である甘利昌忠、真田幸隆(幸綱)、浅利信種が城代に任じられました。


武田信玄ゆかりの地
箕輪城址 群馬県群馬郡箕郷町西明屋字城山



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Tag : 武田信玄 上杉謙信 群馬県 長野業政 甘利昌忠 真田幸隆 浅利信種 逸話

戦国動乱の中、真田昌幸が開いた湯治場

四万(しま)温泉(群馬県)
上信越の山々に囲まれて、清流四万川沿いにひっそり佇む温泉街。1,000年以上湧き続ける自慢の名湯とともに、飾らず気取らず、どこか懐かしい空気に包まれて今も湯客を出迎えてくれます。

 

真田氏は、戦乱によって荒れ果てた四万温泉の復興に尽力しました。真田幸村の父・昌幸は土地の人々の嘆願を聞き入れて、湯守と宿を配置しました。四万温泉が実質的に湯治場として機能し始めたのは、真田昌幸の時代です。

沼田城主・真田信幸(信之)の武運が永久に続くことを祈願して作られた「日向見薬師堂」は国の重要文化財。慶長3年(1598)に建立されたといいます。
その隣にある源泉の『御夢想之湯』(共同浴場)は、永延3年(989)頃に源頼光の家臣・碓氷貞光が立ち寄った際、発見したものだそうで、2~3人も入ればいっぱいの小さな浴槽があり、今も地下から温泉がこんこんと湧き続けており、古き湯治場の面影を感じさせます。一見の価値があり! 


四万やまぐち館
水と緑に恵まれました群馬県四万温泉のやまぐち館は、女性に人気の露天風呂とご家族に好評な貸切展望風呂等があり、お風呂三昧の日本旅館です。
宿泊施設以外の5軒の中からもう1軒のお風呂がご利用できる「湯めぐり入浴券」、「四万温泉特製入浴剤」付きのおすすめプラン♪
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清流館 豊島屋(としまや)
客室全15室に対して、お風呂が8つで風呂自慢。手作り料理でおもてなし、地元素材で味自慢。心づくしの旅の宿です。
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Tag : 真田昌幸 群馬県 温泉

織田四天王・滝川一益 逝く (今日は何の日)

9月9日 天正14年(1586)
 
滝川一益は、近江甲賀の出身で、浪人中を織田信長に拾われたと伝わります。
武功によって出世し、織田四天王にまでのぼりつめた織田家中の重鎮で、豪放磊落な武将として知られています。
その戦いぶりも勇猛で、先鋒でも殿でも、一益に任せておけば安心だと信長にほめちぎられました。
 
永禄12年(1569)伊勢北畠氏の攻略や、天正2年(1579)伊勢長島一向一揆征伐での武功を認められ、長島城と北伊勢などの支配権を与えられました。
この頃には、宿老として名を連ねるまでに出世しています。
 
天正10年(1582)には、甲斐武田の征伐を企画、一益自身も軍監として出陣し、武田勝頼を天目山に追いつめ討ち取り、関東管領の栄職につきます。
 
しかし、本能寺の変後の北条氏との神流川の戦いで大敗。滝川軍1万8千、北条軍5万が激突したこの戦は、戦国史上、関東で最大の戦といわれ、滝川軍は3,760名もの死者を出しました。
さらに羽柴秀吉との織田家後継者争いにも敗れ、剃髪し越前大野に蟄居します。
 
そして越前の小さな所領で、晩年を穏やかに過ごし、
天正14年の9月9日、亡くなりました。享年62。
 
関東管領として上野の厩橋城に住んでいたときのこと。
山で鶴と雀を見つけた一益は、しばらく眺めたあと、静かに近臣にこう言ったといいます。
【滝川一益 名言】
『我らが昼夜の心遣い察して見よ。汝らは鶴を羨まず、雀の楽しみを候え』。
(鶴は、我ら大名のように常に周囲を警戒しながら餌を食べ、寸部の油断もない。大名はわずかの間も気楽に過ごすことはできない。それに比べて、雀は人がいても平気で餌を食い、仲間同士で遊んでいる。お前たちは雀の楽しみを味わうが良い)
 
大名としての生活に疲れていたのでしょうか。
織田四天王にまでのぼりつめた一益の言葉。その立場になってみなければ言うことができません。そう、その立場になってみなければ・・・!
 
 
今週特集している前田慶次は、一益の甥っ子とも実子とも言われています。
(加賀藩史料)
 
ゆかりの地・史跡
厩橋城(前橋城) 群馬県前橋市大手町1丁目 
石垣、土塁、堀などの一部が現存します。
 
滝川一益墓所
高野山金剛峯寺 和歌山県伊都郡高野町高野山132
信楽寺 島根県松江市竪町88
妙心寺 京都府京都市右京区花園妙心寺町64


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Tag : 織田信長 滝川一益 前田慶次 逸話 名言 群馬県 島根県 京都府

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