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上杉景勝が五十公野城を攻略(今日は何の日)

10月24日天正15年(1587)

上杉景勝軍の寄せ手は直江兼続、藤田信吉。
上杉景勝31歳、直江兼続27歳の時のことです。

天正15年(1587)年10月13日、景勝は新発田重家領内の五十公野(いじみの)城の東の峰続きに本陣を構え、火矢・大砲で攻めます。
そのときすでに城内には内応者が出ていました。
それは城主・五十公野信宗の側近、河瀬次太夫、羽黒権太夫などでした。

信宗自身も本丸を出て討って出たのですが、藤田信吉隊が木戸に迫ったところで、内通者が城門を開け放ち、藤田軍を引き入れます。
寄せ手は木戸を押し破って乱入、二ノ丸に火を放ったため、やむをえず信宗は本丸に入ろうとしますが、「ニの見橋」の上で内通者の羽黒権太夫が馬上よりこれを引きずりおろし、そこを河瀬らに頸を切られてしまいました。
そして10月24日、城兵一千余も討ち死にし、新発田氏の重要拠点だった五十公野城は落城してしまいました。(10月13日説あり)

そのまま上杉景勝、直江兼続は1万の兵で新発田城を包囲。
新発田勢は家臣共々最後まで戦いますが、ついに新発田重家は城を打って出て、敵陣に突入すると甲冑を脱ぎ捨て、真一文字に腹を掻き切って自刃したといいます。

ここに、7年もの間、直江兼続を悩ませ続けた新発田重家の乱が集結します。

ゆかりの地・史跡
五十公野城址
新潟県新発田市五十公野 新発田市立東中学校裏手
城跡説明板、曲輪跡、堀切、土塁など。

五十公野御茶屋
新潟県新発田市五十公野4926
入場料:無料 
休館日/月曜日(月曜日が祝日・振替休日の場合は翌日が休み)、12月1日~3月31日
新発田市役所(生涯学習課):TEL.0254(22)3715(代)
五十公野御茶屋は、新発田藩藩主溝口家の別邸、茶寮として使われた庭園。

現在の建物は1814年(文化11年)建築。1999年(平成11年)に復元修理。新潟県指定有形文化財および国指定名勝です。
奉先堂公園の名称で日本の歴史公園100選にの指定されている、回遊式日本庭園は見事で、日本の美の奥行きを十分に感じさせてくれます。現在の御茶屋は、数寄屋造りの簡素なたたずまい。ゆったりとした気分になれる場所です。
紅葉も素晴らしいところですよ。


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Tag : 逸話 直江兼続 上杉景勝 新潟県 新発田重家

浅井万福丸(輝政)が磔に処される(今日は何の日)

10月17日 天正元年(1573)


浅井万福丸は、北近江の鷹といわれた浅井長政の嫡男。

生母は不明。お市ではないとの説も。
2011年のNHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」で主役となる江や茶々、初の兄です。

天正元年(1573)、織田信長は、3万の軍勢を率いて北近江への侵攻を開始します。
織田軍の総攻撃が間近になったと悟った小谷城の浅井長政は、継室・お市に三人の娘(茶・初・江)と一緒に山を降りるように説得します。

織田信長も、妹・お市の身を案じ、小谷城に遣いをやり、降伏を勧告。
長政は拒むお市を説得し、三人の娘と一緒に信長の本陣へ送り届けました。

しかし嫡男の万福丸は越前へ逃がし、敦賀の木村貞之介という者のところへ預けます(生まれたばかりの次男・万寿丸は城下の寺院へ預けられた)。

天正元年9月1日、浅井長政、自害。

信長は禍根を絶つため、「我が甥である万福丸を、長政に劣らぬ立派な武将に育てる」と
お市を騙し、万福丸の居場所を聞き出したといいます。

そして早くも9月3日、万福丸は捕まり、羽柴秀吉のもとへ送り届けられたのです。

信長はすぐにその処刑を命じたといいます。

万福丸は天正元年10月17日、関ヶ原で磔(串刺しとの説も)に処されました。
万福丸、享年10。


捕まってから処刑まで、1ヶ月半、この間、何があったのでしょうか?

お市による兄・信長への、助命の懇願か?

なおこのいきさつは、秀吉の独断という話もありますが真相は不明です。





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Tag : 逸話 織田信長 浅井長政 お市の方 万福丸 羽柴秀吉 茶々 お初 お江

まことの武将・武田信繁と真田信繁(幸村)

武田信繁は、信玄の4歳下の弟です。別名:典厩
文武・人物ともに優れ家中の人望も高く、武田信玄の
副将として活躍しました。

永禄4年(1561)第4次川中島の戦いで、
上杉軍が武田軍に迫り、武田軍が劣勢に追い込まれる中、
武田信繁はすぐさま信玄に遣いをやります。

「我が隊は全員玉砕をもって眼前の敵を防ぎとめるので
援軍の必要はない。御大将にはよろしく大局の戦勝を」
と伝え、自ら敵陣に突撃し、討ち死を遂げました。
武田信繁、享年37。

戦いの後、信玄は信繁の遺体を抱いて号泣したといいます。

遺骸は鶴巣寺(のちに典厩寺)の境内に埋められました。

美濃・崇福寺の快川紹喜は
「典厩公の戦死は、惜しみても尚惜しむべし。蒼天」
書き記しています。

武田四天王のひとり、山県昌景は
「古典厩信繁、内藤昌豊こそは、毎事相整う真の副将なり」
と評したといいます(『甲陽軍鑑』)。

また江戸時代の儒学者である室鳩巣はこう賞賛しています。
「典厩公こそは天文、永禄の間に賢と称すべき武将であった。
兄信玄に使えて人臣を失うことなく、その忠臣、誠実は
人の心に通じ、加えて武威武略に長じ、知剛知柔、
まことの武将とは信繁のごとき人物をいう」


第4次川中島の戦いの際、信玄の小姓役だった真田昌幸は、
信繁の武勇に深く感じ、次男に信繁と命名しています。


武田信繁ゆかりの地・史跡
典厩寺
武田信繁の菩提を弔うために真田昌幸の長男・信之が
寺号を典厩寺と改称して、寺領5石の朱印地を給しました。

八代藩主・真田幸貫は、万延元年(1860)、
川中島合戦300年を記念して閻魔堂を建立し、
6,000余名といわれる戦没者の菩提を弔いました。

典厩寺の山門は、真田3代藩主幸道の霊屋の門を
移築したもの。
典厩寺は真田歴代藩主から手厚い保護をうけました。

武田信繁の墓の他、典厩信繁公の首きよめの井戸、
信玄の愛石(躑躅ヶ崎館の庭石)、
謙信の力石(春日山の石)
川中島典厩寺記念館などがあります。
長野市篠ノ井杵渕1000  026-292-3335

川中島典厩寺記念館
入館料:大人200円 小中学生150円
信玄や信繁、山本勘助の絵や、
信繁が着用した鎧・兜・刀・槍の柄、鶴の足の鞭、
謙信の鉄扇などが置いてあります。

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Tag : 逸話 武田信玄 武田信繁 真田幸村 長野県

直江兼続の子・竹松のために開かれた五色温泉

NHK大河ドラマ「天地人」で直江兼続の子・竹松が病弱であることが語られていました。 

直江兼続は、眼を患った某僧が五色の湯に入って治ったという話を耳にし、生来の病弱に加え、両眼を病んでいた嫡子景明(竹松)のために、慶長14年(1609)、五色温泉に湯壷を開いたといいます。
浴舎や小屋を設け、大名並みに足軽60名に警護させ、長い湯治を行ったそうです。

実は天正年間、医者の薬で治らない奇病にかかった兼続が、五色温泉に湯冶に訪れ、快癒したという経験があったみたいです。

その五色温泉は、1300年ほど昔に役の行者が吾妻山中で五色の湯煙が立上るのを見つけ、温泉を発見したといいます。

五色温泉は炭酸水素塩泉で、そのお湯が含むカルシウムイオンやマグネシウムイオンには鎮静作用があり、けいれんや痛みをやわらげて炎症を抑える効果があります。

ですので、竹松の病がどんなものであったか分かりませんが、炎症性の目の病気(結膜炎、角膜炎、ブドウ膜炎)などには有効かもしれません。

▽五色温泉の宿
五色温泉 宗川旅館(むねかわりょかん)
秘湯好きにはたまらない、山あいの一軒宿(注:口コミ参照のこと)
立ち寄りも可能です。


(じゃらんnet提供)


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Tag : 逸話 直江兼続 山形県

戦国最強の水軍を創設した九鬼嘉隆 自刃(今日は何の日)

10月12日 慶長5年(1600)

九鬼嘉隆
戦国最強ともいわれる九鬼水軍の将として
「海賊大名」の異名を取った志摩の大名。

慶長5年(1600)、九鬼嘉隆の子・守隆は、東軍の徳川家康に従って
上杉討伐へ従軍していました。父・嘉隆は家康とは不仲だったため、
石田三成率いる西軍に身を投じます。

関ヶ原の戦いは、9月15日の1日で大勢は決し、東軍の勝利が
確定します。

そして関ヶ原の戦いの後、息子・守隆は家康に、西軍に味方した
父・嘉隆の助命嘆願を必死で行い、ついに家康から父の赦免状を
賜ります。

守隆は、早く父・嘉隆に喜んでもらおうと大坂より急使を走らせます。

一方、父・嘉隆は西軍の敗北を知ると、
答志島に逃れ潮音寺で出家します。

そしてそこへ一人の使者が到着します
それは、守隆からの使者ではなく、守隆の家臣・豊田五郎右衛門が独断で発したものでした。
豊田の使者は、嘉隆が生きていては九鬼家に災い・被害が及ぶと、暗に自決を勧める言上を行います。

嘉隆も「西軍に与した自分のせいで災いが息子に及ぶことは本意ではない」と決意。
慶長5年(1600)10月12日、ついに自刃します。

その直後、四男・主殿助も五男・五郎八も相次いで自刃し、
父の後を追っています。

豊田五郎右衛門は守隆が上杉討伐に行っている間、守隆から鳥羽城の留守居役を命じられていましたが、嘉隆の攻めに遭って鳥羽城を奪われており、嘉隆を怨んでいたといわれます。

これを知った守隆は怒り狂い、豊田五郎右衛門を「のこぎり引き」の極刑に処します。

「のこぎり引き」の刑とは・・・
地中に体を埋めて地上に首から上だけを出し、
竹製の切れ味の悪いのこぎりで、首を少しずつ引いて殺すという
残酷極まりないもの。
織田信長が考案したといわれる、戦国時代の刑罰の中でも
最も酷い処刑方法。


ゆかりの地・史跡
鳥羽城 三重県鳥羽市鳥羽町 石垣、本丸、説明板のみ

答志島(とうしじま)
九鬼嘉隆首塚、九鬼嘉隆胴塚、潮音寺(ちょうおんじ)
和具港もしくは答志港が近いです。
交通:JR東海・近鉄鳥羽駅~徒歩5分~佐田浜港~定期船(リンク)~答志島

おすすめの宿
答志島温泉 寿々波
鳥羽湾を見下ろす絶好のロケーション。
夕日が綺麗な最上階の展望風呂で、答志島温泉湯が楽しめます。
夕食は、伊勢海老アワビなど獲れたて新鮮海の幸を海を見下ろすお部屋で堪能できます。
好評の若女将エステは1日3組予約限定です!

(じゃらんnet提供)

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Tag : 逸話 織田信長 羽柴秀吉 九鬼嘉隆 九鬼守隆 豊田五郎右衛門 徳川家康 三重県 温泉

森蘭丸がふるさとの地に甦る!【若獅子蘭丸2009】

織田信長の小姓・森蘭丸(森成利)の生誕地、岐阜県可児市兼山で10月18日(日)に戦国武者行列が開催されます。 

天正10年(1582)6月2日、森蘭丸が本能寺で最期を遂げてから

427年。
蘭丸をはじめとする森一族の武将・姫・槍隊・弓隊など、総勢60名による勇壮華麗な戦国絵巻行列が街中を練り歩きます。途中で繰り広げられる寸劇やパフォーマンスなど見どころ満載です !!

コースは、兼山本通りの蘭丸亭(12:00)から兼山振興事務所前~可成寺~貴船神社~兼山公民館(14:30)というコース。

寸劇は兼山振興事務所前(12:30頃)と、貴船神社(14:00頃)で行われます。

恒例となっているこの寸劇。今回は、蘭丸の兄・森長可にスポットを当てて、 「小牧・長久手の戦い」 を再現するといいます。

また、今回初登場の ゆるキャラ「のぶさま。」 にも注目 !!

(ネズミに見えるけど、ニホンオオカミがモチーフだそうです) 


若獅子蘭丸2009HPはこちら
岐阜県可児市周辺のホテル・宿泊一覧はこちらから

さて・・・
信長は数多くの小姓を身近に置いていたといい、信長の逆鱗に触れ、命を落とした者も少なくないといいます。その中で、森蘭丸は晩年の信長の、側近ナンバーワンの座にありました。
その森蘭丸の傑出した才覚を表す逸話がこちら。

ある日蘭丸は、多くの家臣がいる前で信長に「障子を開けたままにしてきてしまったので、閉めてこい」といわれました。蘭丸が行ってみると障子はきちんと閉められていました。

こんな時、あなたならどうしますが?
蘭丸は、障子を開け、ピシリと音を立てて閉めたといいます。

信長は大勢の者の前で「開けたままに」と言いました。
蘭丸が戻ってきて「閉まっていました」では、信長の思い違いになり、恥をかかせてしまいます。
そこで蘭丸は、一度開けて音を立てて閉めたのです。

もし、「閉まっていました」と言ったら・・・
「俺は開けたままにしてきた!ウソを申すな!」で、首を刎ねられていたのかも?

よく知られる逸話ですが、しかし私から言わせれば、このくらいの気遣いは、皆さん同様に私もやってきました。
上司が「黒」といえば、「白」も黒になる縦社会で育ちましたから。
「紙製の木箱」、「厚く薄切り」、
「キンキンに冷やしたホットコーヒー」などなど・・・

問い合わせ:蘭丸プロジェクツ
岐阜県可児市兼山701-1 兼山町商工会 内 TEL (0574) 59-2117

 

森蘭丸ゆかりの地・史跡

可児市兼山歴史民俗資料館 
岐阜県可児市兼山675-1 0574-59-2288
森一族に関する古文書など歴代の金山城主の資料を展示。
休館日/月曜日(祝日の場合は翌日)祝日の翌日 12/26~1/5
 
金山城跡
森家代々の居城となった城。森蘭丸もここを居城としました。
天文6年(1537)に斉藤道山の養子斉藤大納言正義によって古城山の山頂に築かれた山城で烏峰城と名付けられました。
永禄8年(1565)に森可成が織田信長からこの城を賜りました。
標高277mの山頂からは東・中濃地区が見渡せます。
 
可成寺
森家の菩提寺。森可成、可行、可隆、長可、蘭丸、坊丸、力丸の供養墓があります。
非公開だが、寺宝として森可成愛用の硯、森長可の画像、長可の脛当などがあります。
元は金山城東の寺ケ峰にありました。
 
常照寺
森家家老の林長兵衛為忠(妙向尼弟)によって建立されました。蘭丸らの母妙向尼とその父の墓があります。蘭丸愛用の鑓の穂先・妙向尼の画像(2幅)ありますが非公開。複製を兼山歴史民俗資料館で見ることができます。
 
信長休み石
天正10年、武田攻めの際に兼山に宿泊した織田信長が森可成の墓参りの時に
座ったとされる石が可成寺跡地にあります。見つけるのに困難?

 



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森蘭丸 (PHP文庫) 著・八尋舜右

 

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Tag : 織田信長 森蘭丸 逸話 岐阜県

伊達政宗、畠山義継を父・輝宗と共に討つ(今日は何の日)

10月8日 天正13年(1585)

伊達政宗の起こした事件(?)でよく知られる、
父・輝宗の銃殺です。
この時、政宗19歳。家督を継いでまだ1年経っていません。
父・銃殺の経緯は、過去記事を参照いただくとして・・・

過去記事 戦国武将物語 伊達政宗その1 伊達政宗その2


今回は畠山義継が伊達家へ降伏に至ったいきさつの辺りを。

二本松城の畠山義継は、天正13年(1585)5月、
伊達政宗が黒川城(会津)の芦名氏を攻めた時に、
芦名に味方して政宗を敗走に追い込ました。
また同年8月、政宗が小浜の大内定綱を攻めた時にも義継は、
会津の芦名と共に後ろから伊達軍を攻撃し、
政宗を窮地に追い込みました。


しかし政宗はこの戦で勝利し、小浜城の支城である
小手森城・城内の男女800人を殺戮します。
(小手森城の撫で斬り)


政宗の次の目標はもちろん、二本松の畠山義継。

しかし、苛烈無惨な政宗の仕置きに恐れた畠山義継は、
政宗の大叔父である伊達実元に泣きつきます。


「この義継、かつては輝宗殿のご奉公につかまつったこともあります。
事情があってやむなく一時は芦名や大内に味方しましたが、
伊達家に異心あってのことではありません」

全くの詭弁ですね。こんな道理が通るはずがありません。
畠山勢に2度もやられている政宗です。
「手のひらを返した戯言なり」(会津四家合孝)と一蹴します。

しかし隠居した伊達輝宗の仲介により、義継は命は助けられることと
なります。
その代わり、義継の領地のうち、その大部分、杉田川以南と
油井川以北を没収、世子の国王丸を人質に出せ、
という非常に
厳しい条件が出されたのです。

倒すか倒されるかの戦国の世、当然の仕置きです。
しかし命を助けられただけでも万々歳であり、
これを呑むほか生きる道は無いというのに、
どこまでも図々しい義継は、領地の半分は残してくれ、
と再び泣きついたといいます。

結局、政宗はこの義継の願いを受け入れることはありませんでした。

義継も仕方なく、この仕置きを受け入れるのですが、
仲介のお礼ということで伊達輝宗の宮森城を訪ね、帰り際に
輝宗を拉致し、駆けつけた政宗によって輝宗もろとも
銃殺されます。

天正13年10月8日のことでした。

伊達輝宗 享年42
畠山義継 享年33

二本松城(霞ヶ城・白旗城) 福島県二本松市郭内4丁目
黒川城(鶴ヶ城・会津若松城)福島県会津若松市追手町1-1
小浜城 福島県二本松市小浜字下館
小手森城 福島県二本松市針道字愛宕森

家紋ストラップ伊達政宗
(伊達家より家紋使用許可済み)
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Tag : 伊達政宗 逸話 福島県 畠山義継 大内定綱 伊達実元 伊達輝宗

織田信長の要請により山科言継が、足利義昭参内用の装束を調達する(今日は何の日)

10月7日 永禄11年(1568)

「足利義昭参内用の装束」とは、まもなく控えている、征夷大将軍就任のため京都御所に参内するためのものでしょう。(なぜ山科言継が装束の調達などをしているのか?これはまた別の機会で)


京を支配する松永久秀と三好三人衆を排して幕府権力を回復するため、上洛の機会を窺う足利義昭(義秋)の援軍要請に応え、織田信長は永禄11年の9月26日、ついに上洛を果たします。
関連記事9月4日分「今日は何の日」参照

しかし信長は入洛後息もつかずに、28日柴田勝家ら四将を先頭に立て、岩成友通の守る勝龍寺城を攻め、30日には芥川城、越水城、滝山城を次々と落とし、信長は義昭に供奉して芥川城へ入城します。

10月2日、信長は池田城を攻め寄せ、城下に火をかけて町を焼き払い、芥川の本営に凱旋。ここに五畿内およびその隣国が信長の支配するところとなります。

芥川城滞在中、信長の元へは参賀の使者が内外の珍物を携えて続々と来訪し、「門前に市をなすがごとき盛況」となったといいます。
松永久秀九十九髪茄子の茶入れ(当時の茶人の、垂涎の的)を進上。
今井宗久は、名物松嶋茶壷紹鷗茄子の茶入れ千利休の師:武野紹鷗が所持していたもの)を献じます。
中には九郎判官義経(源 義経)が一の谷で着用したという鎧を進上するものもあったといいます。
みんな一生懸命ですね。

そして10月7日 かねてより信長が山科言継に要請していた、足利義昭参内用の装束が出来上がり届きます。
山科言継は、足利義輝の御服を参考にしたといいます。

14日、信長、義昭、帰洛。
18日、義昭は朝廷より正式に宣下を受けて征夷大将軍に就任し、22日参内を果たすのです。


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Tag : 織田信長 逸話 武野紹鷗 山科言継 足利義昭 柴田勝家 岩成友通 松永久秀 今井宗久 千利休

「上杉家120万石から30万石に減封」の厳しさ

10月4日のNHK天地人で、上杉家が120万石から30万石に
減封
され、家臣たちが大騒ぎしていましたね。
それを直江兼続が治めていましたが、
どのくらい大変なことなのか・・・?


模造刀『上杉景勝』拵え
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1石は、米1合の千倍、つまり1,000合(約150kg)です。
現在のお金に換算すると、6万円ほどになるそうです。

広さは、1石≒1反≒300坪≒990㎡

上杉家は120万石でしたから、年収720億円ということです。
上杉家直属の家臣は6000人ほど。
6000人の家臣で割ると、年収1人平均1200万円です。

しかし、これはあくまで平均で、
6,000人の家臣の大半は下級武士で、20~50石ほどですので、
年収120~300万円
となります。

そして家臣は、大名から与えられた所領40石に対して1人
戦の時に兵を出さなければなりませんでした。 (いわゆる農民兵)

つまり、40石を与えられていたら、年収が240万円。
その内から、1人の兵とその家族が食べていける分を
出さなければならない
ということで、
家臣の生活も楽ではなかったでしょう。

さて、上杉家は120万石から30万石に減封ですから、
720億円から180億円に減収ということです。
6000人の家臣で割ると、
年収1人平均1200万だったのが、300万円です。
(あくまで平均で)

しかも家臣6,000人だけではなく、
その家族や軍勢(農民兵とその家族)なども含め
3万人が引っ越したといわれています。


どう考えてもこの収入では軍勢など養えません。
しかしそれでは戦の時に、直属の家臣6,000人だけ
なってしまいます。
ですから軍勢は養わなければなりません。

社員の数を減らさずに、会社の収益が4分の1というのは・・・
非常にヒジョ~に厳しいです。

守りの名将・上杉景勝の戦歴 (新書y)
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Tag : 直江兼続 逸話 上杉景勝 山形県 福島県

足利義昭から上杉謙信へ上洛を促す書状が届く(今日は何の日)

10月4日 永禄8年(1565)
フィギュア 上杉謙信 Aタイプ
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永禄8年(1565)の永禄の変で、第13代将軍・足利義輝が、松永久秀や三好三人衆らによって惨殺され、将軍の権威は著しく失墜します。

京を支配する松永久秀と三好三人衆を排して幕府権力を回復するため、上洛の機会を窺う足利義昭(義秋)は、諸国の大名としきりに連絡をとります。

上杉輝虎(後の上杉謙信)に対しては、何度となく手紙を送っています。

永禄8年(1565)の8月5日には、謙信に対して、室町幕府再興を表明した書状を送っています。

そして10月4日には、北条氏康と和睦し上洛することを促す書状を、謙信に届けています。

謙信は上洛しませんでしたが、上洛の意思は示したようで、翌年の永禄9年(1565)年3月の、義昭からの書状には、「援軍派遣の意思表示を賞す」といった内容があります。

しかし、謙信には先にやらなければならないことがあったようです。

同年の5月、謙信は、「“武田信玄を討伐して”北条氏政と和睦した後に上洛し三好氏・松永氏を滅ぼし、京都の公方と鎌倉の公方を復興することを祈願」しています。謙信にとっては、「上洛は信玄を破ってから」という気持ちがあったのでしょうか。

足利義昭は諸国の大名に、援軍要請の書状を出していましたが、いずれも上洛に関しては消極的でした。

その中で唯一、積極的に上洛の意思を表明したのが、織田信長でした。
足利義昭は、明智光秀の仲介により、織田信長を頼って尾張へ移ります。

そして、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たしたのは、永禄11年9月のことでした。

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Tag : 織田信長 上杉謙信 松永久秀 三好三人衆 逸話 北条氏康 北条氏政 武田信玄 足利義昭 明智光秀

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