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浜名湖 紅葉温泉紀行  家康に運を授けた“出世城”!

家康に運を授けた“出世城”!
~静岡県浜松市~

家康が生涯で最大の負け戦を喫したことで知られる
遠州浜松の居城・浜松城周辺は、紅葉の名所としても
知られています。
今回は浜名湖畔の街から、秋のおすすめ“観光ルート”を
勝手気ままにご紹介します…



▼“やらまいかスピリッツ”が宿る:浜松城
三河から東進し、今川領の制圧を開始した徳川家康が、
名将・武田信玄の侵攻に備える拠点として、1570年に
築城した浜松城。

遠州一帯を見渡せる丘にそびえ、440年もの歴史を刻む
(現在の天守閣は昭和33年再建です)お城で、これからの時期
には日本庭園を中心にして紅葉が広がり、赤・黄・茶色など
色とりどりの紅葉で埋め尽くされます。

歴代の城主が幕府の要職についたことから、別名「出世城」と
呼ばれているんですが、浜松は、かの本田宗一郎氏の
「やらまいか精神」でも知られる土地。なにやら土地柄が
与える影響が強いのかもしれませんね。

※やらまいか=遠州の方言で「やってみよう」の意味。
 全てのことに前向きに取組む気質・心意気を表す言葉。

▼犀ヶ崖(さいががけ)資料館
犀ヶ崖は浜松城の北側約1kmにある渓谷。
家康が大敗を喫した「三方ヶ原の戦い」の古戦場で、
戦死者を祀ったお堂跡には、家康苦悩の時期を物語る
資料が公開されています。

その近くには「みやひろ」という、かなり美味しい
ラーメン屋があり、昭和31年の開業以来、
浜松っ子に愛され続けています…
(おすすめ:丼表面を覆い尽くすように焼豚が盛られた
                  チャーシュー麺・700円)

▼もうひとつの決戦地!浜名湖かんざんじ温泉

ホテル ウェルシーズン浜名湖

浜松城から街道で結ばれた浜名湖畔の舘山寺(地域)は、
紅葉温泉の両方を楽しめる欲張りスポット!
県下最大の温泉施設「華咲の湯」が魅力の宿です。


(じゃらんnet提供)

遠州灘天然とらふぐ懐石料理」プラン
遠州灘(太平洋)は全国屈指の天然とらふぐの漁場!
地元舞阪漁港より直送の冬の味覚の王様「天然とらふぐ」を
思う存分楽しめるプランです。
「ふぐ」といえば下関ですが、下関発の最高級とらふぐの多くが、
ここから下関へ陸送されているんです!

 

注目の宿泊者特典!
浜松っ子にとっての“ディズニーランド”!? 「浜名湖パルパル」
無料入場券・割引券などが盛りだくさん。
パルパルは、その昔、仮面ライダー1号・2号がゲルショッカーと
死闘を繰り広げた“古戦場”でもあります…

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Tag : 徳川家康 温泉 静岡県

武田信玄 上洛を開始(今日は何の日)

10月3日 元亀3年(1572)


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武田信玄は、常々「早く西上して天下を取り、まつりごとを正しく行いたい」と強く望んでいました。
ですから、足利義昭の要請は、きっかけに過ぎないと思いますが・・・

元亀2年(1571年)2月、武田は織田家との同盟関係を維持したまま、足利義昭の信長包囲網要請を受ける形で、2万5000の大軍を率いて徳川領へ侵攻し、4月15日には、三河国足助城(真弓山城)を攻略します。
しかし当時武田は、上杉・北条・徳川に3方を囲まれている状況で、長期間の遠征を維持することができず、甲斐へと撤退します。

ところが、思わぬ形で東方の憂いがなくなります。
元亀2年の12月、北条氏康の遺言により、跡を継いだ北条氏政は武田と甲相同盟を復活します。これで3方のうちのひとつの憂いがなくなりました。

この年、織田信長は比叡山を焼き討ちにし、浅井・朝倉連合軍との戦いも優位に進めています。

危機迫った足利義昭は翌年・元亀3年(1572)の1月、本願寺顕如を通じ、武田信玄へ織田信長の背後を脅かすよう依頼します。

 

フィギュア 武田信玄


信玄は、まだ北の上杉謙信からの脅威があったため、本願寺顕如に要請し、越中で一向一揆を起こさせます。
こうして戦力を一点に集中できるようになった信玄は、9月29に西上作戦を開始。
そしてついに10月3日、武田信玄は、2万2000の兵力を率いて甲府から出陣しました。


その後、武田信玄は三方ヶ原の戦いで徳川家康を破り、三河に侵攻するも、持病が悪化し、信州駒場で没します。

天下取りを目指して甲府を出陣してから6ヵ月後のことでした。


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Tag : 武田信玄 織田信長 徳川家康 本願寺顕如 足利義昭 北条氏政 北条氏康 山梨県 愛知県 静岡県

武田水軍の拠点 遠江国遠目城・持船城を徳川軍が攻撃(今日は何の日)

9月19日 天正7年(1579)
 
甲斐の武田信玄は、信濃侵攻を本格化させるため天文23年(1554)に甲相駿三国同盟を締結します。しかし川中島の合戦が一段落するのと時を同じくして、駿河の今川義元が敗死し今川氏真が当主になると、武田信玄は徳川家康と今川領の分割を提案、密約を結び、今川領に攻め取ることにしました。
武田信玄は永禄10年(1567)、駿河に侵攻するも、今川方に北条氏政の援軍が到来し、さらに北条氏政と上杉謙信との同盟が締結したため、戦況不利とみて信玄は撤退します。
それから2年後の永禄12年(1569)、信玄はまず今川に味方する北条を攻め、抑えることに成功すると、駿河に侵攻。花沢城、徳之一色城を落とし、駿河を支配下に置きます。
 
駿河への侵攻は、武田信玄にとって領土拡大だけでなく、もうひとつ大きな夢のためでもあったのです。それは戦国最強といわれた武田軍が持てなかったもの、海、そして水軍でした。
山に囲まれ海のなかった甲斐国が、念願の海を手に入れたのです。
武田信玄は水軍を使って、北条水軍に対抗するだけでなく、京に攻め上ることを考えていたのでしょう。
 
武田信玄は早速、旧今川の家臣を船大将におき、水軍を編成します。
そして孫子の兵法を元に、向井伊賀、伊丹大隈らが諸種の水軍流を折衷して独特の「甲州水軍」を組織します。
 
その武田水軍の拠点となっていたのが持船城とその出城である遠目砦でした。
 
武田信玄存命中に、その活躍の場を与えられることはほとんどありませんでしたが、天正元年(1573)には、北条水軍と戦っているといいます。
 
その武田水軍(海賊衆)の編成
旧今川衆・・・船17艘
旧伊勢衆・・・武田軍唯一の大型軍艦1艘、船20艘
旧北条衆・・・船15艘
 
天正7年(1579)の9月19日、高天神城包囲のために横須賀城を本陣としていた徳川家康は、まず持舟城の出城であった遠目砦をおとし、大崩の海岸沿いに持舟城を攻撃し、これもおとします。
 
 
 
しかし武田水軍が無くなったわけではなく、その後も袋城(清水城)を水軍基地とし、天正8年(1580)には武田勝頼が、駿河湾の重須沖で相模水軍と激しい海戦(重須の戦い)を行いました。
 
武田信玄ゆかりの地・史跡
持船城 静岡県静岡市駿河区用宗城山町
JR用宗駅から徒歩10分
塁,堀切,竪堀,井戸が残ります。
 
遠目砦(当目砦) 静岡県焼津市浜当目字殿山
JR焼津駅から徒歩30分
曲輪,空堀が残ります。
 
袋城(清水城) 静岡県静岡市清水区本町 JR清水駅から徒歩20分ほど。
武田氏が築いた水軍基地 清水湊の発祥 
遺構は何もありませんが、上総稲荷神社には袋城の石とされるものが置かれています。


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Tag : 武田信玄 武田勝頼 静岡県

悲運の妻、家康正室・築山殿、殺害される(今日は何の日)

8月29日 天正7年(1579) 

築山殿(瀬名)は、弘治3年(1557)、15歳の時、松平元信(後の徳川家康:当時16歳か?)と結婚します。
瀬名は今川義元の姪。今川氏の血を引く気品のある女性だったといわます。

永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで、伯父の今川義元が討たれ、家康は岡崎に戻り、今川の敵方・織田信長と同盟を結んでしまうのです。
このことが今川氏真の怒りを買い、永禄5年(1562年)3月、瀬名の実の父である関口義広(今川家一門)が、正室と共に自害させられてしまいます。

以後、家康と瀬名の間はギクシャクし始めます。

瀬名は駿府城から岡崎に移り、築山のそばに住みます。
このため築山殿と呼ばれるようになります。

永禄10年(1567年)、長男・信康と織田信長の長女・徳姫との結婚が成立します。
しかし築山殿にとって徳姫は 「父や伯父を死に追いやった信長の娘」としか映らず、折り合いは良くなかったといいます。

そしてついに築山殿は憎さのあまり、甲州から美貌の側室を信康に迎え、息子夫婦の仲を裂こうとしたといわれています。また武田勝頼と内通し徳川家滅亡をはかったともいわれています。(築山殿に、武田氏と裏で外交ができるような力があったか疑問視されています)

その他にも、唐人の鍼医減敬との内通、侍女おまんを裸で縛り付けする、などの悪女ぶり。

徳姫が築山殿の悪行を父・信長に密告したことにより、信長が家康に、築山殿と信康の処刑を命じます。

(このあたりの事実は明らかではなく、信長は、信康殺害だけを命じたとする説、信康の殺害も、築山殿の殺害も徳川家の事情によるものとする説があります) 

そして天正7年(1579)の8月29日 
家康の命令が下り、築山殿は野中重政と岡本時仲により、人里離れた山中(佐鳴湖岸小藪村)で殺害されてしまいます。(築山殿の侍女の一人も入水し殉死)

築山殿は時に38歳だったといわれ、首は岡崎に運ばれ、胴は家康の命により、渓翁禅師によって西来院に葬られました。

現在、築山殿の廟堂である西来院・月窟廟の前には、2基の石灯籠があります。
これは、家康に命じられて、築山殿を殺した家臣のひとり、野中重政の子孫が、100年後に曽祖父の罪障消滅を念じて寄進したものといわれ、築山殿の死後、様々な不吉な事が起こり、その殺害に加わった家康の家臣やその子孫たちは、怨霊のために不幸に見舞われたといわれています。

延宝 6年(1678)、西来院の玄風禅師の願いにより、法要がいとなまれ、法名も清池院殿潭月秋天大姉と改められています。 
また月窟廟は、昭和20年(1945)の空襲で本堂などとともに焼失してしまい、現在のものは、昭和 53年(1978)の四百年忌に復元されたものとのこと。

なお築山殿非難の文献は江戸時代の中期以降から見られるようになったといわれ、はたして悪女だったのかどうか疑われています。

築山殿の墓 西来院 静岡県浜松市中区広沢 2-10  



東京から浜松まで格安3,200円!


浜松駅から徒歩5分、モーニングサービス付(パン&コーヒー無料)、セミダブルで大人1泊2,500円!!



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Tag : 築山殿 徳川家康 今川義元 織田信長 静岡県 徳姫

今川義元VS北条氏康 武田晴信救援で義元勝利(今日は何の日)

8月16日 天文14年(1545)

【今井狐橋の戦い】今川義元が北条氏康と駿河今井狐橋で戦い、武田晴信(信玄)の救援を得た義元が北条勢を破る。 

天文14年(1545)の7月、今川義元は突如として東に軍を進め、駿河・長久保城を包囲します。
北条氏康は、一万の軍を率いて小田原を発し、沼川と滝川が合流する今井狐橋で対陣。
そこには甲斐武田、風林火山の旗がなびいていました。 

8月16日、北條勢は今川・武田両軍を相手に苦戦を強いられ、伊豆・三島まで退却します。

この戦いの後、北条綱成の守る川越城が上杉軍によって包囲されたという知らせが入ってきます。つまり北条氏康の軍勢を東西に分散させるための壮大な戦略の一端だったのです。

その後、北条は日本三大夜戦(日本三大奇襲戦)といわれる川越夜戦を起こします。


(長久保城と今井狐橋の位置関係が不明です。沼川と滝川が合流する点に今井狐橋があったとすると、今井狐橋の方が長久保城よりも15kmあまり西になります。)

ゆかりの地・史跡

長久保城址 静岡県駿東郡長泉町下長窪
城山神社一帯には土塁を見ることが出来ます。



            

 

           

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Tag : 武田信玄 今川義元 北条氏康 書籍 グッズ 川越夜戦 静岡県 埼玉県

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