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大徳寺で織田信長の追善供養(今日は何の日)           総見院 秋期特別拝観!

10月11日 天正10年(1582)

天正10年6月2日、明智光秀が京都本能寺に織田信長を襲い、
信長は炎上する本能寺にて自刃します。享年49。
光秀の子孫が解き明かす「本能寺」の謎、驚愕の真実
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9月13日、羽柴秀吉は、大徳寺へ織田信長の葬礼にあたり、
銭10,000貫文、葬礼用に不動国行の太刀、葦毛の馬、
梨地金覆輪で桐鳳凰入の鞍、梨地桐鳳凰入の鎧を納め、
葬儀の準備しています。(梨地とは蒔絵の一種です)

そして天正10年10月11日
大徳寺において織田信長の追善供養が始まりました。


10月15日には、羽柴秀吉によって、大徳寺で葬儀が
執行されます。

翌年の天正11年6月2日、羽柴秀吉は、
大徳寺に総見院を創建し、信長の一周忌法要を執行します。

この際、織田信長の遺骨が阿弥陀寺にあると聞いた羽柴秀吉は、
遺骨の引き渡しを申し入れます。
しかし阿弥陀寺の清玉上人はこれを拒否。
やむなく羽柴秀吉は遺骨の代わりに信長の木像を作り、
大徳寺で盛大な追善供養を行いました。

信長の木像は2体作られ、そのうちの1体はこの時に
火葬され、残る1体が総見院に残されています。


総見院は、普段は拝観謝絶ですが、春と秋に特別拝観という形で
公開され、この信長の木像も見ることが出来ます。

大徳寺総見院 秋期特別拝観 実施中!
【住所】京都市北区紫野大徳寺町
【電話】TEL:075-231-7015(京都春秋事務局)
【交通】JR京都駅、四条河原町、三条京阪から市バス
「大徳寺前」下車 徒歩5分
【期間】10月11日~12月6日
(拝観休止日:11月6日、7日、22日、28日)
(拝観午前休止日:10月22日、26日、11月2日)
【時間】10:00~16:00
【料金】一般 600円

蓮台山 阿弥陀寺
境内には織田信長公と嫡男・信忠公の墓所、森蘭丸・坊丸・力丸兄弟の墓所があります。
また手水鉢には織田家の家紋「木瓜」が刻まれています。
【住所】京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町14
【拝観料】無料(6月2日のみ堂内開放、拝観料:1,000円)
【拝観時間】9時~16時


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 シャトレーイン京都
(じゃらんnet提供)

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Tag : 織田信長 羽柴秀吉 明智光秀 京都府

織田信長の要請により山科言継が、足利義昭参内用の装束を調達する(今日は何の日)

10月7日 永禄11年(1568)

「足利義昭参内用の装束」とは、まもなく控えている、征夷大将軍就任のため京都御所に参内するためのものでしょう。(なぜ山科言継が装束の調達などをしているのか?これはまた別の機会で)


京を支配する松永久秀と三好三人衆を排して幕府権力を回復するため、上洛の機会を窺う足利義昭(義秋)の援軍要請に応え、織田信長は永禄11年の9月26日、ついに上洛を果たします。
関連記事9月4日分「今日は何の日」参照

しかし信長は入洛後息もつかずに、28日柴田勝家ら四将を先頭に立て、岩成友通の守る勝龍寺城を攻め、30日には芥川城、越水城、滝山城を次々と落とし、信長は義昭に供奉して芥川城へ入城します。

10月2日、信長は池田城を攻め寄せ、城下に火をかけて町を焼き払い、芥川の本営に凱旋。ここに五畿内およびその隣国が信長の支配するところとなります。

芥川城滞在中、信長の元へは参賀の使者が内外の珍物を携えて続々と来訪し、「門前に市をなすがごとき盛況」となったといいます。
松永久秀九十九髪茄子の茶入れ(当時の茶人の、垂涎の的)を進上。
今井宗久は、名物松嶋茶壷紹鷗茄子の茶入れ千利休の師:武野紹鷗が所持していたもの)を献じます。
中には九郎判官義経(源 義経)が一の谷で着用したという鎧を進上するものもあったといいます。
みんな一生懸命ですね。

そして10月7日 かねてより信長が山科言継に要請していた、足利義昭参内用の装束が出来上がり届きます。
山科言継は、足利義輝の御服を参考にしたといいます。

14日、信長、義昭、帰洛。
18日、義昭は朝廷より正式に宣下を受けて征夷大将軍に就任し、22日参内を果たすのです。


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Tag : 織田信長 逸話 武野紹鷗 山科言継 足利義昭 柴田勝家 岩成友通 松永久秀 今井宗久 千利休

織田信長、弟・信興の弔い合戦で2万人を殺戮(今日は何の日)

9月29日 天正2年(1574)

  
フィギュア 織田信長

織田信長が石山本願寺を囲んで攻撃した「石山の戦い」は元亀元年(1570)から天正8年(1580)まで11年間も続きました。
そのきっかけは、信長が中国四国征伐をすすめるのに、瀬戸内海航路に便利な本願寺の地に城を築きたいから本願寺を明け渡せと、本願寺顕如に迫ったことに始まります。もちろん本願寺顕如はこれを断り、三好衆や一向衆、浅井朝倉勢を巻き込んでの戦いとなりました。

元亀元年(1570)11月、本願寺顕如の命令で伊勢長島の一向一揆が、尾張小木江城に迫り陥落させ、城主であり信長の弟である織田信興を自刃させてしまいます。

翌年の元亀2年(1571)、信長は信興の弔い合戦のため伊勢長島の一揆を攻めますが大敗。信長は、門徒衆に対して憎悪の炎を燃やし、比叡山を焼き討ちにします。

天正元年(1573)9月、信長は6万の軍勢で、二度目の伊勢長島攻めを開始します。しかし、北伊勢方面を手中に収めるも長島城を攻めることが出来ずに大垣に帰ります。

弟・信興が一揆勢のために割腹して果ててからというもの、信長の憎悪の念はつのる一方でした。

翌天正2年(1574)7月13日、信長は嫡男信忠を従えて、7万の軍勢で3度目の長島征伐を開始。
九鬼嘉隆に命じて、軍船や小船を集め、水軍で長島城を取り囲み、兵糧攻めにします。
海上を大船団で取り囲み、大鳥居城・篠橋城へ寄せた織田の軍勢は大鉄砲で塀・櫓を打ち崩し、間隙を与えず猛攻を加えたといいます。

観念した長島一向勢は、降伏赦免を求めますが、信長は断固として許しません。
8月2日には、大鳥居城に籠城していた一揆勢が夜間風雨に紛れて脱出を図りますが、織田勢はそれを見逃さず、追撃して男女1,000ほどを撫で斬りにします。

長島城を取り囲んでから2ヶ月が過ぎ、長島城内の過半数はその間に餓死していました。もはや抵抗する力も尽き果てた一揆勢は、9月29日ついに降伏開城します。

降伏を許された一揆勢は、それぞれ船に乗って城砦を出ようとします。しかし織田勢は彼らに鉄砲を撃ち、逃げた者は白刃をもって追い、川へ斬り落としていきます。

一揆勢は怒り狂い、7、800ばかりが裸体に抜身一本のみをたずさえて織田勢の中へ突入。織田の陣所を切り崩し、そこから大坂へ逃れたといいます。
この失態をみた信長は、残る砦に対して周囲に柵を幾重にも廻らし、砦の男女2万人を取り囲み、火をかけて焼殺させました。


本願寺顕如が降伏するのは、これから5年後の天正7年(1579)、石山本願寺を明け渡したのは翌天正8年(1580)のこと。
そして本能寺の変が天正10年(1582)。
避けて通れない道とはいえ、11年は長かった・・・

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Tag : 織田信長 本願寺顕如 織田信興 三重県

織田信長、上杉謙信献上の若鷹に感激(今日は何の日)

9月25日 元亀2年(1571)

元亀2年というと、織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちにし、家臣の明智光秀が坂本城を築城しています。その前年の元亀元年には、織田信長は姉川の合戦で、浅井・朝倉を破っています。

元亀2年(1571)1月、織田信長は、陸奥国へ鷹師2名を派遣するため、過書(関所通行の許可証)及び道中の警固を上杉謙信に依頼しています。

そして9月25日、上杉謙信に求めていた若鷹が織田信長の元に到着し、その非情に珍しい様に感激、“秘蔵し自愛する”ことで謝意を表明しました。

この頃の織田信長と上杉謙信は、仲が良かったのでしょうか。
その翌年の元亀3年(1572)、武田信玄に抵抗するため上杉謙信は、申し出のあった織田信長と同盟を結びます。

しかし、天正4年(1576)には、織田信長との同盟を破棄して、反信長包囲網を築き上げ、信長との対立を明らかにしました。


織田信長に仕えていた鷹匠は、現在にも伝承されている諏訪流鷹匠といい、(吉田流という鷹匠も仕えていたようです)明治時代には、宮内省鷹師として鷹匠の中核となり、放鷹術を現代に伝えているといいます。

元亀2年は、織田信長にとっては、とても忙しい年だったでしょう。
頭領として、ストレスも多かったのでしょうか?
鷹狩は、そのストレス解消法のひとつだったのかもしれませんね。



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Tag : 織田信長 上杉謙信 逸話

織田信長、比叡山延暦寺を焼き討ちする(今日は何の日)

9月12日 元亀2年(1571)
 
現在では、その焼き討ちの規模が疑問視されている、信長の比叡山の焼き討ち。
 
比叡山延暦寺を焼き討ちするとの信長の決意に、もっとも驚いたのは、反対したと伝わる明智光秀以上に、織田家家中の中でも教養のあるといわれる石田三成かもしれません。
古い経典も数多く宝蔵に蔵し、建物も日本の工学の粋を集めている。
しかし、それと同時に多くの僧兵を抱える軍事勢力でもありました。
三成は「僧のみを捕らえて斬り、山は残すように」と進言します。しかし、三成の進言は当然受け入れられることなく、三成も、自分を邪魔するものは惜しげもなく捨ててきた信長のことだから、これ以上反対すると自分の身に危険がある、と引いたといいます。
 
当時の延暦寺の様子は(「信長公記」によると)
「山門、山下の僧衆王城の鎮守たりといえども、業躰業法、出家の作法にも拘らず、天下の嘲弄をも恥じず、天道をも顧みず、淫乱、魚鳥を服用せしめ、金銀賄いにふけり、浅井、朝倉に贔屓せしめ、恣に相働く」だったそうです。
 
信長は焼き討ちの前年に、比叡山山門の衆徒を召し出し、織田勢への協力を求め、味方した際には分国中の山門領を元の通り還付すると、金打と朱印状で硬く誓約しています。(信長の一方的なやり方でしょうが。)
 
さらに一方への贔屓が無理な場合には、せめて中立を保つよう説得したといいます。その上でもしこれに違背して朝倉・浅井に肩入れした場合には、根本中堂・山王二十一社ことごとく焼き払うと宣告していたのです。
 
しかし、比叡山は行いを改めることもなく、また約束を果たさず、浅井・朝倉に協力したため、元亀2年の9月12日、織田信長は「残念ながらも(信長公記)聖域に馬を打ち入れ、焼き討ちとなりました。 
 
この時の信長の心中はいかに?

「残念だ」?「愉快だ」?「次の敵は・・・」?「今晩の飯は何だろう」?



ゆかりの地・史跡

 

比叡山延暦寺 滋賀県大津市坂本本町4220 077-578-0001(代表)

瑠璃堂 焼き討ちで唯一残ったと伝わるお堂(西塔)

比叡山・奥比叡ドライブウエイ割引券 http://www.hieizan.or.jp/dwticket.pdf



◆和室・風呂付◆世界文化遺産延暦寺境内にある、静かな環境と豊かな自然が自慢のお宿
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Tag : 織田信長 逸話 石田三成 明智光秀 滋賀県 浅井長政 朝倉義景

禁裏で蹴鞠が催される(今日は何の日)

9月8日 天正4年(1576)

この日、禁裏において蹴鞠が催されました。
参席者は、織田信長と親密な関係のあった誠仁親王をはじめ、高倉永相、山科言経、中院通勝、広橋兼勝といった公家・歌人らです。 

天正4年といえば、天下統一を着々と進めていた織田信長が、権威の象徴として安土城の普請を開始した年です。 
織田信長は同年2月23日、早くも建築途中の城に移っています。

まさに戦乱の世の真っ只中。しかし蹴鞠とは、禁裏はのんびりとしていますねぇ。

翌日の9月9日は、重陽の節句。蹴鞠は重陽公宴のひとつの催しでしょう。

重陽の節句には、菊の花びらを浮かせた酒「菊酒」を飲んだり、詩歌を詠むなどして、長寿を祈ったといいます。

重陽の節句は別名、菊の節句とも呼ばれます。
旧暦の9月9日は現在の10月、そのため昔は菊の咲くときに行われていたことになります
もともと中国から伝わったもので、中国では菊の花には不老長寿の薬としての信仰があるのだといいます。

ではなぜ重陽の節句に、蹴鞠なのか?
昔、菊は「鞠」と書いたのだそうです。
そもそも「鞠」とは蹴鞠の玉の事で、菊の花が蹴鞠に似ているので、「鞠」という漢字を当てたといいます。

なので、重陽の節句には、菊の花に似た蹴鞠を楽しんで、菊酒を飲んで、無病息災を願ったのです。
(蹴っちゃうのはどうかと思うのですが・・・笑)

平安時代には、菊を眺めながら歌を詠み競う「菊合わせ」も盛んに開かれ、藤原敏行が 

「久方の 雲の上にて 見る菊は 天の星とぞ あやまたれける」

(宮中(雲の上)で見る菊は、空の星と見誤るほど綺麗な事よ)と詠んでいます。
中国では「高貴な花」とされていることから、後鳥羽天皇が皇室の紋章に用いました。
江戸時代には、皇室の権威が薄れた頃、家紋として菊を用いる家も出て来ましたが、明治政府が1869年、皇室以外で使う事を禁止したそうで、それ以来、皇室だけの紋章となっています。

縁結びの御利益で有名な下鴨神社(京都)では、毎年1月4日に「蹴鞠初め」という神事が催されています。 

ちなみに、蹴鞠は武家のたしなみとしても人気で、

織田信長は蹴鞠が得意だったそうです。

そして平安時代の公卿・藤原成道は、「蹴鞠の達人」として知られ、後世まで「蹴聖」と呼ばれて、後世まで蹴鞠の手本とされたそうです。

今「蹴聖」といえば、クリスチアーノ・ロナウドか中村俊輔か。

(異論あり?笑)


ゆかりの地・史跡
下鴨神社(世界遺産) 京都市左京区下鴨泉川町59 
T E L :075-781-0010
観光情報 
9月22日(水)・23日(木)の祝日の2ケ間、午前10時から午後4時まで、馬場と参道にてポニー馬車が運行されます。小雨決行 大人(中学生以上)1,000円 子供(4歳以上)500円  
3歳以下の方は保護者同乗のこと。






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Tag : 織田信長 京都府

史上初の集団銃撃戦? 織田軍VS三好三人衆(今日は何の日)

9月7日 元亀元年(1570)

織田信長、摂津国陣中より和泉国槙尾寺へ、鉄炮筒10挺の贈呈を謝す。

永禄11年(1568)、上洛を果たした織田信長は、朝倉攻めを開始しますが、妹・お市の方の婿である浅井長政に妨げられ、やむなく全軍撤退。京に逃げ帰り、浅井・朝倉討伐を決意。徳川家康と北近江に出陣し、姉川で浅井・朝倉を撃破します。
その2年後、三好三人衆との「野田城・福島城の戦い」さなかのことでしょうか。

鉄砲を集団的に使用した最初の戦いは「長篠の戦い」(1575)が有名ですが、それより5年前のこの「野田城・福島城の戦い」が最初ともいわれています。 
『信長公記』には信長軍に加わった雑賀衆・根来衆の鉄砲兵は3千兵とされているようです。これに三好三人衆も鉄砲で応戦していますので、相当数の鉄砲が使われたといわれています。

織田信長は、永禄12年(1569)に和泉国堺の商人・今井宗久に命じて、堺内外に鍛冶職人を組織して、鉄砲の生産を任せています。鉄砲の他にも、弾丸・火薬などの大量生産を依頼して後に備えていました。 

織田信長が、摂津国の天王寺から天満森へ陣替した9月7日、その陣中から出した書状が冒頭の槙尾寺へのものだったと思われます。

しかし、わずか10挺の鉄砲に謝辞の書状を出すとは、非情に律儀な感じがしますね。

「野田城・福島城の戦い」の結果は、本願寺顕如軍が突然戦線に参加し、織田軍に攻めかかり、さらに近江の国で浅井・朝倉連合軍が背後を突き、織田信長は大敗を喫して、帰京しています。

ゆかりの地・観光・旅行情報
槙尾寺(まきおでら)大阪府和泉市槙尾山町136 0725-92-2332
正式には「槙尾山施福寺」(まきのおさん せふくじ)

日本を代表する古い寺。 創建は欽明天皇時代(539~571)。
真言宗の弘法大師「空海」が唐に渡る前の20歳の時に、沙弥戒を受けた寺としても有名です。愛染堂は剃髪所跡。御髪堂には空海の髪が保存されているといいます。 
紅葉の名所です。


交通:泉北高速鉄道、和泉中央駅下車 槙尾山口行きの南海バスで槙尾中学校前で下車 シャトルバスに乗換え終点で下車、徒歩約30分
南海本線泉大津駅よりバス槙尾山行 約1時間




大阪に観光・旅行の際は、ぜひこちらを!


 

 

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Tag : 織田信長 三好三人衆 紅葉の名所 大阪府

織田信長が好んで演じた「敦盛」と「青葉の笛」(今日は何の日)

9月6日 元亀4・天正元年(1573)

滋賀県の琵琶湖に浮かぶ竹生島(ちくぶしま)に残される文書より 
青葉の笛は到来した。まことに見事な名物である。しばらく手元において見た後返す。この笛を当山へ寄進したのは誰で,その子細はどのようなことか,これに添う小笛の由来についても知りたい。また静(御前)所持という小鼓の胴は雷の蒔絵と聞く。ぜひ見たいものである。磯野(丹波守員昌)に申しておくのでよろしく頼む」

織田信長が小谷城をおとしたときに、竹生島の秘宝とされていた「青葉の笛」を借りて鑑賞したといい、上記の書状は、「竹生嶋惣山中」宛てに出されたものです。
竹生島の宝厳寺が所蔵していた「青葉の笛」は現在、彦根城博物館が所蔵しているそうです。

「青葉の笛」といえば、平敦盛。平敦盛は横笛の名手で、鳥羽院より祖父・平忠盛が賜った「青葉の笛」小枝を愛奏していました。(復刻した「青葉の笛」が、須磨寺宝物館に展示されています) 

織田信長が好んで演じたといわれているのが「敦盛」。
「人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」(信長公記)

もちろん信長は平敦盛が青葉の笛を愛用していたことをしっていたでしょうから、竹生島に伝わる青葉の笛にもなみなみならぬ関心を寄せていたんでしょうね。 



ゆかりの地・観光・旅行情報
竹生島 竹生島神社 竹生島宝厳寺
竹生島へは、長浜、彦根、近江今津から観光船が出航しています。
長浜と近江今津からは、「琵琶湖汽船」http://www.biwakokisen.co.jp/
彦根からは、「オーミマリン」http://www.ohmitetudo.co.jp/marine/
 
彦根城博物館
滋賀県彦根市金亀町一番一号 TEL 0749-22-6100
「青葉の笛」が見られるかどうかはご確認下さい)

須磨寺 兵庫県神戸市須磨区須磨寺町
TEL 078-731-0416(代)
「青葉の笛」が見られるかどうかはご確認下さい)







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Tag : 織田信長 滋賀県 琵琶湖

織田信長が、弟の信勝・柴田勝家を破る(稲生の戦い)(今日は何の日)

8月24日 弘治2年(1556)

織田信長22歳、清洲城主だった時の出来事です。
当時信長は、家中からも「うつけ者」と呼ばれ、頭領に相応しくないと目されていたといいます。

「信長では織田家をまとめられない」と考えた信長宿老の林秀貞と弟林美作守、信勝老臣の柴田勝家らは、信長を排除し、家中でも評価の高い信勝に家督を継がせようとしました。そして信勝自身も、信長への反抗の姿勢を示します。

そしてついに、8月23日、柴田勝家が1000名余を率い林美作守が700名余を率いて尾張国名塚砦を攻撃
信長勢は佐久間盛重、信盛、前田利家、丹羽長秀ら700の兵で迎え受けます。
戦上手の柴田勝家を擁する上に、倍以上の軍勢の信勝軍有利はいうまでもありませんでした。

危ないと見た信長は、自ら出陣し、林美作守を信長本人が討ちます。信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は奮戦。形勢は逆転し、8月24日、ついに信勝勢は敗走してしまうのです。

戦後、信勝は母・土田御前の取り計らいで許され、柴田勝家らも許されて忠誠を誓うのです。 

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Tag : 織田信長 織田信勝 柴田勝家 林美作守 林秀貞

織田信長、越前一向一揆を平定(今日は何の日)

8月19日 天正3年(1575)
 
8月14日にも書きましたが、織田信長が行った、越前一向一揆討伐・大虐殺では、こんな記録が残っています。
 
8月15日、羽柴秀吉と明智光秀が、加賀・越前の一揆2,000騎を切り捨てる。
8月17日、織田信長の陣営に到来した敵首2,000余。捕虜7~80人は即時首切り。
8月18日、柴田勝家・丹羽長秀・織田信澄、越前国鳥羽城を攻略。織田信長陣所には敵首5~600ずつ到来。総数は不明。
8月19日 織田信長は、滝川一益・織田信包らを掃討戦に投入。600余の敵首級をあげる。氏家直通(氏家直元の子)・武藤舜秀の部隊は首級300余をあげる。柴田勝家・丹羽長秀が朝倉与三郎(?)の籠もる砦を攻略し、600余を討ち取り、捕虜100人余りは即時首切り。
 
恐ろしい時代です。


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Tag : 織田信長 越前一向一揆

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