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明智光秀、赤井忠家の丹波国黒井城を攻略し、丹波国平定(今日は何の日)

一日遅れですが・・・

8月9日 天正7年(1579)

明智光秀、赤井忠家の丹波国黒井城を攻略し、丹波国平定。



この日から遡ること3年前・・・ 
天正4年、織田信長は、当時最大の敵だった上杉謙信の南下を阻止するのに極めて重要な位置となる近江国・琵琶湖湖畔に、天下布武の象徴、安土城築城を開始します。
しかしその頃、同時に反信長の動きが強まり始め、上杉謙信を盟主として石山本願寺、毛利輝元らで信長包囲網が形成されます。
この年(天正4年)、明智光秀は織田信長の命により、総大将として丹波国征討のため出陣。しかし、「丹波の赤鬼」の異名を持つ荻野直正のいる黒井城を攻めますが大敗を喫し、一時、坂本城に戻ります。

翌年の天正5年、第二次丹波国征討戦が開始されます。

天正6年、上杉謙信が急死すると、信長包囲網は崩壊。 
すると信長は、能登国・加賀国を奪い、越中にも侵攻する勢いを見せます。 

鉄甲船を建造し毛利水軍を撃破。これにより石山本願寺は毛利軍の援助を受けられず孤立。このころから織田軍は優位に立ちます。

前回と同じく丹波征討の総大将として指揮を執っていた明智光秀は、丹波の籾井城・亀山城を落し、黒井城を目指します

そしてこの時、「丹波の赤鬼」荻野直正が病死。 
明智光秀は、動揺が走る丹波の支城を次から次へと落していきます。 

翌天正7年
黒井城周辺の支城をすべて抑え、黒井城を孤立無援の状態にしてから、誘導作戦も巧みに使い攻めました。 
そしてついに黒井城は落城します。天正7年8月9日のことでした。 
落城後の黒井城には斉藤利三が入りました。
この戦いで事実上、丹波国征討戦は終了したといいます。 

しかし、この3年後の天正10年、信長も光秀もこの世を去ってしまうのです。 

ゆかりの地・史跡
黒井城 兵庫県丹波市春日町黒井 
国指定史跡 
周囲約8kmの猪ノ口山(365m)全体が巨大な要塞になっていて山中いたる所に防禦施設の曲輪跡、土塁、縦堀、空掘がそのままの姿で残っています。

興禅寺 兵庫県丹波市春日町黒井2263 
明智光秀の家臣・斎藤利三が黒井城の落城後に入り、此処を下館とした陣屋跡です。 
斉藤利三の末娘・春日局(お福)が生まれた屋敷として有名です。 
お福はここで3歳まで過ごしているといいます。
境内にはお福が生まれた時に産湯に使われたという「お福の産湯井戸」や、幼少の頃、腰かけて遊んだといわれる「お福の腰かけ石」が残っています。 
水をたたえた七軒堀や高い石垣・白壁など、当時の下館の様子をよく残すものとして、国の史跡に指定されています。 

また黒井城の城下町は、今でも坂や細い道が交錯している様子が見られ、当時の面影を残しています。 

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テーマ : 戦国時代 - ジャンル : 学問・文化・芸術

Tag : 明智光秀 織田信長 赤井忠家 兵庫県

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