ゆかりの地 都道府県検索 温泉特集 おすすめホテル・旅館(随時作成中) NEW戦国関連書籍
山梨ビデオ制作

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

第4次川中島の合戦 武田信繁・山本勘助ら討ち死に(今日は何の日)

9月10日 永禄4年(1561)
 
時に武田信玄41歳、上杉謙信32歳。

8月14日、上杉謙信は1万8千の大部隊を引率して春日山城を発ちます。

8月16日、上杉謙信は、5千の兵を善光寺に残し、妻女山に布陣。
武田信玄はこの日、2万の兵を従えて躑躅ヶ崎の館を発ち、
棒道を進軍します。


8月29日、武田信玄は、武田側の最前線、海津城に入城。
その後、10日間ほど、両者動かず、不気味なにらみ合いが続きます。

9月9日、武田信玄は軍儀を開き、軍師・山本勘助が提案した「啄木鳥戦法」を採用し、翌日の対決を決意します。
9月9日は、無病息災を祈る重陽の節句。陣中では菊酒の杯で、必勝を、そして生きて故郷へ帰ることを祈願したでしょうか?
 
そして9月10日、ついに武田軍と上杉軍が激突します。
 
形勢は、武田軍の作戦を見破った上杉軍の優勢で始まります。

奇襲隊が失敗し、逆に不意打ちをくらう格好となった武田信玄は、上杉謙信が「車懸かりの陣」を敷いたため、「鶴翼の陣」で対抗するも、信玄の弟・武田信繁(曲厩信繁)が討たれ、諸角昌清が倒れ、さらに山本勘助までもが壮絶な戦死を遂げてしまいます。
 
この時、上杉謙信は手薄となった武田信玄の本陣に、長刀を振るい斬り込みますが、信玄は軍配でこれを防いだといわれています。
 
前半戦は、上杉軍優位でしたが、武田の奇襲隊が引き返してくると、上杉勢は押され始め、形勢が逆転。押されに押された上杉軍は、犀川を渡り善光寺方面へ敗走します。
武田信玄は、これを追撃せず、第4次川中島の戦いは終わります。
 
 
12年もの長きに渡って続けられた川中島の戦いは、結局「勝負なし」に終わっています。
その間、織田信長は着実に天下統一への基礎を固めていたのです。
 
武田信玄・上杉謙信ゆかりの地・史跡
川中島古戦場 (八幡原史跡公園) 長野市小島田町
信玄・謙信一騎討ちの像はここにあります。


1クリックで1票、応援お願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村

こちらもポチっとお願いします。とても励みになります。

スポンサーサイト

テーマ : 戦国時代 - ジャンル : 学問・文化・芸術

Tag : 武田信玄 上杉謙信 長野県 川中島の合戦

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。