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直江兼続の子・竹松のために開かれた五色温泉

NHK大河ドラマ「天地人」で直江兼続の子・竹松が病弱であることが語られていました。 

直江兼続は、眼を患った某僧が五色の湯に入って治ったという話を耳にし、生来の病弱に加え、両眼を病んでいた嫡子景明(竹松)のために、慶長14年(1609)、五色温泉に湯壷を開いたといいます。
浴舎や小屋を設け、大名並みに足軽60名に警護させ、長い湯治を行ったそうです。

実は天正年間、医者の薬で治らない奇病にかかった兼続が、五色温泉に湯冶に訪れ、快癒したという経験があったみたいです。

その五色温泉は、1300年ほど昔に役の行者が吾妻山中で五色の湯煙が立上るのを見つけ、温泉を発見したといいます。

五色温泉は炭酸水素塩泉で、そのお湯が含むカルシウムイオンやマグネシウムイオンには鎮静作用があり、けいれんや痛みをやわらげて炎症を抑える効果があります。

ですので、竹松の病がどんなものであったか分かりませんが、炎症性の目の病気(結膜炎、角膜炎、ブドウ膜炎)などには有効かもしれません。

▽五色温泉の宿
五色温泉 宗川旅館(むねかわりょかん)
秘湯好きにはたまらない、山あいの一軒宿(注:口コミ参照のこと)
立ち寄りも可能です。


(じゃらんnet提供)


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Tag : 逸話 直江兼続 山形県

「上杉家120万石から30万石に減封」の厳しさ

10月4日のNHK天地人で、上杉家が120万石から30万石に
減封
され、家臣たちが大騒ぎしていましたね。
それを直江兼続が治めていましたが、
どのくらい大変なことなのか・・・?


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1石は、米1合の千倍、つまり1,000合(約150kg)です。
現在のお金に換算すると、6万円ほどになるそうです。

広さは、1石≒1反≒300坪≒990㎡

上杉家は120万石でしたから、年収720億円ということです。
上杉家直属の家臣は6000人ほど。
6000人の家臣で割ると、年収1人平均1200万円です。

しかし、これはあくまで平均で、
6,000人の家臣の大半は下級武士で、20~50石ほどですので、
年収120~300万円
となります。

そして家臣は、大名から与えられた所領40石に対して1人
戦の時に兵を出さなければなりませんでした。 (いわゆる農民兵)

つまり、40石を与えられていたら、年収が240万円。
その内から、1人の兵とその家族が食べていける分を
出さなければならない
ということで、
家臣の生活も楽ではなかったでしょう。

さて、上杉家は120万石から30万石に減封ですから、
720億円から180億円に減収ということです。
6000人の家臣で割ると、
年収1人平均1200万だったのが、300万円です。
(あくまで平均で)

しかも家臣6,000人だけではなく、
その家族や軍勢(農民兵とその家族)なども含め
3万人が引っ越したといわれています。


どう考えてもこの収入では軍勢など養えません。
しかしそれでは戦の時に、直属の家臣6,000人だけ
なってしまいます。
ですから軍勢は養わなければなりません。

社員の数を減らさずに、会社の収益が4分の1というのは・・・
非常にヒジョ~に厳しいです。

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Tag : 直江兼続 逸話 上杉景勝 山形県 福島県

上杉景勝から直江兼続へ、長谷堂城からの撤退命令が届く(29日説あり)(今日は何の日)

9月30日 慶長5年(1600)

西と東の出来事を、日を追ってみました。

9月15日、関ケ原の戦いはこの一日で決します。
しかし奥羽ではこの9月15日、直江兼続率いる上杉軍が、最上領の長谷堂城へ攻撃を開始しています。
この一度目の攻撃で、最上勢は、200~300の将兵が討死。
危機迫った最上義光は、伊達政宗に援軍を求めます。

9月16日、伊達政宗は、留守政景らを援軍とすることを決定。
9月17日、長谷堂城の最上勢が、上杉陣を夜討ちし、首150余をあげます。
9月20日、最上義光の妹・義姫が留守政景宛てに、一刻も早い援軍出動を催促。

9月21日、石田三成が、伊吹山の山中で東軍の捜索隊に捕らえられています。

9月24日、上杉軍が、長谷堂城に2度目の攻撃。伊達軍もようやく出陣します。

9月27日、徳川家康、大坂城入城。戦後処理を開始。

9月29日、上杉軍、長谷堂城に3度目の攻撃。

9月30日、上杉・最上両軍に、関ケ原合戦の結果が到着。
(上杉景勝から直江兼続に知らせが届いたのは29日とも)

10月1日、石田三成、小西行長、安国寺恵瓊が京都六条川原で処刑。
この日、上杉軍、長谷堂より撤退を始めます。
直江兼続が殿軍を務め、前田慶次が奮戦した撤退戦です。
撤退戦での死者は両軍合わせて2000人ともいわれています。

10月3日、直江兼続、荒砥城(山形県白鷹町)へ帰陣。
10月7日、最上領内の戦闘がようやく終息しています。
そして10月8日、上杉全軍が撤退完了。

先週の大河ドラマ「天地人」は、まさにこのあたりでしょうか。
前田慶次は登場しませんでしたが。

長谷堂城を守っていたのは当初1,000あまり。対して長谷堂城を囲んだ直江兼続の軍は1万8000とも。しかし落城させられなかったのは、長谷堂城城主・志村光安の活躍が大きいのですが、直江兼続にその気がなかったのでしょうか?

関ヶ原での決着後、もしも上杉が撤退せずに、最上を破り、伊達と結託し西へ軍を進めていたら・・・?
この時点では、時すでに遅しか・・・。

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Tag : 逸話 直江兼続 最上義光 伊達政宗 留守政景 石田三成 徳川家康 前田慶次 上杉景勝

上杉景勝・直江兼続、生誕の地を巡る旅

上杉景勝と直江兼続が生まれ、若き日をともに過ごした新潟県南魚沼市には、二人のゆかりの地が多数点在しています。
 
樺沢城 新潟県南魚沼市樺野沢
上杉景勝が生まれた城と伝わり、景勝が生まれた時、胞衣(胎盤など)を埋めた、胞衣塚が安置されています。ここは当時から安産の神様として、信仰されているといいます。母・仙桃院のお花畑跡あどもあります。
 
龍澤寺 新潟県南魚沼市樺野沢30
上杉謙信の姉・綾姫は、龍澤寺の八世通顔和尚より「仙桃院」の院号を授かりました。仙桃院は、文殊菩薩に深く帰依し、1568年に守護仏、厨子入り文殊菩薩像を奉安して、景勝公の武運長久を祈願されたとあります。
寺の敷地内には、景勝公生誕の碑があり、本堂には、景勝の正室菊姫が護身用に使った薙刀があるといいます。
 
坂戸城 新潟県南魚沼市六日町坂戸
上杉景勝と直江兼続が居城としたことで有名な城です。2人の名を記した生誕の碑があります。
 
雲洞庵(うんとうあん)
新潟県南魚沼市雲洞660 025-782-0520 
景勝と兼続が「義」と「愛」の精神を学んだ禅寺。
喜平次や与六と呼ばれていたころから景勝と兼続は、この禅寺で北高全祝や通天存達から学問を学び、高潔な精神を養いました。
 


▽おすすめの宿 温泉御宿 龍言

上杉景勝の菩提寺龍言寺の跡地に建ち、江戸時代末期の豪農の館や武家屋敷を移築した木造平屋建の宿です。景勝の父・長尾政景の墓は龍言寺の境内に、漆で固め、鎧兜を着て埋葬されたといいます。
荘厳な長屋門をくぐり、屋敷の玄関を一歩入るとそこは、江戸時代にタイムスリップしたような空間です。
景勝や兼続が少年時代を過ごした坂戸山を見渡せる部屋もあります。
大庭園露天風呂や貸し切り露天風呂、広大な敷地に32の客室、囲炉裏のある茶の間や客室、そして約4000坪の大庭園と、そのスケールの大きさに圧倒されます。
妻夫木聡や北村一樹、高嶋政伸もここを訪れているようです。
(じゃらんnet提供)

宿泊プランも豊富で、ちょっと高めですが楽しめそうです。

天地人~お船の方 プラン
直江兼続の奥方、お船は年上女房。奥さんが年上のカップルには素敵なプレゼントがあります。朝は部屋へモーニングコーヒーのサービス、龍言自慢の貸し切り露天風呂使用料1回サービス(通常40分2000円・完全予約制)、お帰り時にはアトピーに効くと評判の龍言の温泉水を使った「美顔石鹸」がプレゼント。
 


天地人~直江兼続「愛」プラン
名前に「愛」の文字がつく方限定!グレードアップした部屋と地元の美味しいケーキを用意。部屋は、和室10畳に次の間4.5畳がついたお部屋。「愛」カブトをかぶって記念写真。
予約の際は、名前に「愛」の文字がつく人からの連絡で。


新潟県南魚沼市周辺のホテル・旅館はこちらから



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Tag : 上杉景勝 直江兼続 温泉 新潟県

直江兼続・前田慶次 奥羽の関ヶ原(今日は何の日)

9月13日 慶長5年(1600)

上杉景勝の家臣・直江兼続の直江状を読んだ徳川家康は上杉家討伐を決意し、大坂城を離れ下野の小山までやって来ます。
そして家康は上杉領に隣接する諸大名に対しても出動命令を下します。伊達政宗には北東の信夫から、最上義光には北の米沢から、仙道口を佐竹義宣に、西の津川口を前田利長・堀秀治に、そして家康自身は白河から。

しかしそこへ、家康の思惑通り、石田三成の挙兵の知らせが入り、家康は上杉の警戒を最上義光と伊達政宗に任せ江戸城に引き返し軍を整えます。

徳川家康に命ぜられた最上義光は、上杉領の酒田城を攻めようとします。
それに対し上杉は最上領への侵攻を決定。直江兼続を総大将として2万の軍勢が先制攻撃をしかけます。

直江兼続の主力軍は、最上領の最前線にある支城・畑谷城へ南側から攻め入ります。

一方、簗沢にまわった前田慶次の軍は、簗沢城を攻め(実際は明け逃げ)、村を焼き払い北側から畑谷城へ攻め上ります。

畑谷城を守るのは江口光清とわずか300の兵。

最上義光は「城を放棄して逃げよ」と江口光清に指示を出しましたが、江口光清は聞き入れず、徹底抗戦の構え。
直江軍からも無益な戦いをしたくないと、城の明け渡しを迫りますが、江口光清はこれを拒絶。「この城が欲しいなら、戦って取るがよい。上杉の習いはいざしらず、最上の武士は最後の一人になろうとも、城を明け渡すことはない」(奥羽永慶軍記)と300の兵で直江軍2万の軍勢に斬りかかります。

しかしやはり数の上でかなわず、9月13日、畑谷城は4時間で落城。江口光清は自刃、300の兵も一人として生き残らなかったといいます。

直江兼続は、この時の様子を秋山伊賀守宛ての手紙で、
「去る十三日、最上領畑谷城を乗り崩し、撫で斬りを命じて、城主江口五兵衛父子含めて、首を五百余り討ち取った。簗沢の城も空け逃げ、在々に放火し、昨十四日には最上の居城に向かい陣を構えている……」と書いています。「撫で斬り」とは、つまり、女子や子供なども切り捨てたということですが・・・兼続が虐殺を行ったのどうか、その事実は今となっては分かりませんが、とにかく江口光清の抵抗により、壮絶で悲惨な戦いとなったのでしょう。

直江兼続はその後、軍を長谷堂城へ向けます。

ゆかりの地・史跡
畑谷城(はたやじょう) 山形県東村山郡山辺町大字畑谷
城の麓にある長松寺に江口光清父子らの墓があります。

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Tag : 直江兼続 前田慶次 逸話 江口光清 山形県

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