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父・輝宗の初七日を終えた伊達政宗が、二本松城攻撃を開始(今日は何の日)

10月15日 天正13年(1585)

10月8日の記事(伊達政宗、畠山義継を父・輝宗と共に討つ)の続きになります。

伊達政宗の父・輝宗の遺骸は小浜近くの寿徳寺で火葬されました。
そして憎き畠山義継の亡骸を小浜の城下に、磔にして晒した といいます

政宗は輝宗の股肱の臣だった遠藤基信に遺骨を預けて法要を頼み米沢へ帰します。そして自身は小浜に残り、畠山家の居城・二本松城を攻める準備を整えます。
「父の復讐」、滾る闘志が全身から溢れ出していました。

そして輝宗の初七日が済んだ10月15日、政宗は伊達成実、片倉小十郎景綱、小梁川盛宗、原田宗時らを引きつれて、二本松攻めに小浜を出発しました。その軍団に従うものは3千。彼らもまた全身から殺気が溢れ出しています。

一方の二本松城でも、政宗が主君・義継の亡骸を苛んだと知り、一族郎党は涙を流し、政宗に対しては怒りを爆発させます。

そしてこの二本松城での弔い合戦は、激闘につぐ激闘、血で染めた修羅場と化し、多くの雑兵がそれぞれの主君のために命を落としました。

しかし、この時には二本松城をおとすことは出来ず、思いがけない大雪のため、政宗は一旦小浜に帰ることとなりました。

その後はこちらを参照

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伊達政宗、畠山義継を父・輝宗と共に討つ(今日は何の日)

10月8日 天正13年(1585)

伊達政宗の起こした事件(?)でよく知られる、
父・輝宗の銃殺です。
この時、政宗19歳。家督を継いでまだ1年経っていません。
父・銃殺の経緯は、過去記事を参照いただくとして・・・

過去記事 戦国武将物語 伊達政宗その1 伊達政宗その2


今回は畠山義継が伊達家へ降伏に至ったいきさつの辺りを。

二本松城の畠山義継は、天正13年(1585)5月、
伊達政宗が黒川城(会津)の芦名氏を攻めた時に、
芦名に味方して政宗を敗走に追い込ました。
また同年8月、政宗が小浜の大内定綱を攻めた時にも義継は、
会津の芦名と共に後ろから伊達軍を攻撃し、
政宗を窮地に追い込みました。


しかし政宗はこの戦で勝利し、小浜城の支城である
小手森城・城内の男女800人を殺戮します。
(小手森城の撫で斬り)


政宗の次の目標はもちろん、二本松の畠山義継。

しかし、苛烈無惨な政宗の仕置きに恐れた畠山義継は、
政宗の大叔父である伊達実元に泣きつきます。


「この義継、かつては輝宗殿のご奉公につかまつったこともあります。
事情があってやむなく一時は芦名や大内に味方しましたが、
伊達家に異心あってのことではありません」

全くの詭弁ですね。こんな道理が通るはずがありません。
畠山勢に2度もやられている政宗です。
「手のひらを返した戯言なり」(会津四家合孝)と一蹴します。

しかし隠居した伊達輝宗の仲介により、義継は命は助けられることと
なります。
その代わり、義継の領地のうち、その大部分、杉田川以南と
油井川以北を没収、世子の国王丸を人質に出せ、
という非常に
厳しい条件が出されたのです。

倒すか倒されるかの戦国の世、当然の仕置きです。
しかし命を助けられただけでも万々歳であり、
これを呑むほか生きる道は無いというのに、
どこまでも図々しい義継は、領地の半分は残してくれ、
と再び泣きついたといいます。

結局、政宗はこの義継の願いを受け入れることはありませんでした。

義継も仕方なく、この仕置きを受け入れるのですが、
仲介のお礼ということで伊達輝宗の宮森城を訪ね、帰り際に
輝宗を拉致し、駆けつけた政宗によって輝宗もろとも
銃殺されます。

天正13年10月8日のことでした。

伊達輝宗 享年42
畠山義継 享年33

二本松城(霞ヶ城・白旗城) 福島県二本松市郭内4丁目
黒川城(鶴ヶ城・会津若松城)福島県会津若松市追手町1-1
小浜城 福島県二本松市小浜字下館
小手森城 福島県二本松市針道字愛宕森

家紋ストラップ伊達政宗
(伊達家より家紋使用許可済み)
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Tag : 伊達政宗 逸話 福島県 畠山義継 大内定綱 伊達実元 伊達輝宗

みちのく紅葉温泉紀行

政宗ゆかりの城下町で“伊達者”体験!
~宮城県大崎市~

政宗が仙台に移る前に治めていた領地・
大崎市岩出山町は、「みちのくの小京都」
呼ばれる城下町。
特に紅葉の季節におすすめしたい“観光ルート”を
勝手気ままにご紹介します…

戦国BASARA2 戦極像 伊達政宗
(ノンスケールPVC塗装済み完成品) ボイス機能搭載
Amazon.co.jp通販サイト/Amazon

▼毎年9月に開催される「政宗公まつり」では、
きらびやかな武者行列が威風堂々と行進。
実は、地元ボランティア観光ガイドのサービスで
まつりで使われる甲冑を試着して城下町を
歩かせてもらえるという“体験観光”が人気だそうです!
(※有料です 事前にご確認下さい)
参加料:2,000円~

問:南町商店街事業協同組合 0229-73-1850


▼仙台藩の御用湯:東鳴子温泉でリフレッシュ!
【おすすめの宿 「旅館大沼」】

紅葉を眺めながらの贅沢な湯浴み空間を独占!
美人の湯・重曹泉で知られる温泉で、
かつて子宝に恵まれなかった仙台藩主
妻とともに湯につかったことで二子をもうけたという。
湯治場の風情を残した7つの内湯も魅力で
長期滞在したい方のもおすすめです。
(じゃらんnet提供)

旬の最大限に食材を生かした手作り田舎料理
米は自家製無農薬米のもちもちつやつや「ひとめぼれ」
また、発芽玄米を中心とした一汁一菜で
心身を蘇らせるという湯治場ならではの
オーガニックプランも女性に人気!

翌朝は、初心者歓迎の「茶室」で政宗気分!
旅館の離れの茶室で、茶の湯に親しむ贅沢な体験も
できるんです。
茶道を千利休に学んだといわれ、強さだけでなく
徹底した己の美学をもっていた政宗。
彼の心を知るのに最適な体験かもしれません。


▼紅葉の定番:大渓谷「鳴子峡」
昨年新たな遊歩道が誕生。
屈曲した渓流、木漏れ日、奇岩や断崖など
表情豊かな風景が五感を刺激してくれます!

ダイナミックな景観を眺めながら、
政宗が考案したと伝えられる名物「ずんだ餅」
ほおばれば、もう完璧です!
 
仙台名物「ずんだ餅」(お取り寄せ出来ます)



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Tag : 伊達政宗 紅葉 宮城県 温泉

戦国BASARA米 出荷開始!

平成21年産 戦国BASARA米の出荷が

10月1日から始まりました。(予定)

1kg・・・2,600円 片岡小十郎バージョンもあります。


平成21年産 戦国BASARA米

【みやぎの環境保全米ひとめぼれ使用】

こちらから注文できます。↑↓


伊達政宗キャラクターデザインの米袋

「みやぎの環境保全米」は、宮城県内の各JAが示す生産基準により栽培されたお米で、農薬・化学肥料の使用を県基準の半分以下と、出来るだけ減らしたお米です。
土や水など自然にやさしく、人にもやさしいお米づくりを目指す生産者たちの思いが、お米一粒一粒に込められています。

(春、発売されたものは1kg:1,000円だったのですが・・・)



ちょっと・・・いや、かなり高価なお米ですが、

環境保全米でひとめぼれ、

そして政宗ファンにはたまらない、この米袋。

買っちゃいますか?



「Coolに炊いてほしいもんだぜ!」




戦国BASARA米セット
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Tag : 伊達政宗 宮城県

10月から伊達が熱い!政宗ゆかりの地を巡る!

伊達政宗の開いた仙台が、10月から「伊達な旅キャンペーン」で盛り上がります。

その一部をピックアップすると・・・

伊達政宗が眠る「瑞鳳殿」が拝観時間を延長し特別ライトアップを実施し、夜の瑞鳳殿を演出します。
実施は10月3日(土)~12月5日(土)の土曜日。
瑞鳳殿の建物は伊達藩内に数ある霊廟建築の中で最高傑作とされ、様々な彫刻に極彩色が彩られ桃山建築を継承する豪華絢爛なもの。
また資料館には政宗の頭蓋骨や木像が展示されています。

瑞鳳殿関連記事
http://sengoku777.blog23.fc2.com/blog-entry-26.html

さらに仙台城址の石垣と、伊達政宗公騎馬像が日没から23時までライトアップされます。
仙台城は仙台の町並みを一望できる青葉山に位置し、石垣と戦後再建された大手門脇櫓が、往時の城の姿を偲ばせます。

秋保温泉「秋保・里センター」では特別企画として10月中“足湯”が毎日オープン。また日曜日には秋保産食材の美味しい“いも煮”を100円で限定100杯販売します。
秋保・里センター 022-304-9151

「旧伊達邸鐘景閣」(しょうけいかく)では、食と酒にこだわった伊達政宗にちなみ伊達家由来の仙台箪笥料理
を味わうことができます。(10月~12月)
伊達文化が偲ばれる「鐘景色閣」は、伊達伯爵家の邸宅として明治時代後期に建造されたもので、天皇皇后陛下の御休息御座所となっています。

特別価格5700円※要予約
鐘景閣 022-245-6665



▽おすすめの宿

秋保温泉の宿は結構いいお値段がするのですが、格安の宿もあります。

秋保温泉 華乃湯

【平日限定】1泊朝食付きプラン6,000円~

(部屋に風呂・トイレなし。トイレは各フロア。風呂は大浴場)


レディースプラン
湯ったり姫☆エステ45分付き☆ は14,500円~
 
(じゃらんnet提供)

秋保温泉のホテル・旅館一覧はこちら



ロイヤルガストロ 伊達政宗麦酒(9本セット)
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Tag : 伊達政宗 温泉 宮城県

伊達政宗の夢、潰える・・・(今日は何の日)

9月23日 天正19年(1591)

天正18年、伊達政宗は小田原参陣し、死装束で羽柴秀吉と謁見します。そしてその後の奥州仕置で、本領は安堵されたものの、過去5年近い歳月、戦い取った領地は召し上げられます。
その翌年、伊達政宗は、秀吉から一揆煽動の疑いをかけられます。
(事実、政宗は潔白ではありませんでした)
秀吉から政宗に上洛の命令が下ります。
上洛せねば、人質として京にいる愛姫の命はもちろん、伊達家一族の運命も危ういものでした。

天正19年2月、政宗は金色の磔柱を背負い上洛し、清洲で秀吉と対面します。
そして、疑いのきっかけとなった一揆の檄文には、政宗がいつも空けている花押の鶺鴒(セキレイ)の目にある針の穴がなく、自分の物ではないと、その場をなんとか切り抜けます。

しかし、その年の8月、秀吉は奥州の地の領地配分を行い、政宗は旧領のうち、上下長井二郡と伊達家累代の地である米沢を含む仙道五郡が取り上げとなり、新たに葛西八郡、大崎五郡が与えられました。

政宗の夢、ここに潰えたか・・・

政宗は岩手沢城の改修改築を行い、岩手沢を岩出山と改め、

9月23日、岩出山城に移りました。

家臣団はもちろん、政宗を慕う米沢在住の町民たちも移転、さらに伊達家縁故の輪王寺・光明寺も岩出山に移りました。

伊達政宗の一揆への加担が発覚した原因となったのは、須田伯耆の密告でした。須田伯耆の
裏切りがなければ・・・

伊達政宗は、奥州武士団を結束し、秀吉に抵抗出来たかもわからず、歴史は大きく変わっていたことでしょう 。

「天下人」になることを夢見ていた政宗。
政宗は本当に残念がり、悔しがったに違いありません。

私も悔しい!

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Tag : 伊達政宗 逸話 羽柴秀吉 宮城県

伊達政宗の絢爛豪華な戦装束 これぞ伊達者!(今日は何の日)

9月18日 文禄2年(1592)
伊達政宗が朝鮮出兵から名護屋に帰還する。

今回は、伊達政宗が朝鮮に出兵した際の装束についてご紹介したいと思います。

朝鮮出兵時に政宗が伊達家の部隊にあつらえさせた戦装束は非常に絢爛豪華なもので、他の軍勢が通過する時には、静かに見守っていた京都の人々から、突然どよめきが起こったといいます。

伊達政宗の装束が、派手な装いを好んで着る人を指して「伊達者(だてもの)」と呼ぶ由来となったのは周知の通りです。
桃山文化の洗礼を受けた京洛の人々でさえも魅せられたという、朝鮮出兵時の伊達政宗および伊達軍の装束とはどんなものだったのでしょうか?

調べてみたところ、以下のようだったといいます。

弓・槍の足軽たちの具足は、すべて黒の漆塗りで統一され、前と後ろには輝く金星をつけていました。刀や脇差しの色も統一され、すべて櫂棒形に作って銀と朱に塗ってありました。
笠は長さ三尺のとがり笠で、これもすべて金色。
馬上侍の具足は、母衣を黒で統一し、金の半月印を付けています。
馬にはそれぞれ豹、虎、熊の皮の馬鎧をかけ、なかには孔雀の尾の馬鎧をしているものもいました。すべての騎馬武者は黄金づくりの太刀大小を帯びています。
なかでも原田左馬之助宗時の装いは目立ちました。
駿馬には黒豹の馬鎧をつけ、朱鞘に金箔の太刀、長さ一間半の木刀を腰につけ、鞘の中ほどに金物をつけていたといいます。

そして伊達政宗はというと・・・
赤地の錦の直垂に黒漆塗りの五枚胴の鎧をつけ、鉄板札の草ずりをはき、兜は弦月形の前立に梅鉢紋透かしの吹き返しをもったものをつけ、棕櫚植えの髪のある頬当て、鎖つなぎの籠手を着用していたといいます。大小はすべて黄金づくり。
陣羽織は、黒羅紗の地の裾に、紅羅紗の山形模様で、金糸、銀糸、色糸をより合わせた飾り糸が放射状に走り、眩いばかりに輝いていたといいます。

まさに錦絵から飛び出してきたようだったといいます。

仙台市博物館では、伊達政宗の朝鮮出兵時の戦装束を思い起こさせる、絢爛豪華な品々が収蔵・展示されています。

ゆかりの地・史跡
仙台市博物館 仙台市青葉区川内26番地(仙台城三の丸跡)
TEL:022-225-3074

 

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Tag : 伊達政宗 宮城県

伊達政宗・愛姫ゆかりの温泉

朝晩涼しくなり、秋の訪れを予感させる時期になってきましたね。
日本の秋といえば紅葉と温泉。
ということで、伊達政宗ゆかりの温泉です。

宮城県仙台市の秋保温泉は、

江戸時代、仙台藩の湯治場として

伊達政宗が好んで訪れていた名湯。 

名取川上流にあるこの秋保温泉は、開湯1500年以上もの歴史のある温泉。 29代欽明天皇の瘡病が、この温泉を湯浴みしたところ、たちまち快癒したことにより「御湯」とよばれるようになりました。以後、皇室の御料温泉として扱われました。(ちなみに「御湯」と呼ばれているのは名取、信濃、犬養の3ヶ所のみだそうです)
また鳴子温泉・飯坂温泉とともに奥州三名湯に数えられています。

享年69(数え70)の政宗。
当時としては長寿だった彼の健康の源だったのかもしれませんね。
政宗と愛姫、当時2人一緒に入浴したことはあったのか、
なかったのか。

まずはこちら。 

宮城県仙台市 秋保温泉 「秋保グランドホテル」
秋保グランドホテルの大浴場には、「梵天の湯」「愛姫の湯」があり、どちらも美しい磊々峡(らいらいきょう)を眺めながら入浴を楽しめます。ライトアップされた夜の磊々峡も見事。
別館には「伊達の湯」「三春の湯」があり、ともに内湯と岩造りの露天風呂があります。「梵天の湯」と「愛姫の湯」、「伊達の湯」と「三春の湯」はそれぞれ日替わりで男女入れ替えとなるそうです。

宿の詳細はこちらから
【得da値!バイキングプラン】がお得です!



続いては。 

宮城県仙台市 秋保温泉 
秋保温泉ホテル佐勘

秋保温泉湯守の佐藤勘三郎氏は、元和元年(1605)大阪夏の陣の際、伊達家の家臣として出陣し、多くの武勲の恩賞として甲胄等を拝領、その一部を館内で見ることができます。
また「佐勘」は、伊達政宗の湯呑み御殿として栄えた格式高い高級宿で、伊達政宗より拝領した主屋が美術展示室として現存しています。「姫の湯」は女性に嬉しいパウダールームを完備。名物の「名取の御湯」は歴史を感じる空間です。

宿の詳細はこちら 1泊朝食プラン『べすとぶれいくす』ならお得ですよ~♪

こちらはちょっと高級ですが、普段頑張っている自分へのご褒美に

「伊達政宗ゆかりの温泉」、いかがですか?

 

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Tag : 伊達政宗 愛姫 温泉 宮城県

伊達政宗宛に、徳川家康から「百万石のお墨付き」が送られる(今日は何の日)

8月22日 慶長5年(1600)

伊達政宗は、天正17年(1589)、内紛のあった会津・葦名氏を破り、会津は伊達の支配下に入りました。伊達政宗は、現在の山形県・宮城県・福島県の三県にまたがる広大な領地を得て奥州の覇権を確立し、さらに関東への進出をねらいました。伊達政宗、時に23歳。

しかし時の権力者・豊臣秀吉の命令で、わずか一年余の支配で伊達政宗は会津の地を手放す事になります。

そして慶長3年(1598)、思いがけない大物が会津に乗り込んできました。豊臣家五大老の一人、上杉景勝でした。
伊達政宗に対する羽柴秀吉の牽制策であることはいうまでもありません。
上杉景勝は会津、仙道をはじめ、長井、刈田を加えた百万石の大名として、家老の直江兼続とともに移ってきました。 

伊達政宗は、羽柴秀吉が没した後の翌慶長4年、長女・五郎八姫と徳川家康の息子・忠輝との婚約を成立させます。
これに文句をつけたのが石田三成でした。
羽柴秀吉は遺言で、大名同士が勝手に婚姻関係を結ぶことを禁じていたのです。

徳川家康と石田三成の対立がにわかに緊張してきました。
徳川家康と対立する上杉景勝も、伊達政宗の動きに警戒の目を注ぎます。
(上杉景勝は、重臣の直江兼続が石田三成と懇意だったことなどから、徳川家康と対立していました)

慶長5年、関ヶ原の戦いが起こります。石田三成挙兵の報を受けた徳川家康は、上杉勢の行動を押さえるため、伊達政宗に出兵を依頼しておいて西へ向かいます。 

この時、徳川家康が伊達政宗に送った書状が、いわゆる「百万石のお墨付き」です。

内容は、石田三成との戦いに勝った際には、刈田、伊達、信夫、二本松など伊達の旧領七ヵ所を伊達政宗に贈るというものでした。
伊達政宗にしてみれば、現在の所領58万石に加え、新たに49万石の領土を与えられることになり「百万石のお墨付き」と呼ばれるようになります。 

伊達政宗は、直接には関ヶ原の決戦には参加していませんが、石田三成の唯一の協力者といっていい上杉景勝の動きを完全に封じたのです。 もし上杉景勝がその主力を率いて石田三成の西軍で活躍していたら、関ヶ原の合戦は別の結果を見せていたでしょう。 徳川家康の大勝は、伊達政宗の力あってこそといえるかもしれません。

「百万石のお墨付き」の約束は、ご存知のように果たされず、わずかに刈田一郡を送られただけ。伊達政宗の百万石の夢は崩れ、結果的には伊達家六十二万石ということで終わりました。

『徳川家康領知覚書』(いわゆる「百万石のお墨付き」) は仙台市博物館が所蔵

 

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Tag : 伊達政宗 徳川家康 関ヶ原の合戦 石田三成 上杉景勝

上杉景勝・直江兼続VS伊達政宗(今日は何の日)

8月7日 慶長5年(1600)

徳川家康が伊達政宗に書状を発し、秀忠・佐竹義宣の双方と協力して上杉景勝に当たるよう命じた日



豊臣秀吉の死後、慶長5年(1600年)6月に会津攻めのため出陣していた徳川家康が、下野小山において石田三成の挙兵を知り反転、西上します。

徳川家康の脅威が去った上杉景勝は、最上義光攻略に出ます。 そこで家康は、慶長5年8月7日、伊達政宗に書状を発し、上杉景勝に当たるよう命じるのです。
上杉軍の大将・直江兼続は最上領向けて侵攻を開始。総兵力は2万5000人。 それに対して最上軍の総兵力はおよそ7000人。山形城には4000人(?)ほどの兵力しかありませんでした。

伊達政宗は、徳川家康に命じられた通り、援軍として留守政景を将とした約3000の軍勢を差し向けます。 しかし伊達の援軍をあわせても、上杉軍の優位に変わりはなく、最上は危機迫った状態となります。


ところが関ヶ原の本戦で石田三成率いる西軍が、徳川家康率いる東軍に大敗を喫します。その知らせを聞いた直江兼続は自害しようとしたものの前田慶次(前田利益)に諫められ撤退を決断。兼続は鉄砲隊で最上軍を防ぎながらその追撃を振り切り米沢城に帰還しました。

「奥羽における天下分け目の東西合戦」ともいわれます。

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Tag : 徳川家康 伊達政宗 上杉景勝 直江兼続 前田慶次 逸話 石田三成

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