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名武将の“強運”を味方につける長浜の旅

豊臣秀吉の逸話が残る“ご利益温泉”
【長浜太閤温泉】~滋賀県長浜市~

琵琶湖畔の長浜城跡に湧き出る総鉄泉で、
秀吉が長浜城に移り、初めて子供ができたことから
“子宝の湯”と呼ばれ、親しまれています。


▼おすすめの宿「浜湖月」 
琵琶湖一望の眺望大浴場、露天風呂付き客室も人気!

かつて太閤秀吉も眺めたという風景。
湖に沈む夕日を眺めながら浸かれば、
“雄大な夢”が湧き出してくる!?

夕食は琵琶湖の名産をふんだんに使った懐石料理
元料亭ならではの繊細な味わいが魅力。
伝統の鴨すき、湖魚料理鮒子まぶし」から、
高級和牛で名高い近江牛まで、多彩な料理を堪能!

▼長浜の旅のお楽しみ開運招福の「六瓢箪めぐり」
秀吉が馬印とした千成瓢箪にあやかって
市内の古社寺をめぐり6つのひょうたんを集めると
「むびょうたん」=「無病」として無病息災・開運招福の
御利益ありというもの。
 
また、長浜は伝統の瓢箪作りもさかん。
「全日本愛瓢会」本部では数百個の様々な瓢箪の
工芸品が展示即売されている。

▼長浜城で出世運のご利益をいただき!
秀吉が初めて城持ちの大名に出世した際に建てた城。
その時に元の地名「今浜」を、信長の“長”の字をとって
「長浜」に改めたといいます。

その他にも、 “石田三成と直江兼続”ゆかりの地としても
盛り上がりをみせている長浜。
情緒豊かで落ち着いた雰囲気の町並みも魅力なんですね。

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テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行

Tag : 羽柴秀吉 石田三成 直江兼続 滋賀県

羽柴秀吉が、石田三成・千利休を従えて有馬に湯治(今日は何の日)

9月14日 天正13年(1585)

天正13年(1585)というと・・・
その3年前、本能寺で織田信長が討たれ、羽柴秀吉は謀反を起こした明智光秀を山崎の戦いで敗走させると、翌年、信長継承問題で対抗する柴田勝家を賤ヶ岳の戦で破ります。さらに天正12年には、小牧・長久手の戦いで、織田信勝と徳川家康を配下にすることに成功。
羽柴秀吉は、実質的な天下人となっていました。
そして大坂城を築城して居城とし、天正13年7月11日には、人臣の最高位である「関白」となります。さらに9月9日、朝廷より、「豊臣姓」を下賜されます。

その5日後のことです。 
9月14日 羽柴秀吉、治部少輔・仁右衛門・紀介・抛筌斎・施薬院全宗・今井宗久・今井宗薫ら側近を随行させ摂津国有馬に湯治。

「治部少輔」とは石田三成、「仁右衛門」とは増田長盛。「紀介」とは大谷吉継、「抛筌斎」は千利休のことです。

秀吉はこの前年くらいから頻繁に有馬に湯治のため訪れています。体調が思わしくなかったのでしょうか?
しかし、これだけ多くの側近を連れての湯治は珍しく、関白になったことのお祝いも兼ねていたのかもしれませんね。

ちなみにその年の2月5日には、ねね(北政所)が、有馬湯山に薬師堂建立(再建)のため、1500貫と地料として100石を寄進しています。妻として秀吉を陰で支えていた様子がちょっと分かりますね。

 


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Tag : 羽柴秀吉 ねね 千利休 温泉 逸話 兵庫県 石田三成

羽柴秀吉 大坂城の築城開始(今日は何の日)

9月1日 天正11年(1583)



賤ヶ岳の戦いで柴田勝家らを滅亡させた羽柴秀吉は、焼失した石山本願寺の跡地に大規模な築城普請を開始しました。

普請は30余カ国の城持ち大名衆に割り当て、技術者達を近江から大坂に集結させます。9月1日、工事の陣頭指揮を秀吉みずから行い、天守の土台から始められました。織田信長の安土城を参考にしたといわれるこの大坂城築城労働者は、3万人を越えるといわれます。

羽柴秀吉が創建した天守は外観5層で、鯱瓦や飾り瓦、軒丸瓦などに黄金がふんだんに用いられました。

慶長3年(1598)に秀吉が亡くなるまで工事は続けられ、徐々に難攻不落の城に作り上げられました。

現在の大坂城は、徳川幕府再築のもので、堀の形状や天守の位置も全く異なるといいます。

 

大坂城では、現在、企画展「秀吉と信長の城づくり ~大坂城と安土城~」が開催されています。

また同時開催で、安土城建立をテーマにした映画「火天の城」の公開記念パネル展も開催中で、9/12(土)の全国ロードショーに先駆け、シーンスチールやメイキング映像などを見ることができます。

 

開催期間:平成21年 8月8日(土)~10月16日(金)(予定)

場所:大阪城天守閣 2階会議室

 

大阪市中央区大阪城1番1号 電話:06-6941-3044

 

 

関連記事

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大坂城と城下町


 

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Tag : 羽柴秀吉 映画 書籍 大阪府

豊臣秀吉、伏見城において没(今日は何の日)

慶長3年 8月18日 豊臣秀吉が亡くなった日

慶長3年3月15日、秀吉は醍醐寺三宝院において、1300名を従えて盛大に「醍醐の花見」を催しています。

5ヵ月後の慶長3年8月10日頃から意識が混濁した状態に陥り、18日未明に伏見城で薨去します。推定62歳。

秀吉は「醍醐の花見」の頃から体に変調をきたし、失禁や神経痛で腰が立たないといった衰弱ぶりが目立つようなっていたといいます。
宣教師ロドリゲスは「秀吉は衰弱しきっていて、もはや人間とは思えなかった」と書き記しています。
秀吉の死は2度目の朝鮮出兵の最中のことでした。 
8月9日、朝鮮出兵についての遺言を徳川家康と前田利家にしたあと、錯乱状態に陥ったようです。

辞世の句
「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」

秀吉亡き後の主導権争い・関ヶ原の合戦は2年後のことです。

ちなみに豊臣秀吉は、太政大臣・従一位だったので、死去した場合「薨去」を使うそうです。
死後317年経った大正4年に正一位が贈位されています。

豊臣秀吉ゆかりの地・史跡

豊臣秀吉墓所  豊国廟 京都市東山区今熊野阿弥陀ヶ峯町





 

 

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Tag : 羽柴秀吉 京都府 逸話

羽柴秀吉が近衛前久の猶子として関白の位に就く (今日は何の日)

8月6日 天正13年(1585)

羽柴秀吉が近衛前久の猶子として関白の位に就く
織田信長暗殺事件の年、羽柴秀吉は宿敵・明智光秀を打ち滅ぼした後、信長恩顧の柴田勝家、滝川一益、織田信孝などを相次いで撃破、天下一の基礎固めを行います。
天正11年(1583)大阪城を築き、怖い者なしの天下人となった秀吉に欠けているものと言えば「称号」だけでした。 当時、征夷大将軍は源氏に、関白・摂政は藤原氏に与えるというのが慣例だったので、秀吉は源氏の本家筋にあたる足利義昭に養子縁組を申し込みますが、願いは叶いませんでした。

そこで秀吉は、藤原氏一族である近衛前久の猶子(養子)になり『藤原氏』を称して正親町天皇から関白の官職を賜るのです。

関白とは・・・
「関(あずか)り白(もう)す」という意味があります。
成人後の天皇を助けて政務をつかさどった重職。
関白は、平安中期、藤原基経をこの任にあてたのに始まり、藤原氏がその地位を独占。例外は豊臣秀吉・秀次の二人のみ。

ちなみに関白と征夷大将軍の格を比べると、この当時では、断然「関白」だそうです。

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Tag : 羽柴秀吉

羽柴秀吉が、徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家に対し自筆遺言状を与え羽柴秀頼の将来を託す(今日は何の日)

85日 慶長3年(1598)年
 
羽柴秀吉が、徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家に対し自筆遺言状を与え羽柴秀頼の将来を託した日
 
これは2度目の遺言書といわれ、五大老に対して与えられたものです。
その遺言状は、こんな内容でした。
 
「徳川家康は3年間在京し所用の場合は徳川秀忠を江戸に下すべきこと、奉行衆の前田玄以・長束正家以外の3名中1人は伏見城留守居を担当し、徳川家康は常時伏見城留守居とすべきこと、大坂城留守居は奉行衆中の2人とすべきこと、羽柴秀頼を大坂城に入城させて諸大名の妻子を大坂に証人として滞在さすべき」 
奉行衆とは五奉行のことで、浅野長政を筆頭に、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以の5人。
 
羽柴秀吉はこの13日後、その生涯を終えています。
 
羽柴秀吉(豊臣秀吉)ゆかりの地・史跡
豊国神社 豊臣秀吉を祀る神社
京都府京都市東山区大和大路正面茶屋町530
 
豊国廟 豊臣秀吉を埋葬した五輪塔
豊国神社から東に1Kmほどの阿弥陀ヶ峰山頂
京都への観光・旅行ならこちらがお得!






1/4 名将兜 豊臣秀吉

武士のサイン 花押Tシャツ 天下統一 太閤 豊臣秀吉 Lサイズ

トートバッグ豊臣秀吉


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Tag : 羽柴秀吉 徳川家康 石田三成 逸話 京都府 グッズ 前田利家 毛利輝元 上杉景勝 宇喜多秀家

木下藤吉郎結婚 伊達政宗誕生 豊臣秀頼誕生(今日は何の日)

8月3日 永禄4年(1561)
木下藤吉郎、浅野長勝の養女「祢(ね)」と結婚。

木下藤吉郎(豊臣秀吉)は24歳、
祢(ね)(ねね・おね・北政所)は14歳。

この結婚には、こんな逸話があります。
当時、秀吉は信長の足軽組頭をつとめていました。
その頃から秀吉は、浅野長勝の養女・ねねに心惹かれていたようです。
しかし、最初にねねに縁談の話を持ちかけたのは前田犬千代(前田利家)でした。
ところが、14歳のねねの返事は・・・
「ごめんなさい。私は犬千代さまより、藤吉郎さまの方が好きです」
落ち込む犬千代であったが、男らしくそのことを藤吉郎に告げます。
こうして、木下藤吉郎とねねは結ばれたといいます。


それから6年後の8月3日 永禄10(1567)年 
伊達政宗、陸奥国に誕生

米沢城主・伊達輝宗と義姫(最上義守の娘)の間に嫡男として生まれます。
幼名は梵天丸。梵天とは神が宿る幣束のこと。つまり梵天丸は神の化身という意味があります。
伊達政宗が生まれた永禄10年当時、
武田信玄46歳、織田信長33歳、豊臣秀吉30歳、徳川家康24歳でした。



8月3日 文禄2(1593)年
淀殿(羽柴秀吉側室)、大坂城二之丸において男子(拾丸:ひろいまる)を出産。

昨日のNHK「天地人」では、深キョン(淀殿)が、稚児を授かったことを比嘉愛未ちゃん(菊姫)と常盤貴子ちゃん(お船)に話していましたね。来週あたり生まれるのでしょうか?

拾丸は後の豊臣秀頼です。
秀吉の次男(一説には三男)として生まれました。兄の鶴松はすでに世になかったので、秀頼が事実上の後継者となります。


秀頼の誕生は、正室・ねね(北政所)と側室・茶々(淀殿)の確執を生みます。

ねねの結婚記念日と、茶々の子の誕生が同日。偶然というか因縁というか・・・


  

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Tag : 羽柴秀吉 豊臣秀頼 伊達政宗 ねね 北政所 茶々 淀殿

非情!羽柴秀吉の奥州仕置き(今日は何の日)

7月晦日 天正18年(1590) 

小田原征伐後、奥州仕置き最中の、羽柴秀吉から有力大名6名への連絡です。


『羽柴秀吉、長宗我部元親・蜂須賀家政・生駒親正・戸田勝隆・福島正則・脇坂安治へ (中略) 去る7月26日に下野国宇都宮に到着しそのまま逗留していることに触れ、


常陸佐竹氏・下野宇都宮氏およびその他の「諸侍」へ「足弱共」(老人や婦女子と一緒)の上洛を命じたこと、

 

「不入之処ハ破却」(これを入れない場合は、めちゃめちゃに壊す)を命令したこと、

陸奥国会津へは羽柴秀次を派遣したこと、 

1昨日に伊達政宗が到来することになっているので羽柴秀吉自身が陸奥国会津へ移る予定であること、

出羽国・陸奥国へは3手にて軍勢を進め「御置目」を通達する予定であること、

更に津軽・宇曽利(下北半島むつ市)・外浜(津軽半島陸奥湾沿岸)からまでもことごとく「足弱共」を在洛させること

「蝦夷島」(渡島半島を除く現在の北海道を中心に、樺太と千島列島)へ、羽柴秀吉「御朱印」を下し、「出仕」しなければ軍勢を派遣し、「悉刎首」(ことごとく斬首)する予定であることを通達』。

羽柴秀吉って怖いっ・・・


 





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Tag : 羽柴秀吉 逸話 長宗我部元親 蜂須賀家政 生駒親正 戸田勝隆 福島正則 脇坂安治

羽柴秀吉(豊臣秀吉)、九州平定奏上のため上洛(今日は何の日)

7月25日 天正15(1587)年 今から422年前
 
羽柴秀吉による天下統一はカウントダウン状態でした。
羽柴秀吉が九州征伐のため約八万の軍勢を率い大坂城を発ったのは、天正15年3月1日のこと。 
九州征伐は、羽柴秀吉の朝鮮出兵に向けた力の誇示、パフォーマンスともいわれています。
毛利氏・大友氏と合流し、空前絶後、驚異とも言える動員兵力、総勢20万以上の征伐軍で進撃、島津軍を圧倒します。
羽柴秀吉本軍、黒田如水を軍師とした羽柴秀長軍の2軍で南下。
追い詰められた島津軍。
決戦か、降参か、賛否が分かれる中、島津義久の決断は早期に出された。
5月3日 
羽柴秀吉、薩摩国川内の泰平寺に本営を移す。
島津義久は僅かな従者と共に鹿児島を出発します。
5月6日
途中、伊集院に立ち寄り生母の墓参。
薩摩の守護大名・島津義久、御母堂御寺窓院にて剃髪し「龍伯」と改名。
5月8日 
島津義久、泰平寺において羽柴秀吉に無条件降伏して臣従を誓う。取り成しは佐々成政と堀左衛門佑(堀秀政)。
羽柴秀吉、島津義久へ羽柴秀吉自身が帯びていた腰物大小・御小袖を下賜。
旧領を総て安堵しその命も助けるという、前例を見ない沙汰でした。
 
島津は秀吉の戦力に組み込まれ、東側は最大級の驚異となりました。
秀吉は無傷で、島津は壊滅どころか強豪戦力保持のままで和睦。
そして伊達政宗は動かず、北条氏は絶体絶命となったのです。
 
7月14日 秀吉、大坂城に凱旋。
7月25日、九州平定奏上のため上洛
 
そして4日後の7月29日 参内して九州平定を奏上しています。
 
 
史跡・ゆかりの地 
島津義久が羽柴秀吉に会見した寺
医王山正智院泰平寺
鹿児島県薩摩川内市大小路町48-37  TEL:0996-22-4593
川内駅より車で約10分
 
降伏を記念する『和睦石』が住持宥印の墓と並んで境内に現存しています。
 
さらに、2002年に薩摩川内市教育委員会によって、泰平寺前の泰平寺公園に『秀吉・義久和睦の像』が建てられました。
毎年11月には薩摩川内市内で、秀吉の薩摩攻めから和睦までのシーンを再現する「川内はんや祭り」戦国絵巻が盛大に開催されます。
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Tag : 羽柴秀吉 祭り 島津義久 鹿児島県

太閤秀吉の母・大政所が逝去(今日は何の日)

7月22日 天正20・文禄元年1592年
太閤秀吉の母・大政所が逝去

秀吉が建設した聚楽第で没したといいます。

朝鮮出兵のため肥前名護屋にいた羽柴秀吉のもとに、母危篤の知らせが届いたのは、亡くなった日か、それより1~2日前でしょうか。

7月22日(同日)
羽柴秀吉、大政所の危篤の報により肥前名護屋より乗船し京都に向かう

秀吉が大坂に着いたのが、7月29日。
秀吉が母の死を聞いたのは、いつかは分かりませんが、秀吉は大きな衝撃を受け、その場で卒倒したといいます。

秀吉は8月4日、金剛峯寺へ大政所追善のために剃髪寺(後の青厳寺)を建立しています。
建立にあたって秀吉は、米を一万石と白銀三千枚を寄付しました。

また青厳寺は、豊臣秀次の自刃の地でもあります。
青厳寺・柳の間にて切腹しています。

金剛峯寺の北、現在の光台院裏山に簡素な秀次の墓石が建っています。

ゆかりの地・史跡
大政所の墓

瑞鳳山萬歳龍翔禅寺 京都市北区紫野大徳寺町61(一般参詣不可)

羽柴秀吉ゆかりの地・史跡 大政所ゆかりの地・史跡
聚楽第
現在の京都市、一条通(北側)、黒門通(東側)、下立売通(南側)、土屋町通の少し西側(西側)辺りにあった堀に囲まれていたとされています。石碑・遺構が数多くあります。
参考サイト http://homepage2.nifty.com/kenkakusyoubai/juraku/annnaizu.htm

剃髪寺(青厳寺)
明治2年、興山寺と合併して、総本山金剛峯寺となりました。
境内には、現在も青厳寺当時の土塁が残っていると言います。

総本山金剛峯寺(こんごうぶじ)
高野山真言宗総本山の寺院
和歌山県伊都郡高野町高野山132  0736-56-2011

光台院
和歌山県伊都郡高野町高野山649 0736-56-2037

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Tag : 羽柴秀吉 大政所 京都府 和歌山県

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