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武田信玄が辿った秘密ルート解明!? 歴史発掘登山ツアー!

今週は、甲斐の虎こと、武田信玄を特集します。 

武田信玄 JR甲府駅前の武田信玄像


相模国・北条氏康の篭る小田原城攻めの際、犬越路(いぬこえじ)を越えたという武田信玄が辿った行軍ルートの謎を解きながら歩くというこのツアーがあります。主催は「NPO法人かながわ山岳ガイド協会」。

永禄12年(1569)、すでに相甲駿三国同盟は破れ、相模国小田原城主の北条氏康は、北からの脅威を排除するために、越後の上杉謙信と同盟し、北条氏政の正室(武田信玄の娘:黄梅院)を、甲斐国へ送り返します。 
これに激怒した武田信玄は、相模国に侵入、8月北条氏康の小田原城を包囲するのです。この時、甲斐から相模に攻め入る際、通ったのが犬越路です。

犬越路といえば、あまりの険しさに犬を先導させたことに由来するといわれるほど、険峻な地形のところです。
ツアーの難易度は、4段階で難易度の高い方から2番目。しかし「少し体力を使います」程度で、誰でも参加可能とのこと。

ガイドの興味深い話を聞きながらの山歩きだといいます。

日程:9月27日(日曜日) 
目安:6時間
参加費:2,000円(路線バス代別)
募集定員:15名 
※参加費に含まれるものは、登山ガイド費と旅行災害保険料のみ。 
※交通費・食費・宿泊費等は各自負担。

コース
小田急線新松田駅~(バス)~丹沢湖・世附~地蔵平~世附~(バス)~新松田駅

詳しい情報はこちら 
NPO法人かながわ山岳ガイド協会
http://www.sakura11.com/kmga/
申込書
http://www.sakura11.com/kmga/2009ecot2.pdf

明日から9月、食欲の秋、読書の秋、スポーツの秋ですね。
家に閉じこもってないで(俺のことだ^^;)、武将たちの汗や涙や思いが染み込んでいる「道」を歩いてみてはいかがでしょうか? 

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Tag : 武田信玄 神奈川県 山梨県

真田幸村の六文銭 (NHK:歴史秘話ヒストリアにて)

先日のNHK歴史秘話ヒストリアで六文銭について、「すべてに死ぬ気で臨む覚悟の印」とナレーションで言っていましたね。

六文銭は「不惜身命」を意味する、ともいいますが,もう少し詳しく説明しますと・・・


六つの銭は仏教の六道銭(りくどうせん)、つまり死者の賽銭を意味しています。

六道とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六つの世界(冥界・迷界)をいいます。

そして、人が死ぬと三途の川の渡し賃として棺に銭六文を入れ、六道にいる、救済のために現れる地蔵に救済を願うのです。

お地蔵さんに銭を渡すことによって救われる、無事に三途の川を渡ることができる、清く成仏できる、死後も安心、ということで、「死ぬ覚悟はできている」「死ぬ気で戦う」という意味があります。

とても強い意志にあふれた家紋。

まさに真田幸村の生き様を象徴する家紋ですね。 

ちなみに全国に六地蔵がありますよね。

これは、六道それぞれを守護する地蔵菩薩を意味しています。

地蔵菩薩はあの世とこの世を行き来できる唯一の存在といわれています。

ですから、お地蔵さんに対して手を合わせて、死者の救済を祈るのです。



戦国武将蒔絵シール「真田幸村」

 




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Tag : 真田幸村 NHK

吉川元春の館跡で篠笛コンサート!

吉川元春の館跡、吉川元春館跡歴史公園篠笛奏者の「こと」さんによるコンサートが行われます。
 
平成21年9月5日(土曜日)19時~20時「お月見の夕べ」
吉川元春館跡 広島県山県郡北広島町海応寺255-1
 
吉川元春館跡は、吉川元春が1583 年に隠居所として建設を始めた館跡です。1591 年に当主だった三男の広家が出雲へ移転したことによって館としての機能を失い、1600 年に吉川氏が岩国へ移封された後は完全に廃墟になりました。
 
発掘調査によって建物跡や庭園跡などが見つかったほか、当時の生活や技術がわかる多くの遺物が出土しています。
吉川元春館跡は現在、吉川元春館跡歴史公園として解放され、出土品の一部は、隣接する吉川元春館跡資料館(戦国の庭歴史館)で見ることができます。
篠笛演奏は竹灯篭でライトアップされた史跡公園で行われます。吉川元春の生きた時代に思いを馳せてみませんか?
篠笛奏者「こと」
広島市出身。6歳の頃から神楽笛を始め、15歳で北広島町「苅屋形神楽団」に入団。これまでに、県内各地で行われる神楽競演大会・樂の部で数々の個人賞を受賞。現在、東京と広島を拠点に演奏活動中。
 
*雨天の場合は戦国の庭歴史館ホールで行われます。
*当日は戦国の庭歴史館の開館時間延長(20 時30分まで)
 
吉川元春館跡歴史公園
お問い合わせ電話・FAX 0826-83-1785(月曜休館)
北広島町教育委員会事務局生涯学習課
電話0826-72-0864(月曜~金曜)
 
戦国の庭 歴史館HPhttp://www.town.kitahiroshima.lg.jp/syougaigakusyu/sengokunoniwa.jsp

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Tag : 吉川元春 広島県

毛利元就の二男・松寿丸が14歳で元服、元春を名乗る(今日は何の日)

8月30日 天文12年(1543)

吉川元春は享禄3年(1530年)、毛利元就の次男として安芸吉田郡山城で生まれます。母は吉川国経の娘・妙玖。幼名は松寿丸。

天文10年(元服前の12歳の時)宮崎長尾合戦(尼子晴久討滅戦)で、自ら初陣を志願。勇躍敵陣に突入し奮戦したといいます。

その2年後の天文12年(1543)の8月30日、14歳で元服しました。

兄の毛利隆元より「元」の字を受けて元春と名乗ったともいわれていますが、
元春という名は毛利氏の先祖で、安芸に土着した毛利氏の勢力拡大に腐心した「毛利元春」と同名で、父・元就が元春に掛けた期待のほどが窺えます。

吉川元春は、弟の小早川隆景と共に毛利家発展の基礎を築き上げました。生涯で76度の合戦に臨み、64度の勝利を収め、一度として敗れたことのない名将と伝えられています。
父・元就をしてその勇猛ぶりは、「我は戦では元春には及ばぬ」と言わしめたとされています。

その一方で、読書家であり、謹厳実直な性格で、自分の子ども達に対する躾も厳しく、着衣、飲食、礼儀作法などを詳しく訓戒した書面も残しています。
吉川元春にとって最後の戦場となった九州では、撤退の途中、猛吹雪の中で凍死寸前の商人を発見して救ってやるという仁愛に厚い武将の一面を見せ
ています。

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Tag : 吉川元春 毛利元就 小早川隆景 逸話

悲運の妻、家康正室・築山殿、殺害される(今日は何の日)

8月29日 天正7年(1579) 

築山殿(瀬名)は、弘治3年(1557)、15歳の時、松平元信(後の徳川家康:当時16歳か?)と結婚します。
瀬名は今川義元の姪。今川氏の血を引く気品のある女性だったといわます。

永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで、伯父の今川義元が討たれ、家康は岡崎に戻り、今川の敵方・織田信長と同盟を結んでしまうのです。
このことが今川氏真の怒りを買い、永禄5年(1562年)3月、瀬名の実の父である関口義広(今川家一門)が、正室と共に自害させられてしまいます。

以後、家康と瀬名の間はギクシャクし始めます。

瀬名は駿府城から岡崎に移り、築山のそばに住みます。
このため築山殿と呼ばれるようになります。

永禄10年(1567年)、長男・信康と織田信長の長女・徳姫との結婚が成立します。
しかし築山殿にとって徳姫は 「父や伯父を死に追いやった信長の娘」としか映らず、折り合いは良くなかったといいます。

そしてついに築山殿は憎さのあまり、甲州から美貌の側室を信康に迎え、息子夫婦の仲を裂こうとしたといわれています。また武田勝頼と内通し徳川家滅亡をはかったともいわれています。(築山殿に、武田氏と裏で外交ができるような力があったか疑問視されています)

その他にも、唐人の鍼医減敬との内通、侍女おまんを裸で縛り付けする、などの悪女ぶり。

徳姫が築山殿の悪行を父・信長に密告したことにより、信長が家康に、築山殿と信康の処刑を命じます。

(このあたりの事実は明らかではなく、信長は、信康殺害だけを命じたとする説、信康の殺害も、築山殿の殺害も徳川家の事情によるものとする説があります) 

そして天正7年(1579)の8月29日 
家康の命令が下り、築山殿は野中重政と岡本時仲により、人里離れた山中(佐鳴湖岸小藪村)で殺害されてしまいます。(築山殿の侍女の一人も入水し殉死)

築山殿は時に38歳だったといわれ、首は岡崎に運ばれ、胴は家康の命により、渓翁禅師によって西来院に葬られました。

現在、築山殿の廟堂である西来院・月窟廟の前には、2基の石灯籠があります。
これは、家康に命じられて、築山殿を殺した家臣のひとり、野中重政の子孫が、100年後に曽祖父の罪障消滅を念じて寄進したものといわれ、築山殿の死後、様々な不吉な事が起こり、その殺害に加わった家康の家臣やその子孫たちは、怨霊のために不幸に見舞われたといわれています。

延宝 6年(1678)、西来院の玄風禅師の願いにより、法要がいとなまれ、法名も清池院殿潭月秋天大姉と改められています。 
また月窟廟は、昭和20年(1945)の空襲で本堂などとともに焼失してしまい、現在のものは、昭和 53年(1978)の四百年忌に復元されたものとのこと。

なお築山殿非難の文献は江戸時代の中期以降から見られるようになったといわれ、はたして悪女だったのかどうか疑われています。

築山殿の墓 西来院 静岡県浜松市中区広沢 2-10  



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Tag : 築山殿 徳川家康 今川義元 織田信長 静岡県 徳姫

毛利元就 人心掌握術と名言

今週特集してきた毛利元就の逸話です。
 
元亀元年、毛利軍が尼子討伐のために出雲へ出陣していたときのこと。
毛利元就の陣中で岩木源六郎道忠が膝を矢で射られ、矢尻が抜けずに苦しんでいました。
医者を呼んで診せたところ、「膝を切らなければ治らない」といいます。
道忠は真っ青になりました。
 
しかし毛利元就はこの医者を叱って退けてしまいます。
そして元就は道忠の傷口にかぶりつき、傷口を吸いはじめたのです。そして膿と一緒に、矢尻まで吸い取ってしまったのです。
 
道忠は、この元就の行為に驚き、「死して恩に報ぜんとする志」が顔色に顕われ、感涙にむせんだといいます。
 
道忠のこの様子を見ての、元就の名言です。
「厚き恩信を思はゞ大勇の者にあらず」
(恩に報いて、死を持って・・・などと思うのならば、大いなる勇者ではない)

と、道忠を深く誡めたといいます。
 
家族や渡辺通をはじめとする家臣たちが目の前で死んでゆく姿を見てきた元就だからこその言葉かもしれません。


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Tag : 毛利元就 名言 逸話

中国地方の覇者 毛利元就の真実【マザコン武将の秘密!】

元就の終焉の地・安芸高田市から

ちょっとマニアックな講座のお知らせです。

 

安芸高田市民文化センター(広島県)

 公開講座「毛利氏をめぐる女性たち」

 

開催日:平成21年11月8日(日)

 

 講師:県立広島大学人間文化学部教授 秋山信隆

 

受講料は無料。定員は100名程度だそうです。

申し込み方法などのお問い合わせは

「安芸高田市吉田歴史民俗資料館」まで。

℡:0826-42-0070

 

 

◆上記の詳しい内容は、残念ながら紹介されていませんが、

元就は、かなりの愛妻家だったという証拠が

多く残されています。

その中の一つが正室の死後、長男・隆元へ送った手紙。

 

「お前たち三兄弟のお母さん(亡き正室・妙玖(みょうきゅう)のことを

いつも考えている。今、ここにいてくれたらなあ…」

 

彼こそ“愛”の前立がふさわしい武将だったんですね…

元就は5歳で母親を、10歳で父親を亡くしています。

もしかしたら、親の愛情に飢えていたから

正室に対して、「母の愛」を求めていたのかもしれませんね。

一見意外な一面のように思えますが、わかる気がします。

 

◆ガンダム世界でいう、シャアのララアに対する思いですね…

「ララアは私の母になってくれたかもしれなかった女性だ!」

 なんとなくわかる気がしますね~

(知らない方、すいません。)

 


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Tag : 毛利元就 広島県 逸話

室町幕府のラストエンペラー没す(今日は何の日)

8月28日 慶長2年(1597)


足利義昭は、室町幕府の第15代将軍で、室町幕府最後の将軍。
 
永禄8(1565)年、足利義昭は、亡き兄・義輝の側近だった一色藤長、細川藤孝らに助けられ、幽閉先の奈良興福寺の一乗院を脱出します。
その後、越前の朝倉家などを頼りつつ、各地を転々とします。 貧乏公方」とまで言われ、大名家に助力を嘆願する毎日でした。足利将軍家復活への執念は、剣豪将軍ともいわれた兄・義輝に勝るとも劣らなかったといいます。
 
足利義昭は気位が高く名誉心に富み、それに見合った力量を備えていました。
将来を見通す力、現実を見る力、決断力を秘め、苦しい立場に追い込まれても忍耐強かったといいます。
だからこそ、自ら兵を持たず、信長包囲網をつくり上げることが可能でした。
足利義昭は、俗に言われる陰険な小者ではなかったといわれます。
 
永禄11年(1568)、足利義昭は流浪の末、織田信長に助けられ、念願であった室町幕府第15代将軍に任じられます。
 
しかし義昭は、織田信長が中央での実権を握るための道具として自分を利用したのだと気づき、兄の義輝同様、操り人形になるのを嫌った義昭は、信長と激しく対立するようになります。
 
信長包囲網を築くも失敗に終わると、義昭は信長によって京都を追われ備後に下向します。
 
そして天正10年(1582)、ついに本能寺の変を引き起こす(?)のです。
(本能寺の変・足利義昭黒幕説)
 
 

足利義昭の晩年は秀吉の御伽衆に加えられ、太閤の良き話し相手となります。

天正16年(1588)大坂で落飾し昌山道久と号す。

慶長2年(1597)の8月28日、大坂で死去、享年61。

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Tag : 足利義昭 織田信長 本能寺の変

彼氏にしたい戦国武将ランキング!

皆様の御投票をお待ちしております。

15人までしかあげられないので、泣く泣くはずした武将もいます。書かれていない武将に投票したい方は、どうぞ「その他」から投票下さい。

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Tag : 彼氏にしたい戦国武将

中国地方の覇者 毛利元就の真実【“自己管理”が最大の武器!】

◆前回に引き続き、山口県ネタです。
防府市の「毛利博物館」と合わせて訪れてみると
いいかもしれませんね。

住吉神社(山口県下関市)

河渡祭(かわたりさい) 
開催日:平成21年12月1日(火)

この祭りは、
石見国江川で毛利氏と尼子氏が戦ったとき, 
毛利元就は全軍に神酒を与え,田作りと餅粥をふるまって, 
その勢いでいっきに奇襲して江川を渡ることに成功した、

という古事に始まり,現在では大きな釜に餅粥を炊いて 
一般参拝客にふるまっている。
( 山口県観光情報より )


◆前回のエピソードに出てきた“餅”がまた出ましたね。(笑)
ちなみに元就自身は、ほとんどを口にしなかったそうです。
というのも祖父・父・兄がいずれも酒害がもとで
早くして亡くなっていたからだそうで、晩年こんな言葉を
残しています。 

「酒さえ飲まなかったならば、 
人は七十、八十までは生きられる」
 
志ある者の自己管理を、身をもって示した重い言葉です。

とはいえ、酒に逃げたいって思うことは多いよね~
でも酔いが覚めたとき、
「何も変わっちゃいないことに気がつく」んだよね…
かの清志郎さんも歌ってました。
(♪「いい事ばかりはありゃしない」より)

住吉神社
山口県下関市一の宮住吉1-11-1 TEL:083-256-2656
神功(じんぐう)皇后の創建と伝わる長門一の宮。国宝の本殿毛利元就造営の拝殿(重要文化財)などがあります。
また宝物館には、毛利元就及び元就の長男隆元、二男元春らの文書も多数所蔵されいます。

 





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Tag : 毛利元就 祭り 山口県 逸話 名言

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