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武田勝頼の痛恨の判断ミス? 徳川家康と北条氏政が同盟を結ぶ 武田家滅亡への序章(今日は何の日)

9月5日 天正7年(1579) 

徳川家康と北条氏政の同盟には、武田勝頼はもちろん、上杉景勝(直江兼続)が大きく関わっています。

天正6年(1578年)、越後国で上杉謙信が死去すると後継者を巡る御館の乱が発生します。
武田勝頼は当初、夫人の実の兄である北条氏政の要請もあり、また夫人の実の兄にあたる上杉景虎を支持していました。

しかし、もう一方の後継者候補である上杉景勝から武田勝頼に対して願ってもない和議の申し入れがあったのです。
それは、和議が成立した際には、上杉景勝から武田勝頼に一万両を献上するというものでした。

いわゆる金での買収という「卑怯」な手段は、上杉景勝を説き伏せた直江兼続の策略であったろうといわれています。

金一両が今のお金にして4万円ほどといいますから、一万両は4億円ということになりますでしょうか。

当時武田家は、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗を喫したうえ、出兵に次ぐ出兵で軍資金が底をついていました。
さらに、武田の財政を支えてきた甲斐・信濃の金山が枯渇し始めたと言われています。武田軍の軍用金の多くが産出されたと伝わる黒川金山(山梨県甲州市塩山)は天正4年(1576)に廃坑となっています。
つまり当時の武田家は、武田信玄が生きていた頃と違い、財政難状態だったのです。

武田勝頼にとっては、まさに魅力的な和睦条件でした。

さらに甲陽軍鑑によると、武田勝頼側近の跡部勝資と長坂光堅(釣閑斎)にも、それぞれ二千両の賄賂が渡されていたとされています。

そして武田勝頼は上杉景勝と甲越同盟を結んでしまいます。

この報を聞いた北条氏政は、武田家との甲相同盟を破棄します。
そして天正7年の9月5日、北条氏政は織田信長・徳川家康と同盟を結びます。この徳川・北条同盟により武田家と北条家は完全に断交に至ります。(北条・徳川の完全な同盟成立は9月13日とも)

結果的に武田勝頼のこの判断は、武田家自体の運命を決めてしまう格好になってしまいました。


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テーマ : 戦国時代 - ジャンル : 学問・文化・芸術

Tag : 徳川家康 北条氏政 上杉謙信 上杉景勝 直江兼続 武田勝頼 山梨県

コメント

勝頼さん・・・

兼続さんに一杯食わされた?上杉と武田逆になったかな?

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