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斎藤道三の子・義龍が2人の弟を謀殺(今日は何の日)

10月22日 天文24年(1555)

斎藤義龍が、なぜ弟2人を殺すに至ったのでしょうか?

斎藤義龍は、「美濃のマムシ」と恐れられた斎藤道三の長男です。
すぐ下の弟が龍重(孫四郎)、その下の弟が龍定(喜平次)で、8つ離れた妹は、信長に嫁いだ濃姫(帰蝶)です。
信長は義理の弟になりますね。

さて義龍の弟殺しは、その出生に端を発したといわれています。

斎藤道三は、大永8年・享禄元年(1528)35歳の時に
土岐頼芸(よりのり)の愛妾(側室)、深芳野(みよしの)を拝領して側室とします。

深芳野は土岐頼芸の側室だったので、正室とはしなかったそうです。

その翌年の享禄2年(1529)、斎藤義龍が生まれています。
実際は、拝領してから7ヵ月後のため、土岐頼芸の子を宿したまま、
斎藤道三の元にやってきたと噂が立ちます。

(斎藤義龍が生まれたのは大永7年(1527)ともいわれています)

道三は、深芳野を拝領してから5年後の天文2年(1533)、小見の方を正室に迎え、
後に小見の方は孫四郎、喜平次を出産しています。

その後、道三は頼芸を美濃から追い出し、国主となりますが、美濃の国人たちは道三に憎悪の念を抱き、美濃は不安定な状態となります。

そこで道三は隠居し、土岐頼芸の子であると噂のある義龍を国主として祭り上げ、家督を譲り、国内の安定を図ったのです。

しかし本当のところは、一番かわいがっていた三男の喜平次を跡継ぎに据え直したいと考えていたようです。

機敏で才能豊な道三にとって、身の丈6尺5寸(約2m)で、
馬上でも地に足が着くほどの巨漢、さらに間抜けな顔をした義龍を、かねてより疎ましく思っていて、弟2人を溺愛していたといいます。

弟2人も次第に兄・義龍を蔑視するようになっていきます。

一方の義龍は、自分は土岐頼芸の子であると信じ始め、父を追放して、自分を疎んじる道三に憎しみを覚えます。

そしてついに道三に対して挑戦状を叩き付けたのです。
それが、天文24年10月22日の、2人の弟の殺害となったのです。

斎藤義龍は仮病を装い、弟孫四郎と喜平次を稲葉山城に呼び寄せ謀殺したといいます。

その後、義龍は道三と戦うことになります(長良川の戦い)。
そして道三は、義龍によって首を斬られ、鼻をそぎ落とされるという無残な最期を遂げる事となります。

これによって義龍は信長を敵に回すことになり、義龍の子・龍興は信長によって滅ぼされます。

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