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伊達政宗宛に、徳川家康から「百万石のお墨付き」が送られる(今日は何の日)

8月22日 慶長5年(1600)

伊達政宗は、天正17年(1589)、内紛のあった会津・葦名氏を破り、会津は伊達の支配下に入りました。伊達政宗は、現在の山形県・宮城県・福島県の三県にまたがる広大な領地を得て奥州の覇権を確立し、さらに関東への進出をねらいました。伊達政宗、時に23歳。

しかし時の権力者・豊臣秀吉の命令で、わずか一年余の支配で伊達政宗は会津の地を手放す事になります。

そして慶長3年(1598)、思いがけない大物が会津に乗り込んできました。豊臣家五大老の一人、上杉景勝でした。
伊達政宗に対する羽柴秀吉の牽制策であることはいうまでもありません。
上杉景勝は会津、仙道をはじめ、長井、刈田を加えた百万石の大名として、家老の直江兼続とともに移ってきました。 

伊達政宗は、羽柴秀吉が没した後の翌慶長4年、長女・五郎八姫と徳川家康の息子・忠輝との婚約を成立させます。
これに文句をつけたのが石田三成でした。
羽柴秀吉は遺言で、大名同士が勝手に婚姻関係を結ぶことを禁じていたのです。

徳川家康と石田三成の対立がにわかに緊張してきました。
徳川家康と対立する上杉景勝も、伊達政宗の動きに警戒の目を注ぎます。
(上杉景勝は、重臣の直江兼続が石田三成と懇意だったことなどから、徳川家康と対立していました)

慶長5年、関ヶ原の戦いが起こります。石田三成挙兵の報を受けた徳川家康は、上杉勢の行動を押さえるため、伊達政宗に出兵を依頼しておいて西へ向かいます。 

この時、徳川家康が伊達政宗に送った書状が、いわゆる「百万石のお墨付き」です。

内容は、石田三成との戦いに勝った際には、刈田、伊達、信夫、二本松など伊達の旧領七ヵ所を伊達政宗に贈るというものでした。
伊達政宗にしてみれば、現在の所領58万石に加え、新たに49万石の領土を与えられることになり「百万石のお墨付き」と呼ばれるようになります。 

伊達政宗は、直接には関ヶ原の決戦には参加していませんが、石田三成の唯一の協力者といっていい上杉景勝の動きを完全に封じたのです。 もし上杉景勝がその主力を率いて石田三成の西軍で活躍していたら、関ヶ原の合戦は別の結果を見せていたでしょう。 徳川家康の大勝は、伊達政宗の力あってこそといえるかもしれません。

「百万石のお墨付き」の約束は、ご存知のように果たされず、わずかに刈田一郡を送られただけ。伊達政宗の百万石の夢は崩れ、結果的には伊達家六十二万石ということで終わりました。

『徳川家康領知覚書』(いわゆる「百万石のお墨付き」) は仙台市博物館が所蔵

 

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テーマ : 戦国時代 - ジャンル : 学問・文化・芸術

Tag : 伊達政宗 徳川家康 関ヶ原の合戦 石田三成 上杉景勝

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