ゆかりの地 都道府県検索 温泉特集 おすすめホテル・旅館(随時作成中) NEW戦国関連書籍
山梨ビデオ制作

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

戦国武将関連の書籍

戦国時代関連でおすすめの書籍を集めてみました。
ご覧になっていただければ幸いです。

タイトル下のリンクより入れます。

こちらからも行けます。
戦国関連書籍

 

 

 

テーマ : 戦国時代 - ジャンル : 学問・文化・芸術

浅井万福丸(輝政)が磔に処される(今日は何の日)

10月17日 天正元年(1573)


浅井万福丸は、北近江の鷹といわれた浅井長政の嫡男。

生母は不明。お市ではないとの説も。
2011年のNHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」で主役となる江や茶々、初の兄です。

天正元年(1573)、織田信長は、3万の軍勢を率いて北近江への侵攻を開始します。
織田軍の総攻撃が間近になったと悟った小谷城の浅井長政は、継室・お市に三人の娘(茶・初・江)と一緒に山を降りるように説得します。

織田信長も、妹・お市の身を案じ、小谷城に遣いをやり、降伏を勧告。
長政は拒むお市を説得し、三人の娘と一緒に信長の本陣へ送り届けました。

しかし嫡男の万福丸は越前へ逃がし、敦賀の木村貞之介という者のところへ預けます(生まれたばかりの次男・万寿丸は城下の寺院へ預けられた)。

天正元年9月1日、浅井長政、自害。

信長は禍根を絶つため、「我が甥である万福丸を、長政に劣らぬ立派な武将に育てる」と
お市を騙し、万福丸の居場所を聞き出したといいます。

そして早くも9月3日、万福丸は捕まり、羽柴秀吉のもとへ送り届けられたのです。

信長はすぐにその処刑を命じたといいます。

万福丸は天正元年10月17日、関ヶ原で磔(串刺しとの説も)に処されました。
万福丸、享年10。


捕まってから処刑まで、1ヶ月半、この間、何があったのでしょうか?

お市による兄・信長への、助命の懇願か?

なおこのいきさつは、秀吉の独断という話もありますが真相は不明です。





1クリックで1票、応援お願いいたします。
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村
こちらもポチっとお願いします。とても励みになります。

 

テーマ : 戦国時代 - ジャンル : 学問・文化・芸術

Tag : 逸話 織田信長 浅井長政 お市の方 万福丸 羽柴秀吉 茶々 お初 お江

まことの武将・武田信繁と真田信繁(幸村)

武田信繁は、信玄の4歳下の弟です。別名:典厩
文武・人物ともに優れ家中の人望も高く、武田信玄の
副将として活躍しました。

永禄4年(1561)第4次川中島の戦いで、
上杉軍が武田軍に迫り、武田軍が劣勢に追い込まれる中、
武田信繁はすぐさま信玄に遣いをやります。

「我が隊は全員玉砕をもって眼前の敵を防ぎとめるので
援軍の必要はない。御大将にはよろしく大局の戦勝を」
と伝え、自ら敵陣に突撃し、討ち死を遂げました。
武田信繁、享年37。

戦いの後、信玄は信繁の遺体を抱いて号泣したといいます。

遺骸は鶴巣寺(のちに典厩寺)の境内に埋められました。

美濃・崇福寺の快川紹喜は
「典厩公の戦死は、惜しみても尚惜しむべし。蒼天」
書き記しています。

武田四天王のひとり、山県昌景は
「古典厩信繁、内藤昌豊こそは、毎事相整う真の副将なり」
と評したといいます(『甲陽軍鑑』)。

また江戸時代の儒学者である室鳩巣はこう賞賛しています。
「典厩公こそは天文、永禄の間に賢と称すべき武将であった。
兄信玄に使えて人臣を失うことなく、その忠臣、誠実は
人の心に通じ、加えて武威武略に長じ、知剛知柔、
まことの武将とは信繁のごとき人物をいう」


第4次川中島の戦いの際、信玄の小姓役だった真田昌幸は、
信繁の武勇に深く感じ、次男に信繁と命名しています。


武田信繁ゆかりの地・史跡
典厩寺
武田信繁の菩提を弔うために真田昌幸の長男・信之が
寺号を典厩寺と改称して、寺領5石の朱印地を給しました。

八代藩主・真田幸貫は、万延元年(1860)、
川中島合戦300年を記念して閻魔堂を建立し、
6,000余名といわれる戦没者の菩提を弔いました。

典厩寺の山門は、真田3代藩主幸道の霊屋の門を
移築したもの。
典厩寺は真田歴代藩主から手厚い保護をうけました。

武田信繁の墓の他、典厩信繁公の首きよめの井戸、
信玄の愛石(躑躅ヶ崎館の庭石)、
謙信の力石(春日山の石)
川中島典厩寺記念館などがあります。
長野市篠ノ井杵渕1000  026-292-3335

川中島典厩寺記念館
入館料:大人200円 小中学生150円
信玄や信繁、山本勘助の絵や、
信繁が着用した鎧・兜・刀・槍の柄、鶴の足の鞭、
謙信の鉄扇などが置いてあります。

1クリックで1票、応援お願いいたします。
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村

こちらもポチっとお願いします。とても励みになります。

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行

Tag : 逸話 武田信玄 武田信繁 真田幸村 長野県

上杉謙信の隠し湯 越後の秘湯で目の保養

貝掛温泉の開湯は鎌倉時代の白雲禅師といわれ、700年の歴史があります。

戦国時代は上杉謙信が関東攻略の際、将兵の英気を養い、傷を癒すために貝掛温泉に浸からせたと伝わります。
江戸時代には「目に効く温泉」として文献で紹介され、多くの人が訪れ、昭和の初めまで温泉を使用した「貝掛の目薬」が販売されていたといいます。
また現在でも全国から目の病にかかった人や、パソコンで目を酷使する方、ドライアイの方にも愛されています。
その効果を期待するには、温泉の湯で目を洗うのだそうです。

上杉謙信ゆかりの地・史跡
近くには、上杉謙信も歩いたという越後三国街道石畳の道があります。
大名や重臣だけでなく、名もない雑兵たちの汗や涙や思いも染み込んだその道を歩いて、戦国の時代に思いを馳せてみてはいかがでしょうか?

荒戸城
御館の乱の際に、北条氏の侵入を阻止するために上杉景勝が深沢利重、登坂与衛門尉らに命じて急遽築城されました。
遺構の保存状況がよく、本丸跡・二の丸跡・三の丸跡の曲輪・土塁を見ることができます。

▽おすすめの宿
貝掛温泉館(かいかけおんせんかん)
奥湯沢の秘湯を守りつづける庄屋造りの一軒宿で、周りは山木と渓流に囲まれ、近隣にコンビニや、湯上がり一杯のラーメン屋もありません。
「秘湯」の名にふさわしい「大人の隠れ宿」です。
(じゃらんnet提供)

1クリックで1票、応援お願いいたします。
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村
こちらもポチっとお願いします。とても励みになります。

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行

父・輝宗の初七日を終えた伊達政宗が、二本松城攻撃を開始(今日は何の日)

10月15日 天正13年(1585)

10月8日の記事(伊達政宗、畠山義継を父・輝宗と共に討つ)の続きになります。

伊達政宗の父・輝宗の遺骸は小浜近くの寿徳寺で火葬されました。
そして憎き畠山義継の亡骸を小浜の城下に、磔にして晒した といいます

政宗は輝宗の股肱の臣だった遠藤基信に遺骨を預けて法要を頼み米沢へ帰します。そして自身は小浜に残り、畠山家の居城・二本松城を攻める準備を整えます。
「父の復讐」、滾る闘志が全身から溢れ出していました。

そして輝宗の初七日が済んだ10月15日、政宗は伊達成実、片倉小十郎景綱、小梁川盛宗、原田宗時らを引きつれて、二本松攻めに小浜を出発しました。その軍団に従うものは3千。彼らもまた全身から殺気が溢れ出しています。

一方の二本松城でも、政宗が主君・義継の亡骸を苛んだと知り、一族郎党は涙を流し、政宗に対しては怒りを爆発させます。

そしてこの二本松城での弔い合戦は、激闘につぐ激闘、血で染めた修羅場と化し、多くの雑兵がそれぞれの主君のために命を落としました。

しかし、この時には二本松城をおとすことは出来ず、思いがけない大雪のため、政宗は一旦小浜に帰ることとなりました。

その後はこちらを参照

1クリックで1票、応援お願いいたします。
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村
こちらもポチっとお願いします。とても励みになります。

真田幸村ゆかりの地(NHK歴史秘話ヒストリアで紹介)

もうずいぶん前のことになりましたが、NHK歴史秘話ヒストリアで紹介された真田幸村ゆかりの地をまとめてみました。

真田昌幸・幸村が幽閉されていた地、九度山(くどやま)
和歌山県九度山町は、高野山の麓の町です。
最寄り駅は南海高野線の九度山駅になります。

真田の抜け穴
大坂城までつながっていて、
九度山脱出の時に使ったという伝説があります。
実は古墳の石室です。
和歌山県伊都郡九度山町九度山1339付近

真田庵
元は真田昌幸・幸村父子の屋敷跡です。
和歌山県伊都郡九度山町大字九度山1413
0736-54-2019


敷地内には、幽閉11年目に65歳で亡くなった昌幸の墓
昌幸を祀った真田地主大権現、宝物資料館があります。

真田宝物資料館
土蔵づくりの資料館です。
真田幸村が愛用したと伝えられる槍先や鎧などの
武具や書状、真田紐などが数多く展示され、
在りし日の真田一族の面影を偲ばせています。
真田庵敷地内 0736-54-2218

雷封じの井戸
真田庵の庭にあります。
屋敷に落ちた雷を、幸村が捕まえて井戸に封じ込め、
村人を落雷から救ったと伝わります。


より大きな地図で 真田の抜け穴 真田庵 を表示

町の雑貨屋さんでは「真田紐」が紹介されていました。
真田紐は、袋状のため丈夫で、鎧兜の紐に使われました。
幸村の家臣たちが真田紐を諸国で売り歩き、
徳川打倒のための情報を集めたと伝わります。

幸村からもらった手水鉢
個人の商店の庭にあるので場所の紹介は控えます。

その他、九度山町には至る所に六文銭が見られます。
また池波正太郎著の「真田太平記」に描かれている、
九度山を脱出する時に使った船渡は、
紀ノ川にかかる九度山橋の上流の深淵にあるそうです。
そこで幸村は女忍者お江に逢い、
大坂へ向かいます。

周辺の宿【九度山 中川旅館】
素泊り・真田十勇士おみやげ日本タオル付きプラン


九度山から少し離れます。

蓮華定院(れんげじょういん)
和歌山県伊都郡高野町大字高野山700
地図(クリック)
南海高野線の終点・極楽橋から高野山ケーブル~バス

古くから真田氏発祥の地・佐久の武士たちと
深い縁のあったお寺です。
幸村が焼酎を所望した書状のほか、
真田家の墓所があり、昌幸の位牌が残ります。


次は大阪へ移動します。

安居神社(やすいじんじゃ) 幸村終焉の地
真田幸村が大坂夏の陣で戦死した地と伝えられ、
真田幸村戦死跡之碑が建てられています。
手傷を負った幸村が寄りかかって休んだと伝わる
「さなだ松」は二代目になります。
大阪府大阪市天王寺区逢阪1丁目3−24
06-6771-4932

志紀長吉神社(しきながよしじんじゃ)
大坂夏の陣で、真田幸村が戦勝を祈願した神社です。
その際、伊達軍の銃弾の跡が残る六文銭軍旗と刀剣が
奉納されました。(刀剣は終戦後没収)
幸村が戦勝祈願をしたことから、江戸時代以来
勝利のご利益があるといわれます。
大阪府大阪市平野区長吉長原2丁目8−23‎ 
06-6709-1757


最後はぐっと飛んで宮城へ

当信寺(とうしんじ)
紋所は真田の六文銭。
片倉小十郎(二代目・重長)の室となった幸村の娘・阿梅や
次男・大八(片倉守信)の墓があります。
幕府から守信の調査命令が出された時、伊達家は、
守信の存在をひた隠しに隠したといいます。
本尊は幸村戦死の地、大坂天王寺から運ばれたもの。
宮城県白石市字本町62 0224-26-3473



1クリックで1票、応援お願いいたします。
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村

こちらもポチっとお願いします。とても励みになります。

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行

Tag : 真田幸村 和歌山県 大阪府 宮城県 片倉小十郎 真田昌幸

直江兼続の子・竹松のために開かれた五色温泉

NHK大河ドラマ「天地人」で直江兼続の子・竹松が病弱であることが語られていました。 

直江兼続は、眼を患った某僧が五色の湯に入って治ったという話を耳にし、生来の病弱に加え、両眼を病んでいた嫡子景明(竹松)のために、慶長14年(1609)、五色温泉に湯壷を開いたといいます。
浴舎や小屋を設け、大名並みに足軽60名に警護させ、長い湯治を行ったそうです。

実は天正年間、医者の薬で治らない奇病にかかった兼続が、五色温泉に湯冶に訪れ、快癒したという経験があったみたいです。

その五色温泉は、1300年ほど昔に役の行者が吾妻山中で五色の湯煙が立上るのを見つけ、温泉を発見したといいます。

五色温泉は炭酸水素塩泉で、そのお湯が含むカルシウムイオンやマグネシウムイオンには鎮静作用があり、けいれんや痛みをやわらげて炎症を抑える効果があります。

ですので、竹松の病がどんなものであったか分かりませんが、炎症性の目の病気(結膜炎、角膜炎、ブドウ膜炎)などには有効かもしれません。

▽五色温泉の宿
五色温泉 宗川旅館(むねかわりょかん)
秘湯好きにはたまらない、山あいの一軒宿(注:口コミ参照のこと)
立ち寄りも可能です。


(じゃらんnet提供)


1クリックで1票、応援お願いいたします。
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村
こちらもポチっとお願いします。とても励みになります。

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行

Tag : 逸話 直江兼続 山形県

真田家ゆかりの地で紅葉巡り 温泉三昧

真田幸村の兄である真田信之が初代藩主となり
信州真田家10万石の城下町となった松代。
先週「松代藩真田十万石まつり」で盛り上がった
ばかりの松代ですが、
この街には真田宝物館や、真田邸(新御殿跡)、
菩提寺など、真田氏関連の遺跡が多くあり、
また、武田信玄と上杉謙信の川中島古戦場善光寺も近く、
歴史ファンならずとも訪れたい所です。

そしてこれからの季節、紅葉が素晴らしいスポットでもあります。

松代城(海津城)は、永禄3年(1560)頃、
甲斐の武田信玄が上杉謙信の侵攻に備えて、
家臣の山本勘助に築城させたともいわれています。
永禄4年9月の第4次川中島の戦いでは、
武田信玄の本陣となりました。

武田氏滅亡後、織田氏家臣の森長可の居城となり、
江戸時代に入り、真田信之が入城し、以後、真田家の居城と
なります。

修理復元を行い、現在は江戸時代の姿に
限りなく近い状態で再現され、一般公開しています。

特に真田邸の紅葉は見事です。

真田宝物館・真田邸・松代城
住所 長野市松代町松代4-1
休館 毎週火曜日(祝日を除く)、年末年始
開館時間 9:00~16:30
入館料 大人500円 小中学生200円

長国寺 真田家の菩提寺
真田信之の霊廟(重要文化財)をはじめ、
歴代藩主の墓所、真田幸村・大助親子の供養塔があります。
本堂の屋根の鯱と、その下にある真田家の家紋六文銭が印象的。
長野県長野市松代町松代1015-1
境内無料(真田家墓所・霊廟見学300円、内部特別拝観500円別途)
霊廟の見学は1週間前までに申し込みが必要。

長野善光寺
広い境内の様々な場所で美しい紅葉を見ることが出来ます。
長野県長野市元善町491
026-234-3591
夏期4:30~16:30、冬期6:00~16:00

▽おすすめの宿
国民宿舎 松代荘
歴史の町松代にふさわしく、施設内の日本庭園など
景観にも配慮した公共の温泉宿。


▽おすすめの宿
信州松代ロイヤルホテル
【朝食付】歴史の街!城下町松代へ行こう!プラン






1クリックで1票、応援お願いいたします。
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村
こちらもクリックお願いします。とても励みになります。 

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行

Tag : 真田幸村 真田昌幸 真田信之 温泉 武田信玄 上杉謙信 長野県

戦国最強の水軍を創設した九鬼嘉隆 自刃(今日は何の日)

10月12日 慶長5年(1600)

九鬼嘉隆
戦国最強ともいわれる九鬼水軍の将として
「海賊大名」の異名を取った志摩の大名。

慶長5年(1600)、九鬼嘉隆の子・守隆は、東軍の徳川家康に従って
上杉討伐へ従軍していました。父・嘉隆は家康とは不仲だったため、
石田三成率いる西軍に身を投じます。

関ヶ原の戦いは、9月15日の1日で大勢は決し、東軍の勝利が
確定します。

そして関ヶ原の戦いの後、息子・守隆は家康に、西軍に味方した
父・嘉隆の助命嘆願を必死で行い、ついに家康から父の赦免状を
賜ります。

守隆は、早く父・嘉隆に喜んでもらおうと大坂より急使を走らせます。

一方、父・嘉隆は西軍の敗北を知ると、
答志島に逃れ潮音寺で出家します。

そしてそこへ一人の使者が到着します
それは、守隆からの使者ではなく、守隆の家臣・豊田五郎右衛門が独断で発したものでした。
豊田の使者は、嘉隆が生きていては九鬼家に災い・被害が及ぶと、暗に自決を勧める言上を行います。

嘉隆も「西軍に与した自分のせいで災いが息子に及ぶことは本意ではない」と決意。
慶長5年(1600)10月12日、ついに自刃します。

その直後、四男・主殿助も五男・五郎八も相次いで自刃し、
父の後を追っています。

豊田五郎右衛門は守隆が上杉討伐に行っている間、守隆から鳥羽城の留守居役を命じられていましたが、嘉隆の攻めに遭って鳥羽城を奪われており、嘉隆を怨んでいたといわれます。

これを知った守隆は怒り狂い、豊田五郎右衛門を「のこぎり引き」の極刑に処します。

「のこぎり引き」の刑とは・・・
地中に体を埋めて地上に首から上だけを出し、
竹製の切れ味の悪いのこぎりで、首を少しずつ引いて殺すという
残酷極まりないもの。
織田信長が考案したといわれる、戦国時代の刑罰の中でも
最も酷い処刑方法。


ゆかりの地・史跡
鳥羽城 三重県鳥羽市鳥羽町 石垣、本丸、説明板のみ

答志島(とうしじま)
九鬼嘉隆首塚、九鬼嘉隆胴塚、潮音寺(ちょうおんじ)
和具港もしくは答志港が近いです。
交通:JR東海・近鉄鳥羽駅~徒歩5分~佐田浜港~定期船(リンク)~答志島

おすすめの宿
答志島温泉 寿々波
鳥羽湾を見下ろす絶好のロケーション。
夕日が綺麗な最上階の展望風呂で、答志島温泉湯が楽しめます。
夕食は、伊勢海老アワビなど獲れたて新鮮海の幸を海を見下ろすお部屋で堪能できます。
好評の若女将エステは1日3組予約限定です!

(じゃらんnet提供)

1クリックで1票、応援お願いいたします。
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村
こちらもポチっとお願いします。とても励みになります。

テーマ : 戦国時代 - ジャンル : 学問・文化・芸術

Tag : 逸話 織田信長 羽柴秀吉 九鬼嘉隆 九鬼守隆 豊田五郎右衛門 徳川家康 三重県 温泉

大徳寺で織田信長の追善供養(今日は何の日)           総見院 秋期特別拝観!

10月11日 天正10年(1582)

天正10年6月2日、明智光秀が京都本能寺に織田信長を襲い、
信長は炎上する本能寺にて自刃します。享年49。
光秀の子孫が解き明かす「本能寺」の謎、驚愕の真実
Amazon.co.jp通販サイト/Amazon


9月13日、羽柴秀吉は、大徳寺へ織田信長の葬礼にあたり、
銭10,000貫文、葬礼用に不動国行の太刀、葦毛の馬、
梨地金覆輪で桐鳳凰入の鞍、梨地桐鳳凰入の鎧を納め、
葬儀の準備しています。(梨地とは蒔絵の一種です)

そして天正10年10月11日
大徳寺において織田信長の追善供養が始まりました。


10月15日には、羽柴秀吉によって、大徳寺で葬儀が
執行されます。

翌年の天正11年6月2日、羽柴秀吉は、
大徳寺に総見院を創建し、信長の一周忌法要を執行します。

この際、織田信長の遺骨が阿弥陀寺にあると聞いた羽柴秀吉は、
遺骨の引き渡しを申し入れます。
しかし阿弥陀寺の清玉上人はこれを拒否。
やむなく羽柴秀吉は遺骨の代わりに信長の木像を作り、
大徳寺で盛大な追善供養を行いました。

信長の木像は2体作られ、そのうちの1体はこの時に
火葬され、残る1体が総見院に残されています。


総見院は、普段は拝観謝絶ですが、春と秋に特別拝観という形で
公開され、この信長の木像も見ることが出来ます。

大徳寺総見院 秋期特別拝観 実施中!
【住所】京都市北区紫野大徳寺町
【電話】TEL:075-231-7015(京都春秋事務局)
【交通】JR京都駅、四条河原町、三条京阪から市バス
「大徳寺前」下車 徒歩5分
【期間】10月11日~12月6日
(拝観休止日:11月6日、7日、22日、28日)
(拝観午前休止日:10月22日、26日、11月2日)
【時間】10:00~16:00
【料金】一般 600円

蓮台山 阿弥陀寺
境内には織田信長公と嫡男・信忠公の墓所、森蘭丸・坊丸・力丸兄弟の墓所があります。
また手水鉢には織田家の家紋「木瓜」が刻まれています。
【住所】京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町14
【拝観料】無料(6月2日のみ堂内開放、拝観料:1,000円)
【拝観時間】9時~16時


大徳寺・阿弥陀寺周辺の最安ホテルはこちら
 シャトレーイン京都
(じゃらんnet提供)

大徳寺・阿弥陀寺周辺のホテル・旅館一覧はこちら

1クリックで1票、応援お願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村

こちらもポチっとお願いします。とても励みになります。

テーマ : 戦国時代 - ジャンル : 学問・文化・芸術

Tag : 織田信長 羽柴秀吉 明智光秀 京都府

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。